春の空気は少し肌寒いけれど、街路樹の桜は見頃を迎えていた。
春の光がまだ柔らかく、桜の花びらが風に舞う登校道。
登校途中の歩道を、私は遥桜と並んで歩いていた。
「ねえ、小春。今年こそ一緒のクラスがいいよね」
遥桜が屈託なく笑う。
私は頷きながら「そうだね」と返事をしたが、心の奥は落ち着かなかった。
――昨日の、あの人。
図書館でぶつかったときの驚いた瞳、ふっと笑った横顔。ほんの数秒の出来事が、夜になっても頭から離れなかった。今朝だって、支度をしながら何度も思い出してしまった。
名前も知らないのに、あの横顔はまだはっきり思い出せる。
人との関わりは苦手で、できるだけ目立たず過ごすのが私のやり方だった。
それなのに、あの人だけは何故か心臓をざわつかせる。
「どうしたの?緊張してる?」
遥桜に覗き込まれて、私は慌てて首を振る。
「う、うん……ちょっとね」
自分でも理由の分からない胸のざわめきを誤魔化すように。
校舎に近づくと、玄関前に人だかりができていた。
新しいクラスの名簿が貼り出されている。
生徒たちの声がざわざわと飛び交い、春の朝はいつになく騒がしい。
「わ、いたいた!ほら、小春!」
遥桜が指さす先には「二年三組」の名簿。
佐倉小春と遥桜の名前が同じ名簿に並んでいた。
「一緒だよ!」と嬉しそうに笑う遥桜の声を聞きながら名簿の文字を目で追った瞬間、なぜか胸がざわついた。
「白川朔――」
名前を見ただけなのに、心臓が小さく跳ねる。
理由なんて、自分でもわからなかった。
喉が詰まりそうになりながら教室に向かう。
席に着いても落ち着かず、何度も入口の方へ視線が吸い寄せられる。
「小春、緊張しすぎ。ほら、深呼吸」
遥桜が呑気に笑って、背中を軽く叩く。
「……うん」
私は小さく返事をした。
教室に足を踏み入れた瞬間、胸がふっと止まった。
窓際の席に腰を下ろしていた一人の姿に、目を奪われる。
――昨日、図書館でぶつかった人。
記憶の中の横顔と、目の前の横顔が重なっていく。
信じられないような偶然に、鼓動が早くなる。
けれど、声をかける勇気なんて出なかった。
――また会えた。
その事実だけが、鼓動を早め続けていた。
「出席番号順に座って」
担任の声に促され、私は指定された席に腰を下ろした。
直後、背後で椅子が引かれる音。空気がふわりと揺れる。
心臓が、不自然なほど早く跳ねた。
――わかる。振り返らなくても。
昨日、図書館で目が合ったあの人が、今まさに私のすぐ後ろにいる。
背中越しに伝わってくる気配。
紙が擦れる音、呼吸のリズム。距離にすればほんの数十センチなのに、やけに近く感じる。
意識すればするほど、胸の奥がざわめいて、担任の声は遠く、教室のざわめきも薄い膜の向こうにあるみたいで言葉はどこにも届かなかった。
「はい。では次、佐倉」
不意に自分の名前が呼ばれて、意識が現実に引き戻され反射的に立ち上がった。
「佐倉小春です。よろしくお願いします」
声が震えたのを自分でわかるほどで、逃げるように椅子へ戻った。
ぱらぱらと拍手が響くけれど、それもすぐ背後に吸い込まれていくようだった。
「では次、白川」
たった一言で、呼吸が止まる。
その瞬間、背中越しに低く落ち着いた声が響いた。
「白川朔です。よろしくお願いします」
名前。音。響き。
背中に触れた声の余韻が、心臓の鼓動と重なって離れなかった。
振り返りたい。
けれど、できなかった。
ただその存在を背中で受け止めて、胸いっぱいに刻みつけることしかできなかった。
ただ名前を知っただけだったのに、こんなに胸が苦しくなるなんて…
拍手が終わっても、先生の言葉が続いても、頭には何ひとつ入ってこなかった。
その後担任から配られたプリントが列ごとに回されてきた。
私は一枚を抜き取り、そっと後ろへ差し出す。
指先が触れた。
一瞬で心臓が跳ね上がるのがわかった。
「……ありがとう」
低い声が背後から落ちてくる。
「昨日も、図書館にいたよね?」
思わず振り返る。
近くで見たその瞳に、言葉を失った。
「……やっぱり」
彼は小さく笑う。
胸の奥が熱くなって、必死に「はい」とうなずくことしかできなかった。
「まさか同じ学校だったなんてね。これから一年、よろしく」
そう言って彼がふっと笑った瞬間、胸の奥が一気に熱くなった。心臓の音ばかりが耳に響いて、言葉を返す余裕なんてなかった。
ただ、その笑顔に視線を奪われたまま、呼吸さえ忘れてしまいそうだった。
昨日の出会いが夢じゃなかったんだ――そう胸の奥で確かめながら、鼓動が速くなっていく。
気づけば、頭の中は彼のことでいっぱいになっていた。
チャイムが鳴り、教室がざわめきに包まれる。
隣同士で席を立つ音、友達同士の会話。
それらが一気に押し寄せてきて、ようやく現実へ引き戻されたような気がした。
「小春!」
弾むような声に顔を上げる。
視界に飛び込んできたのは、遥桜だった。
久しぶりに同じクラスになった喜びを隠しきれないように、彼女は笑顔で机に寄ってくる。
「ねえねえ、今年もよろしくね!」
その笑顔に釣られるように私も小さく笑う。
けれど、頭の片隅ではまだ「白川朔」という名前が脈打つように響いていた。
背中に感じていた気配を思い出すたび、胸の奥が静かに熱を帯びていく。

