『次は、南賀先―――南賀先―――』

どうしよう。

これ、たぶん、結構、やばいやつだ。

くらくらする。

吐き気が襲ってきて、思わず口元を抑える。

だめだ、ここで吐いたらだめだ。

満員電車のこんな空間で、嘔吐なんてしたら、周りの人も、気持ち悪いに決まってる。

次の駅で降りる?

いや、たぶんその前に倒れる。

とりあえず席に座りたい。

ああ、でも、だめだ。譲ってくれそうな人なんていないし。

それに、私なんかより疲れている人だっているだろうし。

私だけ座るなんて、ずるいよね。

あと少し。

あと一駅。

『次は、音羽台―――音羽台―――』

アナウンスが鳴った瞬間、車内全体がぐらりと揺れた。

足に踏ん張りがきかなくなって、その場に座り込む。

どうしよう。

頭痛と、眩暈と、耳鳴りのせいで、もう何も考えられない。

誰か。

誰か助けて。





―――――なんて。

こんな言葉、通用しないのは分かっている。

こんな言葉、何度も口にしてきた。

誰も、来てくれなかった。



『一花』



……いや、違う。

一人だけ、来てくれたことがあったけれど。


結局、あれも、嘘だったんだ。



人間は、すぐに裏切る。



熱のせいで感情にコントロールがきかない。

視界が透明に歪んで、落ちた。





「……涼……」





本当に、笑えてくる。

なんで、こんな。

こんなときに。

「……っ、おい」



こういう時に限って。



「大丈夫か?」



元カレの名前が出てくるとか。



「りょ、う……?」



本当に、未練がましい、最低な女。













冬の冷たい空気にさらされて、氷のようになった手が、私の額に触れる。

「うわ、すげぇ熱。……立てる?」

彼の問いかけに、声を出す気力もなくて、ふるふると首を振る。

「……そっか。じゃ、背負っていくからとりあえず降りよ」

ちょうど、電車が音羽台に着いたところだった。

本当なら、元カレの背中に乗るなんて、そんなこと、したくないけれど。

今日だけ、今日だけと思いながら、背中に乗る。



ふわりと、あの日の、あの時のままの香りが、鼻腔をくすぐる。

懐かしい。

涼のにおいだ。



駅で少し休憩すると、少しずつ体調も回復してきたので、

涼に背負ってもらいながら、家に帰ることになった。



「大丈夫か?なんで早退しなかったんだよ」

「いや、だって……、皆勤賞……」

すると、呆れたような声が返ってきた。

「馬鹿か。今日の朝から何か変だなとは思ってたけど。一花は昔からいろいろ詰め込み過ぎだっつの」

「妹たちに、いろいろ、勉強教えたりとか、しなきゃだし……」

「ならもっと、他の奴ら頼れ。いるだろ、森山とか、栗田とか」

「……そう、だけど、申し訳ないし……」

すると、涼の動きに連動して揺れていた体が、ピタリと止まった。

と思ったら、おでこに盛大なデコピンが返ってきた。

「ぃ……ったぁ…」

思わず手で押さえる。

涼のデコピンは強すぎるんだってば。

そう言おうとした時。



「いつもさ、不安なんだよ」



涼が唐突に、そういった。



「一花は、誰かが止めるまで、限界が来るまで止まらないし。


人のこと考えすぎて、三食全部忘れることもあるし。

友達の相談に乗りすぎて過労になることもあるし。

ちゃんと休めてるかなとか。

食べてるかな、とか。


今日は眠れたかなとか。

いつも、不安なんだよ。

だから、もう、そういうの、やめろ。」



いつになく真剣な声だったので、ふざける場面じゃないということは分かった。



「うん、……あの、ごめんね。気を付ける」



なんとなく暗い雰囲気になってしまったので、話題を変える。

「あ、そういえば、……彼女とは、うまくいってるの?」

涼も、話題が変わったことを理解したのか、また足を進める。

「ああ、まあ。それなりにな」

「いいねえ、幸せ者めっ!」

「やめろよー」

「美人で、勉強出来て、運動神経も良くて。おまけに性格もいいんだから。最高の彼女だね!」

「まあな」

涼が、私の言葉を一つも否定しないことに、チクリと胸が痛む。

でも、これは私個人の問題だ。

私の中で処理しなければならないことだ。

早く、こんな気持ち、どこかに捨てて、置いてきてしまいたいのに。



「あ、ほら、着いたぞ。一花の家」

「あ、ほんとだ。……よく覚えてたね」

もう、ずっと前のことなのに。

涼は、聞こえなかったのか、「じゃ、ばいばい」と無邪気に手を振った。









前は、「またね」って言ってくれたのに。









「うん、ばいばい」



闇に溶けていく背中を、見つめる。

これで最後かもしれない。

そう思った。

だから、もう、私も振り向いてはいけないと。

そう、



「……っ、涼!」



思ったんだよ、本当に。

だからこそ、許してほしい。

今日だけは。



「私、涼が好き!」



涼は止まった。振り向かないままで。



「まだ、好きなんだよ!未練たらたらでさ!本当に、格好悪いよね!」



涼は、変わらず沈黙を貫く。



「もしかしたら、まだ。私たち、……やりなおせるんじゃ、」



「無理だ」



涼が、初めて声を出した。

低く、静かで、落ち着いていて、私の大好きな声。

私が一番、聞きたくなかった答え。

聞かなければならなかった答え。



「……っ、うん、そっか!そうだよね、うん。ごめん、ごめんね!

…………幸せになってね!」



私はきっと、涼がいなきゃ幸せじゃない。



でも、涼は違うのだ。



「ああ」



それだけの話だ。





だからもう、今日で終わりだ。





最後だ。







……最後だから。







最後の日くらい、思い出してもいいよね?





未練たらたらでも、いいよね?





幸せな時間を、思い返してもいいよね?





私たちが、出会った日のこと。