軽くなった足取りのその先。職員室では近郷先生が待っていた。
 近郷先生は退屈そうにしているか、イライラしているか、そのどちらかしかなくて、とてもシンプルな人だ。
 いまは貧乏揺すりをしているからイライラの方。
 その原因はやっぱりわたしなんだろうな。

 檻の鍵を先生の机に置くと、バッとつかんでわたしに突き返した。
「なんで私がやらないといけないの。自分で戻しておきなさい」

 なんでわたしなのか、それはこっちがいいたいが、しぶしぶ受け取る。
 せめて飼育係の仕事を押しつけられたことはいっておきたい。綾葉ちゃんはウソをついているのだと。
 でも、ウサギを逃がしたのはその腹いせじゃなくて、ウサギ自身が出たがっていたからだといっても、言い訳していると思われそう。
 先生の目を見ればわかる。明らかに面倒くさそうだった。

「ウサギを自分ちに連れて帰ったわけじゃないよね?」
「ちがいます」
「どうせ扉を開けっぱなしにしてたんでしょ」
 カチンとくるほどイヤないいかただったが、ちょっと考えてしまった。
 わざと逃がしたっていうより、ヘマをして逃げられてしまったというほうが聞こえがいい。
 先生だってそのほうが指導する側としても楽なんじゃないかな。
 悪いことをしたんじゃなくて、不注意だったんです――わたしはもじもじと、それっぽい態度でうつむいた。
 だけど先生にその手は通用しなかった。わたしのすべてが不満らしい。

「そそっかしいではすまないよ。なんでそのときにいわないの。今さら探しても、もうどこかへ行ってしまっているだろうけど、放課後、あなたも探すのよ。余計な仕事を増やして。私までつきあわなきゃいけないじゃない。なんであなたみたいなやっかいな子の担任にならなきゃいけないのよ。うんざりだわ」

 先生のお話は一方的であきてきた。
 広い職員室で、他の先生がどうしてるか気になるけど、よそ見したらさすがにまずいので、ジッとこらえる。
 すると、ブツブツと小言をいってる先生の前にツツーとアオムシくんが現れた。
 天井からクモの糸のような透明な糸が垂れ下がっている。
 アオムシくんはいつも腹ぺこだ。なんでも食べてしまう。丸々と太っているのに、細い糸にぶら下がって、よく切れないものだ。

 ゆらゆらしながら先生の小言をムシャムシャと食べる。
『おいしいかおいしくないかといったら、おいしくはない』
 とりあえず文句をつけるアオムシくんだけど、こぼしたりすることはない。わたしの耳に入ってくる前に、アオムシくんの胃袋へ吸い込まれていった。

『もうちょっと右だったら食べやすいのに』
「え? 右ってどっち」
 つい反応してしまうと、先生は顔を真っ赤にして肩を震わせた。
 なにかよくないことをいってしまったみたい。だけど他の先生がいる手前、怒鳴ることはおさえているらしい。

 先生の口からうなり声が聞こえてきた。
 アオムシくんも退散してしまっているから、耳をふさぎたくなる。
 先生は低い声でピシャリといった。
「右回りでもどっちでもいいわよ。グラウンド10周まわって探し出してきなさい」

 またなにかをいわれないうちに職員室を飛び出した。
 ドアを閉めようとして気づく。あまりにあわてていたから、鍵をにぎりしめたままだった。
 近郷先生の方を見ないようにして鍵を置いておく場所に返しておく。出入り口近くの壁に掛けておくだけだ。
 盗難にあってもふしぎはない場所。綾葉ちゃんのことを気遣わずにさっさと返しておくんだった。

 おかげでグラウンド10周だ。
 とてもじゃないけど、放課後にそんな時間はない。
 だったら今からまわればいいのかな。そうだよね。エサの時間が朝なら、お腹がすいて帰ってきてるかもしれないし。
 わたしはそのあしでウサギ小屋へ行ってみた。

