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翌日…
私はいてもたっても入れなくて電車に乗って昨日の図書館に向かった。
電車に揺られながら、窓の外を眺めていた。
昨日見かけた彼が、今日もあの図書館にいるだろうか。
いるかもしれないし、いないかもしれない。
そのたびに胸の奥で、期待と不安が小さく波打つ。
線路沿いに並ぶ桜が、風に揺れている。
満開の枝から花びらがこぼれ落ち、車窓の向こうでひらひらと舞い散った。
春の景色はどこまでも鮮やかで、どこまでも眩しい。
けれど、私は春が嫌いだった。
新しい出会いも、人と人との関わりも、ただ面倒で、苦しいだけのもの。
——そう思っていたはずなのに。
知らない人ひとりに心を奪われて、また同じ場所へ足を運ぼうとしている。
桜が散る拍子に揺れる心は、もう見て見ぬふりができなかった。
図書館に着くと、私は自然と昨日彼を見かけた場所へと足を向けていた。
あの書棚を曲がれば、きっと――。
心の奥で小さく祈るように願いながら、角をそっと曲がる。
……いない。
胸の中で、期待の糸が静かにぷつりと切れる。
そうだよね。昨日そこにいたからって、今日も同じようにいるはずなんてない。
私は人と関わることが苦手で、ずっと距離を置いてきた。
なのに、どうしてこんなにも彼のことばかり気にしているんだろう。
期待してここまで来た自分が、なんだか少し恥ずかしく思えた。
諦めて帰ろうと、そう思い振り返った瞬間──
「わっ」
振り返った拍子に、誰かとぶつかってしまった。
「すみません」
そういいながら顔を上げた瞬間──目の前にいたのは、昨日見かけたあの人だった。
その光景はまるで世界がスローモーションになったのではないかと思うぐらい時間がゆっくりだった。
視線が重なり、胸が一瞬にして熱を浴びる。
だけど私は耐え切れず恥ずかしくなりとっさに顔をそらしてしまった。
「大丈夫?けがとかしていない?」
低く落ち着いた声が頭上から聞こえてくる。
身長が高くスラっとしてスタイルを持っている彼は、心配そうな顔で少し屈んで私の顔を覗き込んでくる。
思ったよりもずっと近い距離に、息が止まりそうになってしまう。
ほんのりと香る柔らかい匂い。長い指先が、肩に触れそうで降れない距離を漂う。
その仕草一つ一つが胸の奥を不器用に揺らしてくる。
言葉を返さないといけないと思うのに、のどがうまく動かない。
ただ、自分の鼓動の音が、どんどん大きくなって響いていた。
「…だ、大丈夫です」
かろうじて、声を絞りだすと、彼は安堵したように息をついた。
その仕草に私の胸がまた高鳴ってしまう。
けれど、次の瞬間…
「昨日もいたよね?君」
不意の言葉に心臓が止まりそうになる。
ーー見られていた。
思わず視線を伏せるけれど、彼の瞳は逃げ場を与えてくれない。
夕暮れのざわめきの中で、たった二人だけが切り取られたように静かだった。
返事をしようと思っても、唇が震えて言葉にならない。
彼は少し笑みを浮かべ、待つようにこちらを見ていた。
「はい、多分」
自分でも情けないくらい小さな声。
「そっか」
彼は一瞬、目を細めるようにして私を見つめ、ふっと笑身を浮かべたまま、それ以上何も言わなかった。
ただ彼は手に持っていた本を軽く持ち直し、すっと背を向けて歩き出した。
私は呼び止めることもできず、ただその背中を目で追うだけだった。
けれど、その笑みは私の胸に不思議な温度を残した。
図書館の静けさの中で、残されたのは私の心臓の速さだけだった。
図書館を出てからも、胸の鼓動は落ち着かなかった。
夕方の風が頬を撫でても、桜の花びらが道端に舞い落ちても、心の中は静かまらない。
あの人の横顔だけが、頭の中で何度も何度の再生されていた。
名前も、年齢も、何もわからない。
けれど、本を持ち直して去っていった背中を思い出すだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
家に帰ってからも、食卓の会話なんて耳に入らなかった。
湯気の立つお茶を口にしても、夕飯の味も何も覚えていない。
ただ、心の片隅に、図書館の静けさと彼の笑みだけが残っていた。
『昨日もいたよね?』
その一言が、こんなにも心を掻き乱すなんて。
少し驚いたように、でも楽し気に目を細めて笑った彼。
ほんの短い瞬間だったのに、脳裏に焼き付いたみたいに離れなかった。
夜になっても、それは同じだった。
灯りを消して横になっても、暗闇の中に浮かぶのは彼の顔ばかり。
まるで今日という一日のすべてを、あの瞬間が塗り替えてしまったようだった。
ーーどうしてこんなに。
自分でも答えはわからない。
けれど、気づけば「また会いたい」と願ている。
名前も、年齢も、学校も。どこに住んでいるのかもわからない。そんな人をこんな風に思うなんて。
眠れない夜。
遠くで風が揺れる桜の枝の音を聞きながら、彼の笑顔をそっと抱きしめるかのように瞳を閉じた。

