午前2時。
さえない私が、唯一輝ける時間。
1.モスローズ
「ねえ、あちらの方は」
知っている。この後何を言われるのかなんて。
「ええ。ステラ組の『モスローズ』ですわね」
「相変わらず醜いわ」
「お姉さまたちはあんなに美しいのにね」
慣れている。
こんなこと、何度も言われてきた。
今更傷つくはずもない。
平気。
私はまだ、平気。
「しかも、捨て子なんですって」
ええ、そうです。
私は捨て子です。
あまりにも冴えない見た目をしていたから、
捨てられました。
奇跡的に拾ってくれたのが、貴族の方だったから。
こうして、名門貴族学校に通っているわけです。
みなさんと釣り合うはずもありません。
「だからお姉さまたちと違って、あんなに醜い顔立ちをしているのですね」
醜いとか。
汚いとか。
いわれすぎて、普通のことのようになってきた
今日このごろ。
確かに、義姉は3人とも美しい。
長女であるリリアナお姉さまは、
校内一の頭脳の持ち主。
次女のクレアお姉さまは運動神経が抜群で、
先日、陸上の全国大会で優勝した。
三女のアイリスお姉さまは、
芸術的センスに長けている。
3人とも、美しい容姿に加え、それぞれに圧倒的な才能がある。
音羽学園の三美神と言われていて、
全員の憧れの存在。
艶のある滑らかな髪に、透けるような透明な目。
かといって、それを鼻にかけない謙虚さ。
突然入ってきた邪魔者のはずの私にも、
優しく、本当の姉妹のように接してくれる。
神は二物を与えずというけれど、神はきっと、
三物も四物も与えていると思う。
そして、そういう人がいる限り。
本来与えられるはずだった一物を、
与えられなかった人もいるわけで。
私は運悪く、それに選ばれてしまったのだ。
冴えない見た目。
美しさの欠片もない体に、
どんよりと雲り、濁った目。
『モスローズ』。
これが、この学園に来てから名づけられたあだ名。
苔むした薔薇。
正論すぎて、反論する気力も涌かない。
勉強は常に平均点以下。
運動なんてできるはずもない。
絵や写真にも挑戦してみたけれど、
人に見せられるような代物ではなかった。
でも、そんな私も、義姉たちのようになりたいと
思って、一時は努力したこともあった。
けれど、わかってしまうのだ。
努力すればするほどに。
ああ、私は、義姉たちとは、違うのだなと。
それに気づいてから、
努力の仕方も忘れてしまった。
しても意味がないから。
報われないから。
だからもう、諦めた。
「あら、もう授業が始まってしまうわ」
「急がなきゃ」
さっきまで私のことを嘲笑していた
女子生徒たちは、予鈴が鳴ると同時に、
何事もなかったように走り去っていった。
教材を握りしめながら、唇を噛む。
「では、298ページを開いてください」
教師の合図で、皆が一斉に教材を開く。
私は、開かなかった。
……開けなかった。
ページに、油性のペンで書かれた文字が見えてしまったから。
『馬鹿』とか『醜い』とか『汚物女』とか。
そんなのはいいんだ。
慣れているから。
けれど。
そのたった一文字は。
どんな言葉よりも威力があって。
『死ね』
私って。
生きてちゃダメかな?
邪魔者だということは自覚している。
邪魔者は、死んだほうがいい?
「どうしたのですか、カミリオンさん」
教師に名前を呼ばれる。
教科書を開いていないことに
気づかれてしまったのだ。
開けない。
どうしよう。
でも、開かなきゃ。
周りの人たちの視線が刺さる。
高貴な貴族の生まれとは思えない、下品な笑い。
先生だって、それに気づいているはずだ。
なのに、それなのに。
気づいていないふりをしている。
私はこうして、きっと、いつまでも。
誰にも認識されずに、生きていくのだ。
ねえ。
先生は。
私が生きている意味があると思う?