 もぬけの殻であるはずなのに、檻の中では箱がひっくり返っていて驚く。
 合い鍵でだれかが入ったのかな。
 それとも、檻の外から手を差し入れて、ウサギが隠れてないか箱をひっくり返したのだろうか。
 ともかく、周辺にもウサギはいなかった。足跡だって残ってない。

 ウサちゃんが現れて、わたしのスカートの裾を引っ張った。
『こうなったら逃げていったあとを追ってみよう』
「うん!」
 ウサちゃんと一緒は心強い。
「きのう、走って行ったのはこっちのほうだったよね」

 ウサちゃんとふたりで向かう。
 学校を囲っているフェンスの周辺は雑草が伸び放題だった。
 そばまで寄ってみると、草が踏み倒されて、細く道筋が出来ている場所があった。

『やっぱり! ここを通って出て行ったんだよ』
 その先は金網がやぶれていた。ウサちゃんでも通り抜けられないほどの小さな穴だ。

 フェンスはわたしの身長よりも低い。わたしとウサちゃんはフェンスを乗り越えて学校の敷地外へ出た。
 草むらに細い道筋が右へ曲がっているので、たぶんそっちのほうへ行ったのだろう。
 歩道に出てきて痕跡は消えているが、わたしたちは右方向へと歩いて行った。茂みの中を注意しながら見ていくけど、なにもひそんでいなかった。

 とうとう学校の敷地が終わって十字路に出る。右にそっていけば、また学校の敷地をぐるりとまわることになるが、どうしよう。
「どこへ行ったのかな」
 ウサちゃんに問いかけると、ウサちゃんは鼻をヒクヒクとさせた。
『いいニオイがする』
 わたしも鼻に集中すると香ばしいニオイがしてきた。
「焼き鳥屋さんだ」

 まっすぐ行ったところに炭で焼いてる焼き鳥屋さんがある。ほんとにたまにしか行かないけど、秘伝のタレがたっぷりついていておいしいのだ。
『このニオイにつられたかもよ』
「お腹すいてるもんね」

 信号を渡って焼き鳥屋さんまでやってきた。
 店の前をウロウロとしていたら、お店の人に声をかけられた。
「どうしたの。学校があるんじゃないの?」
「ウサギを探してるんです」
「ウナギ?」
「いえ、ウサギです。学校で飼ってるウサギが逃げてしまったんです」
「そう……。ウサギって小さいから、ここを通ったとしても気づかないかもね。フンとかしてれば、どこを通ったかぐらいはわかるかもしれないけどさ。でも、今、授業中でしょ? 先生は?」
「だいじょうぶです」
 ウサちゃんに『早く』とせかされて、わたしはお店の人に頭を下げるとかけだした。

『おせっかいなおばさんだよね』
 ウサちゃんは悪態つきながら二本の足で走っていた。左右のバランスが悪くてこけそうだ。
「でもいいこと聞いたよ。フンを見つけるってのは、いいアイディアだよ」
『そうだね。空腹でも腸内に残っている物が全部排泄されるまでには相当な時間がかかる。この辺でウサギくらいの小さな動物がうろついてることはめったにないだろうから、それらしいフンを見つけたら学校のウサギである可能性は高い』

 そういってる矢先だった。
 コロコロとした黒い小石のような物を見つけた。きのう、檻の中で見たウサギのフンに似ている。
 ウサちゃんが茂みから小枝を探し出してきた。これで確認しろってことか……

「わたしがやるしかないよね」
『うんっ』
 キラキラした目でせかされた。
 やるしかない。小枝の先端を押しつけると、ムギュッと形が崩れた。
『フンだね』
「フンだね」
『水を飲むために川原にでも下りたかな』
 ちょうどここは市と市の境に流れる川があり、大きな橋が架かっていた。わきから土手を下ると川原へ出る。

