春が来るたび、私は少しだけ立ち止まってしまう。
鮮やかなピンクに染まった桜並木。ひらひらと舞う花びらの下で、笑い声が風に溶けていく。
誰かの足音、誰かの笑い声。そんな春の音が、今でも胸をざわつかせる。
宅配ボックスに届いていた小包には、懐かしい名前が書かれていた。
差出人は、白川朔の母――それだけで、胸の奥がひときわ強く疼く。
部屋に戻り、そっと箱を開けると、中には丁寧に包まれたスマートフォンが入っていた。
指先が自分でも驚くぐらい震えてる。電源を入れるのを、何度も迷った。
だけど私は、もう一度彼に触れたくて、そっと電源ボタンを押した。
懐かしいホーム画面。写真フォルダの中には、ひとつだけ名前がつけられたアルバムがあった。
開いたその瞬間、画面に映った言葉に、息を飲む。
「小春へ。僕がいなくなっても、どうか君が君らしくいられますように。」
胸の奥に、あの日と同じ風が吹いた気がした。
言葉がこぼれ落ちる。
「……ずるいよ、朔」
――春になるたび思い出す。
来年の桜も、再来年の桜も、ずっと一緒に見ようって、君は笑って私に言った。
その約束は、あまりに優しくて、残酷だった。
忘れようとしても、忘れられない。
季節は何度も巡ったのに、私の心だけが、あの春のままで止まっている。
大学の正門を抜けた先、ふと足が止まった。
すれ違った誰かの背中を、私は目で追ってしまう。
そうだ、あの日も桜が咲いていた――
***
春が嫌いだ。
桜が咲き誇るこの季節は、誰かにとっては新しい出会いの始まりでも、私にとってはただ息苦しいだけの季節だった。
きらめく花びらの下で笑い合う人たちを見れば見るほど、そこに混じることのできない自分が際立ってしまう気がする。
私は昔から、人と関わることが得意ではなかった。
むしろ苦手で、できることならひとりでいたいと思っていた。
子供のころ、仲の良かった子に「親友だよね」と笑いかけられた次の日には、別の誰かと楽しそうに手をつないでいる。
そんなことが何度も繰り返されるうちに、人に心を預けることが怖くなった。
裏切られるわけじゃなくても、置き去りにされるだけで十分に傷つく。
だったら最初から期待なんてしなければいい。
そうやって、私は人間関係に背を向けるようになった。
それでも。
そんな私のそばに、なぜかずっと残ってくれた子がいる。
成瀬遥桜。私の幼馴染であり親友。
彼女は私とは正反対で、いつも人に囲まれているタイプ。
明るくて、クラスの中心にいて、誰からも好かれる存在。
彼女は子供のころから、ずっと変わらずそこにいた。
みんなの輪の中にいるはずなのに、遥桜が選ぶのはいつだって私だった。
班決めでも、クラス行事のの班分けでも、声をかけられる相手は山ほどいるのに、彼女は迷わず私の名前を呼んでくれる。
そのたびに、私は安心した。
この子は私をひとりにしない。
そう信じられる、唯一の存在だった。
正直、彼女にとって私はお荷物なのではないかと何度も思った。
もっと明るくて楽しい友達のほうが、遥桜には似合うはずだ、と。
だけど、私が不安に沈むたび、彼女の笑顔はそれを打ち消してしまう。
嘘のない眼差しが、私を何度でも救ってくれた。
春が嫌いな私にとって、遥桜は唯一の“春”だった。
それだけで、この先も十分だと思っていたのに——。
けれど昨日、SNSでふと見かけた一枚の写真が、そんな私を動かした。
隣町にある少しレトロな図書館。古いレンガ造りの壁と柔らかな光の差し込む窓。その一瞬を切り取っただけの投稿なのに、なぜか胸の奥がざわついた。行かなければいけない、そんな衝動に駆られて。
家から電車で三十分ほど。大げさな決意をしたわけじゃないのに、気づけば私は家を出て駅へ向かっていた。