「リヴィア・カミリオン!」
とうとう先生が怒ってしまった。
怖いことで有名な先生だ。
義両親も呼び出されて話し合いをすることに
なるかもしれない。
義両親には迷惑をかけたくないのだ。
何不自由なく育ててくれた、
あの温かい人たちにだけは。
もう開くしかないかな。
視界が透明に歪んで、落ちた。
私は。
……なんで生きてるんだろう。
ページをめくる手が、ピクリと動いた。
私が諦めればいいのだ。
それだけのこと。
――――その時だった。
ガタン、と大きな物音がして、教室のドアが開いたのだ。
開いた人物の、その姿が見えた瞬間。
女子生徒たちが黄色い声を上げた。
先生も、あまりの突然の登場に、
驚いて声が出ないみたいだ。
しばらくして、先生がかすれた声で、
その名を口に出す。
「……レイヴン・シリウス……」
彼は、校内一の不良である、レイヴン・シリウス。
しかし、その荒々しい言動や行動とは裏腹に、
彫刻のように美しい容姿をしているため、
女生徒からの人気は高い。
制服のボタンも雑に止められていて、
絵にかいたような不良っぽさを演出している。
白い肌に際立つグリーンの目。
落ち着いているようで荒々しい、低い声。
でも。
私は知っている。
彼はみんなが思うような人じゃないと。
レイヴンは、あったかい人だ。
みんなは知らないだけ。
彼のことを想うと、いつも、すこし、
きゅっと心が縮まる。
「……遅刻、しました」
普段なら烈火のごとく怒る先生が、
一歩後ずさったように見えた。
それもそうだろう。
彼は、この国で一、二を争う起業家の息子だ。
この学校にも多額の寄付金を支払っているらしく、
先生ですらも彼に反抗できない。
彼が教室に入ってくるだけで、
室内の空気が変わる。
孤高の存在。
それがレイヴン・シリウス。
「え、ええ……構わないわ。席に着きなさい」
「……」
彼は無言のまま、荒々しい動作で椅子を蹴り、
音を立てて座った。
教室中が、彼の言動に、行動に振り回されていた。
その日の授業は自習となった。
鐘が鳴った。
12時の鐘だ。
ランチの時間になると
みんながカフェテリアに行くので、
みんながいなくなったその隙に、
私は、あの人に給食を届けに行くのだ。
音を抑えながらノックをすると、養護主任のベラ先生が顔を出す。
「失礼します。給食を届けに来た
リヴィア・カミリオンです。」
ベラ先生は柔らかく笑って、
「あら、今日も来てくれたのね。毎日ありがとう」
と優しい声で言ってくれた。
ベラ先生はすごく怖いことで有名だけれど、
実際はそうでもない。
体が大きくて、いつも眉間にしわが寄っているから
そう思われているだけで。
本当は、すごく優しい先生。
私のことも気にしてくれているようで、
時々声をかけてくれる。
「いえ。仕事ですので」
ベラ先生はふふ、と笑って、
カーテンの向こうにいる彼に声をかける。
「ほら、ルカ・ベルナール。
カミリオンさんがまた届けてくれたわよ」
といっても、彼が返事をすることはない。
ベラ先生は、またか、と言うように
あきれ顔で笑って、私に謝る。
「ごめんなさいね。
人と会話することに嫌悪感があるみたいで。
そろそろクラスにも顔を出したいと
思っているのだけれど」
そう、ベルナールさんは、この学園に入学してから
一度も、クラスに顔を出したことがない。
原因は、小さいころに受けたいじめらしい。
家柄も、私が言うのもなんだが、あまりよくない。
おそらく、昔の私のような身分だ。
平民と呼ばれる身分。
けれど。
貴族でも、起業家の息子でもない彼がこの名門校に
通っているのは、ずば抜けた頭の良さだという。
受験の結果があまりに素晴らしかったために、
学園長がスカウトした人材だとも。
授業料が高いため、家に負担をかけたくないと
彼は断ったそうだが、彼の両親が認めたらしい。
ただ、彼の姿を見た人は誰一人いないし、
私だってカーテン越しの影しか見たことがない。
人付き合いが苦手なせいで、
クラスでは言われ放題。
『神童は頭の悪い奴と関わりたくないんだってよ』
『それで顔面不細工だったらおもろいよな』
『貧乏人が何言ってんだか』
