空気が凍った。

「バカな……っ!」

 さすがのグレアム卿も顔色を変える。

「何を言うかと思えば、冗談にもほどがある」
「冗談ではありません。あの王に、あの王妃、それにあの王太后です。彼らに託して、この国がよくなるとは思えません」
「だからと言って……」

 誰かが生唾をのみこむ音がした。
 静まり返った室内に薪の爆ぜる音がする。三月に入ったとはいえ、夜はまだ冷える。

 ヘーゼルダインはたんたんと続けた。

「ヴィンセント王は、まだよかったのです。確かに影の薄い方でしたが、その分、余計な口出しをせず、傀儡に徹してくださいました。我々は、比較的自由に政治を行うことができました。背後では、ハリエット様が王と我らを支えてくださいましたし……」
「ノーイック殿下は、ダメか」

 グレアム卿が静かに問う。

「あの方は、プライドばかり高すぎて、おそらく邪魔にしかなりません」

 うむ、とグレアム卿はため息を漏らした。

「それ以上に、ネルソン夫人の存在が心配です。必ず、余計なことを言ってきます。せめてアイリス様がいてくださればよかったのですが、ノーイック殿下が選んだのは、あのヒルダとかいう娘です」
「あれが王妃になるというのは、確かに困るが……」

 全員が押し黙る中、リリーが口を開いた。

「それでも、クリスティアン、人を殺すのはダメよ。そんなことをしたら、あなただってただではすまないでしょうし……」
「その通りだ」

 グレアム卿が大きく頷く。

「おまえがいなくなることのほうが大問題だ」
「そうですよ。ヘーゼルダイン閣下は、わが国始まって以来の逸材と言われる稀代の名宰相なんですからね」

 レイモンドも強く同意した。

「あんなのを手にかけて、失脚するなんて……」
「あんなのでも、ノーイックは王位継承者ですよ」

 ハリエットが割って入る。

「失脚どころか、ヘーゼルダインは命を失います」
 
 ヘーゼルダインがハリエットに目を向けた。

「陛下……。それでは……、私は、いったい、どうすれば……」

 冷徹なまでに無表情なところはいつも通りだが、声には苦渋が滲んでいる。
 これほど冷静な人がここまで思いつめるまでには、相当な葛藤があったのだろう。

(ヘーゼルダインがいるから大丈夫だって、みんなが彼に、何もかも押し付けてきたからだわ。全部、丸投げして……)

 アイリスもその一人だ。
 ヘーゼルダインがいるから、投げ出せる。そう思って逃げてきた。

 あの息の詰まる場所から。
 ディアドラとノーイック、そしてヒルダのいる王宮から。

「ヘーゼルダイン……」

 敢えて「さん」や「閣下」はつけなかった。

「あなた一人で、全部を背負う必要はないわ」

 アイリスは静かに微笑んだ。

「その手で誰かを殺すなんて言わないで……。私が、戻ります。ノーイックの側妃でも正妃でも、何にでもなって……」

 そうするしかないのだ。
 アイリスが妃になって、第二宮殿の仕事を担えばいい。

 ハリエットがヴィンセント王を支えたように、アイリスがノーイックを支えればいい。
 ディアドラがなんの役立たなくてもなんとかなったように、ヒルダはいてもいなくても大丈夫だ。なんとでもなる。

 けれど、そう覚悟を決めた矢先、言葉の途中で涙がポロポロと零れ始めた。

「アイリス……?」

 ギルバートが弱々しい声でアイリスの名を呼んだ。
 椅子から立ち上がり、テーブルを回ってアイリスの横に立つ。

「ギルバート」

 アイリスも立ち上がった。
 抱き寄せられると涙はさらに止まらなくなった。

「ギルバート……」

 今になって、やっとわかった。
 アイリスはギルバートが好きだ。ノーイックより好きだとか、そんな小さな気持ではないのだ。

 本当は、誰よりもギルバートが好きだ。
 ギルバートを愛している。
 彼以外の誰とも結婚したくないくらいに……。

「ヘーゼルダイン、君には悪いが、やはりアイリスは渡せない」
「ギルバート、でも……」
「アイリス。君がノーイックの妃になるというなら、僕にはもう生きている理由がない。今、この場で死ぬ」
「「「えええっ!」」」
「いきなり何を……」

 一同、騒然となる。

「ギルバート、早まるな」

 レイモンドが叫ぶ。

「飛躍しすぎよ」

 ジャスミンも止める。
 リリーが立ち上がって両手を広げた。

「ちょっと、皆さん。一回、深呼吸しましょうか」

 ハッとした顔で一同はリリーに注目した。

「はい、スー……、ハー……、スー……、ハー……」

 リリーの声につられて、呼吸を整えた。
 リリーが一同を見渡す。

「はい、いいですね。じゃあ、まず、殺すとか、死ぬとか、簡単に言うのをやめましょうか」

 何やら素直に頷いてしまった。

「そもそも、いつも冷静なクリスティアンが、どうして簒奪なんて思いついたの? いくら、あの人たちがダメダメでも、殺してまで玉座を奪おうとは思わない気がするんだけど……」

 確かにそうだ。
 ヘーゼルダインはまっとうな正義感と倫理観の塊だ。
 ノーイックを消してまで玉座を奪おうなどと言う考えは彼らしくない。

 ヘーゼルダインは、少しの間、考えていた。
 それからおもむろに口を開いた。

「先に玉座を奪ったのは、ノーイックのほうだからです」