「ウサギなら、自然っぽい場所が好きそうだし」
『行ってみよう』
 急斜面を滑り落ちるように川原へ下りた。
 草むらになっていて、どこまでが岸かもわかりづらく足場も少ない。川の流れも速くて、ここを根城にするのは危険そうだった。
「顔を突っ込んで水を飲んでたら流されてしまいそう」
『ウサギの無事を祈るよ』

 そのときだ。
「イチゴちゃあぁん!」
 悪魔のような叫びがとどろいた。
 声がした方を見上げると、橋の上から身を乗り出した近郷先生が遠目でもわかるほど目をつり上げてこちらを見ていた。
「そんなところでなにしてるの!」
 先生がまた説教をしようとしている。

 わたしはうんざりとしてウサちゃんにぽつりともらした。
「ウサギを探してるに決まってるじゃんね」
『わかってて聞いてるんだよ。返事してあげたら?』
 聞き分けのいいこといってるウサちゃんだけど、声を押し殺して笑ってる。どんな返事をしたところで、また先生にガミガミいわれるに決まってるんだ。

 なんだか気が重い。
『無視してると怒られる』
「一応、わたしのことを探しに来てくれたみだいだけど……」
『自分が責任を問われることになるからかもね』
「わたしも、ウサギも、いなくなったところで、先生はなんも心配してないってことか」
『どうだろ。ともかく先生はあなたを見つけた。あなたはウサギの手がかりを見つけた。グラウンド10周したところで見つからないって、教えてあげないと』
 たとえ手がかりにはならなかったとしても、グラウンド10周はいやだ。

「返事くらいしなさい!」
 さっきより声が近いと気づいたときには、ズルズルッと先生が土手からすべり落ちてきた。スカートがめくれ、ストッキングは破けているし、靴は片方どこかへいってしまって足の裏まで痛そう。
 絵に描いたようなドジっぷり。ウサちゃんが笑うから、つられてわたしも笑ってしまった。

「笑い事じゃない!」
 先生はわめきながら、子供みたいに座り込んだままジタバタした。そんな大人は見たことなくて、おどろいたわたしはウサちゃんにすがりつく。

「なんで私がこんな目にあうの。あなたの担任になったことが運の尽きだわ。去年受け持ったあなたの担任からもお願いねって申し渡されて、あなたの母親からも面倒をかけますがって頼まれて、たったそれだけで、なんで私が業務以上のことをやらなきゃいけないの。あなたの親が育て方を間違ってるのに、私が尻拭いをさせられてるのよ。いっそのこといじめられて、学校に来なくなった方がよっぽど楽だわ」

 いってることの半分もわからないが、悲しくなってきた。
 シマネコのポンチョもアオムシくんもあまりにビックリしすぎて橋の上から見ているだけだ。

「焼き鳥屋のお店の方から学校に電話があったわよ。ウサギを探してウロウロしている小学生がいるって。授業もサボってるし。あなたしかいないじゃない。――ねぇ、どこ見てるの。人の話はちゃんと聞きなさい。そんなところにはね、なにもいないの。ここにもね、あなたのすぐそばには、私しかいないのよ!」

 先生は平手でバチンとウサちゃんを張り倒した。
 それがものすごく勢いがよくて、ウサちゃんは宙を舞い、川に落ちてしまった。

「ウサちゃん!」
 助けなきゃ。今度はわたしがウサちゃんを助けるの。川に飲まれていくウサちゃんを見てわたしは走り出した。
「止まりなさい!」
 耳をつんざく声がしてもひるまなかった。
 ウサちゃんは一番のお友達だから。友達なら助けるのが当たり前でしょ?
 だけど、草に足が取られて思うように走れない。

 ――飛び込んだ方が早いよ

 だれの声? だれだかわかんないけど、たぶんそのとおりだ。
 わたしは思い切って川に飛び込む。

 プールとは違って足はつかなかった。
 泳ぐこともできないし、浮くこともままならない。水をたくさん飲んで苦しくて。
 それでもウサちゃんを探さなきゃ。
 カッと目を見開いて、水の中をよく見ていたら、ウサちゃんが水底で手招きしているのが見えて……