車窓の外には桜並木が流れ、風に舞った花びらがひらひらと窓越しに散っていく。春が嫌いなはずなのに、その景色を目で追ってしまう自分がいた。
そして、図書館の前に立ったとき、不思議な感覚に包まれた。
初めて来る場所のはずなのに、どこか懐かしい――そんな気持ち。
中に入ってみると動画で見たよりもレトロな雰囲気が広まっていて、私の心を揺さぶった。
背表紙に指を滑らせながら、静かな書架の間を見回った。どの本を手に取ろうか迷って、何度も首を傾げた。
ふと、視線を漂わせるように視線が窓のほうに流れた。
その瞬間、目に飛び込んできたのは一人の青年の姿だった…机に広げた本に向かい、真剣なまなざしで文字を追っている横顔。
ただそれだけなのに目を奪われてしまった。
ちょうど窓から風が入り込んで白いカーテンがふわりと揺れた。
その揺れの向こうで彼が顔を上げる
──あ、目が合った。
胸の奥で、小さな音がした。一瞬なのに永遠みたいに長い。ただそれだけなのに、鼓動は抑えきれないほど早くなった。
慌てて視線を逸らそうとしたのにできなかった。
本を探していたはずなのに、どうしてかもう目は彼から離せなかった…
窓辺から差し込む光の中で、彼は静かに顔を上げ、わずかに微笑んだ。
声も言葉もなく、それだけで十分だった。
その微笑みは派手でも強烈でもない。
けれど、心の奥深くに小さな灯りをともされたようで、温かさがじわりと広がっていく。
次の瞬間、風に揺れたカーテンがその姿を隠す。
残されたのは胸のざわめきと、どうしようもない余韻だけ。
なぜだか分からないけど…
でも、もう忘れられない気がしていた。
夜、ベッドに横になったとき、ふと今日のことが頭に浮かんだ。
探していた本の題名も、歩いた書架の並びも、曖昧になっているのに。
窓辺で見た彼の姿だけは、やけに鮮明に思い出せてしまう。
――どうしてだろう。
名前も知らない。年齢も、どこの学校なのかも…
ただほんの数秒、目が合っただけ。
それだけのはずなのに、考えるだけで胸の奥がじんわり温かくなる。
思い返すたび、彼の微笑みが心の奥で灯りみたいに残ってしまう。
目を閉じても脳裏に浮かんで消えなくて、かえって鮮やかになる。
こんな気持ちになったことなんて今までで一度もなかった。
私は今日の出来事を、すぐに遙桜へと連絡した。
『……ってことがあったんだけど』
『えぇ! 小春に春が来た!?』
『そういうんじゃないよ……でもね、今日のことを思い出すと胸がぎゅってなるんだ。話したわけでもないのに』
『それって一目惚れじゃない?』
一目惚れ。
ドラマや恋愛漫画の中だけの言葉だと思っていた。
ずっと現実には起こり得ない、どこか作り物めいた出来事だと。
だけど――あの瞬間、視線が交わった途端に息が詰まって、心臓の音が自分の鼓膜を叩いた。
遙桜の言葉は、驚くほど今の私にぴたりと重なった。
『私、どうしたらいいと思う?』
『んー、明日もまたその場所に行ってみれば? もしかしたら、彼もいるかもしれないし』
『……そうだね。ありがとう。明日、行ってみるよ』
通話を終えても、心は落ち着かなかった。
図書館で見かけた彼の横顔、少し伏せた睫毛、何気ない仕草――思い出せば思い出すほど、胸の奥が熱を帯びて苦しくなる。
気づけば、自分の頭の中は彼のことでいっぱいになっていた。
明日、又あの場所に彼はいるだろうか。
いないかもしれない。きっといない可能性の方が高い。
それでも――“もしかしたら”という小さな可能性を思うだけで、知らず知らず頬がゆるんでしまう。
春が嫌いなはずの私の中に、ほんの少しだけ春の匂いがした。