流石に不憫に思って、誰もやりたがらない給食を
届ける当番を引き受けた。
まあ、私が単に話してみたかったのもある。
けれど、彼が姿を見せてくれる気配は一切ない。
彼もきっと、いい迷惑だと思っているのだろう。
「いえ。私が勝手にしていることなので。
それに、……『モスローズ』が持ってきた
給食なんて、食べたくないですよね」
彼が私に姿を見せてくれないのは、
おそらく単純に私のことが嫌いだからだと思う。
クラス中から嫌われている生物が
自分の給食を運んでくるなんて、
さぞ不愉快極まりないだろう。
ベラ先生は少し困ったように笑った。
「リヴィア。あなたはとても美しい子よ。
もっと自信を持ちなさい」
私はその言葉に、苦笑いで返すことしかできない。
わかっている。
ベラ先生は優しいから。
優しいから、こんな私にもお世辞を言ってくれる。
でも正直、そういうのはやめてほしい。
だって。
無駄に期待してしまうから。
私は美しいのかなって。
もしそうだったらいいなって。
思ってしまうから。
そしてまた、自分を嫌いになってしまうから。
もう言わないで。
これ以上、惨めな気持ちにさせないで。
目頭が熱くなったので、うつむいて一言、
「失礼します」
とだけ言って、その場を去った。
教室に戻ると、さっそく頭に生ごみをかけられた。
大人しくそれを片付けて、席に座ろうと思った。
けど、
それはできなかった。
「あれ……机、が」
机が、ない。
椅子も。
教材だけが乱雑に散らかっていて。
ああ、私、私の席までなくしちゃったんだ。
と思って。
もう、いいかな。
もうこのクラスに、私の居場所はないと思った。
周りの嘲笑。
生ごみで汚れた髪の毛。
腐ったような私の目。
ああ。
私の居場所。
そんなもの、最初からなかったのかもしれない。
生まれてから、これまで、ずっと。
家の中でもいつも疎外感を感じていた。
血の繋がりがないから。
義母も、お姉さまたちには本気で怒ったり、
褒めたりするけれど、私にはしない。
私だって、私がこの人たちとは別の人間なのだと
言うことは十分理解していた。
かといって、寂しくないわけではない。
悲しくないわけがない。
クラスではもちろん、
私はいらない存在なのだと思っていた。
入学してから、話しかけられたことなんて
あったかな。
ただ、席がなくなったことで、
あらためて思い知らされる。
私は透明な存在だ、と。
本当に透明な存在になりたい、とも思った。
透明になれたら。
私の居場所が見つかるかもしれない。
そう思って駆け出した。
屋上へと続く道のり。
解放されたくて、今までで一番速く走った。
体が軽い。
あと少し。
柵に足をかける。
体が宙に、ふわりと浮いて。
ああ、やっとさよならできる。
さよなら、私の世界。
目が覚めると、夜の学校だった。
それも、音楽室。
時計を見ると、午前2時。
早く帰らなければ、と思って、すぐ、気づく。
違う。
私は、死んだんだ。
帰る場所はない。
帰る必要はない。
私は、望み通り、透明になったのだから。
数秒遅れて、また一つ気づく。
「ああ、私、
――――――――――解放、されたんだ……」
そのまま、床に寝転んだ。
嬉しさと虚しさが入り混じって、複雑な気持ち。
でも、私は今、自由だ。
私を縛るものは何もない。
だから、もう。
いいんだよね。
いじめられたり。
姉と比べて落ち込むことも。
自分を嫌いになることも。
しなくていいんだ。
そう思うと、今までにないほど心が軽くて。
やっぱり、この選択は間違ってなかった、と思った。
その瞬間だった。
背後で、ガタ、と音がした。
「…え、誰か、いるの……?」
そのまま沈黙が続く。
そういえば。
今、午前二時。
丑三つ時と呼ばれる時間だ。
幽霊が現れる時間。
背筋を、なにかがゾワリと走った。
怖い。
鳥肌が止まらない。
あ、……でも。
私も幽霊だ。
怖がる必要なんてないのかもしれない。
そう思うと、肩の力が抜けた。
少し落ち着きを取り戻したところで、また、小さな物音。
やっぱり怖い。
「あのっ!誰かいるのなら、」
「俺だ」
低く鋭い声が、私に返事をした。
へ?
この声って。
聞いたことある。
何度も。
「……レイヴン・シリウス?」
この声は、確かにレイヴンの声。
「そうだ。……お前は、誰だ?」
暗闇で良く見えないレイヴンから問われる。
そうか。
モスローズのことなんて、認識していないか。
あの頃のことなんて覚えているわけないもんね。
「あ、リヴィア・カミリオンです。
あの、同じクラスの」
彼が、音を立てて立ち上がったのが分かった。
そして、驚いた声で問う。
「リヴィアか?」
あ……
名前、憶えてくれてたんだね。
そのことに、じんわり、少しずつ、
あったかくなる。
「そう。……レイヴンは、どうしてここに?」
レイヴンは、無言で窓のカーテンを開ける。
眩しいくらいの月明かりが部屋に入ってきた。
私が照らされる。
レイヴンは、目を見開いて、私を凝視する。
あまりにも見られるので、恥ずかしくなって
うつむくと、レイヴンが近づいてきた。
そのまま、顎をくいと持ち上げられる。
「リヴィア……綺麗だ」
一瞬。
その言葉の意味が理解できなくて困る。
数秒後にはリンゴのように真っ赤になって
また俯いた。
綺麗、だなんて。
「そんなこと……」
「嘘じゃない。ほら、窓を見てみろ」
言われるがままに窓を見る。
月光と、夜の闇に包まれた窓。
黒い鏡のようになっている。
そこにいる私を見た瞬間に。
「……え?」
息が止まった。
「どうして……?私、こんな」
そうだ、私は、『モスローズ』のはずなのに。
「……綺麗じゃなかったはずなのに……」
私は、美しかった。
真っ黒の鏡に映し出された私は、
見違えるほど美しくなっていた。
面影を残しつつ、ずっとあこがれていた
艶のある肌に髪。
濁っていたはずの目は、煌びやかに光っていた。
生まれて初めて。
少しだけ自分を好きになれた。
「シンデレラ、みたいだな」
ふいに、レイヴンがそんなことを言った。
「シンデレラ?」
一度だけ、読み聞かせてもらったことがある。
小さいころ。
まだ、捨てられていないころ。
母親が、読み聞かせをしてくれた時の
記憶の断片が、まだ少しだけ残っている。
みすぼらしくて、
いつも継母にいじめられていたシンデレラ。
突然現れた魔法使いによって、
夜の舞踏会に行けるチャンスを手に入れる。
そしてそこで会った王子様と恋に落ちて。
魔法が解けても、王子様は迎えに来てくれた。
羨ましいなあ、と思ったのを覚えている。
その直後、私は捨てられて。
迎えに来てくれる人なんていなくて。
やっぱり、おとぎ話は、おとぎ話の中だけで
終わっちゃうんだ、なんて思ったなあ。
でも。
私は今、シンデレラ。
夜の舞踏会の最中。
それが、私をより一層、輝かせた。
「レイヴン」
「ん?」
「私、今、私が好き」
「……そうか」
そう、魔法が解けるまでは、
夢に浸っていてもいいよね。
鐘がなる。
時計を見ると2時30分。
きっと、魔法が解けるのだ。
私が夜の舞踏家に居られるのは、
この30分間だけなんだ。
ほんの少しだけ。
でも、幸せ。
神様が、死ぬ前に幸せな時間をくれたんだ。
目を閉じる。
レイヴンが叫ぶ声がする。
さよなら、レイヴン。
私、いくね。
さえない私が、唯一輝ける時間。
1.モスローズ
「ねえ、あちらの方は」
知っている。この後何を言われるのかなんて。
「ええ。ステラ組の『モスローズ』ですわね」
「相変わらず醜いわ」
「お姉さまたちはあんなに美しいのにね」
慣れている。
こんなこと、何度も言われてきた。
今更傷つくはずもない。
平気。
私はまだ、平気。
「しかも、捨て子なんですって」
ええ、そうです。
私は捨て子です。
あまりにも冴えない見た目をしていたから、
捨てられました。
奇跡的に拾ってくれたのが、貴族の方だったから。
こうして、名門貴族学校に通っているわけです。
みなさんと釣り合うはずもありません。
「だからお姉さまたちと違って、あんなに醜い顔立ちをしているのですね」
醜いとか。
汚いとか。
いわれすぎて、普通のことのようになってきた
今日このごろ。
確かに、義姉は3人とも美しい。
長女であるリリアナお姉さまは、
校内一の頭脳の持ち主。
次女のクレアお姉さまは運動神経が抜群で、
先日、陸上の全国大会で優勝した。
三女のアイリスお姉さまは、
芸術的センスに長けている。
3人とも、美しい容姿に加え、それぞれに圧倒的な才能がある。
音羽学園の三美神と言われていて、
全員の憧れの存在。
艶のある滑らかな髪に、透けるような透明な目。
かといって、それを鼻にかけない謙虚さ。
突然入ってきた邪魔者のはずの私にも、
優しく、本当の姉妹のように接してくれる。
神は二物を与えずというけれど、神はきっと、
三物も四物も与えていると思う。
そして、そういう人がいる限り。
本来与えられるはずだった一物を、
与えられなかった人もいるわけで。
私は運悪く、それに選ばれてしまったのだ。
冴えない見た目。
美しさの欠片もない体に、
どんよりと雲り、濁った目。
『モスローズ』。
これが、この学園に来てから名づけられたあだ名。
苔むした薔薇。
正論すぎて、反論する気力も涌かない。
勉強は常に平均点以下。
運動なんてできるはずもない。
絵や写真にも挑戦してみたけれど、
人に見せられるような代物ではなかった。
でも、そんな私も、義姉たちのようになりたいと
思って、一時は努力したこともあった。
けれど、わかってしまうのだ。
努力すればするほどに。
ああ、私は、義姉たちとは、違うのだなと。
それに気づいてから、
努力の仕方も忘れてしまった。
しても意味がないから。
報われないから。
だからもう、諦めた。
「あら、もう授業が始まってしまうわ」
「急がなきゃ」
さっきまで私のことを嘲笑していた
女子生徒たちは、予鈴が鳴ると同時に、
何事もなかったように走り去っていった。
教材を握りしめながら、唇を噛む。
「では、298ページを開いてください」
教師の合図で、皆が一斉に教材を開く。
私は、開かなかった。
……開けなかった。
ページに、油性のペンで書かれた文字が見えてしまったから。
『馬鹿』とか『醜い』とか『汚物女』とか。
そんなのはいいんだ。
慣れているから。
けれど。
そのたった一文字は。
どんな言葉よりも威力があって。
『死ね』
私って。
生きてちゃダメかな?
邪魔者だということは自覚している。
邪魔者は、死んだほうがいい?
「どうしたのですか、カミリオンさん」
教師に名前を呼ばれる。
教科書を開いていないことに
気づかれてしまったのだ。
開けない。
どうしよう。
でも、開かなきゃ。
周りの人たちの視線が刺さる。
高貴な貴族の生まれとは思えない、下品な笑い。
先生だって、それに気づいているはずだ。
なのに、それなのに。
気づいていないふりをしている。
私はこうして、きっと、いつまでも。
誰にも認識されずに、生きていくのだ。
ねえ。
先生は。
私が生きている意味があると思う?
「リヴィア・カミリオン!」
とうとう先生が怒ってしまった。
怖いことで有名な先生だ。
義両親も呼び出されて話し合いをすることに
なるかもしれない。
義両親には迷惑をかけたくないのだ。
何不自由なく育ててくれた、
あの温かい人たちにだけは。
もう開くしかないかな。
視界が透明に歪んで、落ちた。
私は。
……なんで生きてるんだろう。
ページをめくる手が、ピクリと動いた。
私が諦めればいいのだ。
それだけのこと。
――――その時だった。
ガタン、と大きな物音がして、教室のドアが開いたのだ。
開いた人物の、その姿が見えた瞬間。
女子生徒たちが黄色い声を上げた。
先生も、あまりの突然の登場に、
驚いて声が出ないみたいだ。
しばらくして、先生がかすれた声で、
その名を口に出す。
「……レイヴン・シリウス……」
彼は、校内一の不良である、レイヴン・シリウス。
しかし、その荒々しい言動や行動とは裏腹に、
彫刻のように美しい容姿をしているため、
女生徒からの人気は高い。
制服のボタンも雑に止められていて、
絵にかいたような不良っぽさを演出している。
白い肌に際立つグリーンの目。
落ち着いているようで荒々しい、低い声。
でも。
私は知っている。
彼はみんなが思うような人じゃないと。
レイヴンは、あったかい人だ。
みんなは知らないだけ。
彼のことを想うと、いつも、すこし、
きゅっと心が縮まる。
「……遅刻、しました」
普段なら烈火のごとく怒る先生が、
一歩後ずさったように見えた。
それもそうだろう。
彼は、この国で一、二を争う起業家の息子だ。
この学校にも多額の寄付金を支払っているらしく、
先生ですらも彼に反抗できない。
彼が教室に入ってくるだけで、
室内の空気が変わる。
孤高の存在。
それがレイヴン・シリウス。
「え、ええ……構わないわ。席に着きなさい」
「……」
彼は無言のまま、荒々しい動作で椅子を蹴り、
音を立てて座った。
教室中が、彼の言動に、行動に振り回されていた。
その日の授業は自習となった。
鐘が鳴った。
12時の鐘だ。
ランチの時間になると
みんながカフェテリアに行くので、
みんながいなくなったその隙に、
私は、あの人に給食を届けに行くのだ。
音を抑えながらノックをすると、養護主任のベラ先生が顔を出す。
「失礼します。給食を届けに来た
リヴィア・カミリオンです。」
ベラ先生は柔らかく笑って、
「あら、今日も来てくれたのね。毎日ありがとう」
と優しい声で言ってくれた。
ベラ先生はすごく怖いことで有名だけれど、
実際はそうでもない。
体が大きくて、いつも眉間にしわが寄っているから
そう思われているだけで。
本当は、すごく優しい先生。
私のことも気にしてくれているようで、
時々声をかけてくれる。
「いえ。仕事ですので」
ベラ先生はふふ、と笑って、
カーテンの向こうにいる彼に声をかける。
「ほら、ルカ・ベルナール。
カミリオンさんがまた届けてくれたわよ」
といっても、彼が返事をすることはない。
ベラ先生は、またか、と言うように
あきれ顔で笑って、私に謝る。
「ごめんなさいね。
人と会話することに嫌悪感があるみたいで。
そろそろクラスにも顔を出したいと
思っているのだけれど」
そう、ベルナールさんは、この学園に入学してから
一度も、クラスに顔を出したことがない。
原因は、小さいころに受けたいじめらしい。
家柄も、私が言うのもなんだが、あまりよくない。
おそらく、昔の私のような身分だ。
平民と呼ばれる身分。
けれど。
貴族でも、起業家の息子でもない彼がこの名門校に
通っているのは、ずば抜けた頭の良さだという。
受験の結果があまりに素晴らしかったために、
学園長がスカウトした人材だとも。
授業料が高いため、家に負担をかけたくないと
彼は断ったそうだが、彼の両親が認めたらしい。
ただ、彼の姿を見た人は誰一人いないし、
私だってカーテン越しの影しか見たことがない。
人付き合いが苦手なせいで、
クラスでは言われ放題。
『神童は頭の悪い奴と関わりたくないんだってよ』
『それで顔面不細工だったらおもろいよな』
『貧乏人が何言ってんだか』
流石に不憫に思って、誰もやりたがらない給食を
届ける当番を引き受けた。
まあ、私が単に話してみたかったのもある。
けれど、彼が姿を見せてくれる気配は一切ない。
彼もきっと、いい迷惑だと思っているのだろう。
「いえ。私が勝手にしていることなので。
それに、……『モスローズ』が持ってきた
給食なんて、食べたくないですよね」
彼が私に姿を見せてくれないのは、
おそらく単純に私のことが嫌いだからだと思う。
クラス中から嫌われている生物が
自分の給食を運んでくるなんて、
さぞ不愉快極まりないだろう。
ベラ先生は少し困ったように笑った。
「リヴィア。あなたはとても美しい子よ。
もっと自信を持ちなさい」
私はその言葉に、苦笑いで返すことしかできない。
わかっている。
ベラ先生は優しいから。
優しいから、こんな私にもお世辞を言ってくれる。
でも正直、そういうのはやめてほしい。
だって。
無駄に期待してしまうから。
私は美しいのかなって。
もしそうだったらいいなって。
思ってしまうから。
そしてまた、自分を嫌いになってしまうから。
もう言わないで。
これ以上、惨めな気持ちにさせないで。
目頭が熱くなったので、うつむいて一言、
「失礼します」
とだけ言って、その場を去った。
教室に戻ると、さっそく頭に生ごみをかけられた。
大人しくそれを片付けて、席に座ろうと思った。
けど、
それはできなかった。
「あれ……机、が」
机が、ない。
椅子も。
教材だけが乱雑に散らかっていて。
ああ、私、私の席までなくしちゃったんだ。
と思って。
もう、いいかな。
もうこのクラスに、私の居場所はないと思った。
周りの嘲笑。
生ごみで汚れた髪の毛。
腐ったような私の目。
ああ。
私の居場所。
そんなもの、最初からなかったのかもしれない。
生まれてから、これまで、ずっと。
家の中でもいつも疎外感を感じていた。
血の繋がりがないから。
義母も、お姉さまたちには本気で怒ったり、
褒めたりするけれど、私にはしない。
私だって、私がこの人たちとは別の人間なのだと
言うことは十分理解していた。
かといって、寂しくないわけではない。
悲しくないわけがない。
クラスではもちろん、
私はいらない存在なのだと思っていた。
入学してから、話しかけられたことなんて
あったかな。
ただ、席がなくなったことで、
あらためて思い知らされる。
私は透明な存在だ、と。
本当に透明な存在になりたい、とも思った。
透明になれたら。
私の居場所が見つかるかもしれない。
そう思って駆け出した。
屋上へと続く道のり。
解放されたくて、今までで一番速く走った。
体が軽い。
あと少し。
柵に足をかける。
体が宙に、ふわりと浮いて。
ああ、やっとさよならできる。
さよなら、私の世界。
目が覚めると、夜の学校だった。
それも、音楽室。
時計を見ると、午前2時。
早く帰らなければ、と思って、すぐ、気づく。
違う。
私は、死んだんだ。
帰る場所はない。
帰る必要はない。
私は、望み通り、透明になったのだから。
数秒遅れて、また一つ気づく。
「ああ、私、
――――――――――解放、されたんだ……」
そのまま、床に寝転んだ。
嬉しさと虚しさが入り混じって、複雑な気持ち。
でも、私は今、自由だ。
私を縛るものは何もない。
だから、もう。
いいんだよね。
いじめられたり。
姉と比べて落ち込むことも。
自分を嫌いになることも。
しなくていいんだ。
そう思うと、今までにないほど心が軽くて。
やっぱり、この選択は間違ってなかった、と思った。
その瞬間だった。
背後で、ガタ、と音がした。
「…え、誰か、いるの……?」
そのまま沈黙が続く。
そういえば。
今、午前二時。
丑三つ時と呼ばれる時間だ。
幽霊が現れる時間。
背筋を、なにかがゾワリと走った。
怖い。
鳥肌が止まらない。
あ、……でも。
私も幽霊だ。
怖がる必要なんてないのかもしれない。
そう思うと、肩の力が抜けた。
少し落ち着きを取り戻したところで、また、小さな物音。
やっぱり怖い。
「あのっ!誰かいるのなら、」
「俺だ」
低く鋭い声が、私に返事をした。
へ?
この声って。
聞いたことある。
何度も。
「……レイヴン・シリウス?」
この声は、確かにレイヴンの声。
「そうだ。……お前は、誰だ?」
暗闇で良く見えないレイヴンから問われる。
そうか。
モスローズのことなんて、認識していないか。
あの頃のことなんて覚えているわけないもんね。
「あ、リヴィア・カミリオンです。
あの、同じクラスの」
彼が、音を立てて立ち上がったのが分かった。
そして、驚いた声で問う。
「リヴィアか?」
あ……
名前、憶えてくれてたんだね。
そのことに、じんわり、少しずつ、
あったかくなる。
「そう。……レイヴンは、どうしてここに?」
レイヴンは、無言で窓のカーテンを開ける。
眩しいくらいの月明かりが部屋に入ってきた。
私が照らされる。
レイヴンは、目を見開いて、私を凝視する。
あまりにも見られるので、恥ずかしくなって
うつむくと、レイヴンが近づいてきた。
そのまま、顎をくいと持ち上げられる。
「リヴィア……綺麗だ」
一瞬。
その言葉の意味が理解できなくて困る。
数秒後にはリンゴのように真っ赤になって
また俯いた。
綺麗、だなんて。
「そんなこと……」
「嘘じゃない。ほら、窓を見てみろ」
言われるがままに窓を見る。
月光と、夜の闇に包まれた窓。
黒い鏡のようになっている。
そこにいる私を見た瞬間に。
「……え?」
息が止まった。
「どうして……?私、こんな」
そうだ、私は、『モスローズ』のはずなのに。
「……綺麗じゃなかったはずなのに……」
私は、美しかった。
真っ黒の鏡に映し出された私は、
見違えるほど美しくなっていた。
面影を残しつつ、ずっとあこがれていた
艶のある肌に髪。
濁っていたはずの目は、煌びやかに光っていた。
生まれて初めて。
少しだけ自分を好きになれた。
「シンデレラ、みたいだな」
ふいに、レイヴンがそんなことを言った。
「シンデレラ?」
一度だけ、読み聞かせてもらったことがある。
小さいころ。
まだ、捨てられていないころ。
母親が、読み聞かせをしてくれた時の
記憶の断片が、まだ少しだけ残っている。
みすぼらしくて、
いつも継母にいじめられていたシンデレラ。
突然現れた魔法使いによって、
夜の舞踏会に行けるチャンスを手に入れる。
そしてそこで会った王子様と恋に落ちて。
魔法が解けても、王子様は迎えに来てくれた。
羨ましいなあ、と思ったのを覚えている。
その直後、私は捨てられて。
迎えに来てくれる人なんていなくて。
やっぱり、おとぎ話は、おとぎ話の中だけで
終わっちゃうんだ、なんて思ったなあ。
でも。
私は今、シンデレラ。
夜の舞踏会の最中。
それが、私をより一層、輝かせた。
「レイヴン」
「ん?」
「私、今、私が好き」
「……そうか」
そう、魔法が解けるまでは、
夢に浸っていてもいいよね。
鐘がなる。
時計を見ると2時30分。
きっと、魔法が解けるのだ。
私が夜の舞踏家に居られるのは、
この30分間だけなんだ。
ほんの少しだけ。
でも、幸せ。
神様が、死ぬ前に幸せな時間をくれたんだ。
目を閉じる。
レイヴンが叫ぶ声がする。
さよなら、レイヴン。
私、いくね。


