それからすぐに、アイリスが第一王子の婚約者に決まったことを知り、ヘーゼルダインは深い安堵を覚えたのだった。

 あの子なら、間違いなく立派な王妃になるだろうと信じることができた。
 その後の姿を知るにつけ確信は深まっていった。

 彼女がいる限り、ブラックウッド王国は安泰だ。
 ハリエット妃がヴィンセント王を助け、国の支えとなっているように、アイリスは国の母となって民を支える大きな力になるだろうと考えていた。

 だから、ヴィンセント王の崩御からいくらも日をおくことなく、ノーイックがアイリスとの婚約を破棄した時には深い絶望を覚えた。

 その絶望は、今も消えたわけではない。
 それでも……。

 ギルバートにとって、あの婚約破棄が僥倖であったことは確かだろう。
 彼がアイリスに恋をしたのは、幼いあの日だったのかもしれない。
 それからずっとアイリスに思いを寄せながら、小さな領地しか持たない名ばかりの公爵という立場で、王太子妃になる彼女に気持ちを伝えることができなかったのだろう。

 その彼が、思いを伝えた。
 次期国王と小さな領地しか持たない公爵という立場が変わったわけではない。
 だが、少なくとも、今のアイリスはノーイックの婚約者ではない。

 ノーイックとギルバート、二人のうちのどちらかを選ぶことができる。
 そして、アイリスはディアドラ・ネルソンの話を受けず、ギルバートの求婚を受け入れた。

 これでよかったのだと、ヘーゼルダインは自分に言い聞かせた。

 ヒルダという娘がノーイックの子を身ごもったと聞いた。
 ハリエットがなめた苦汁をアイリスにまで味わわせる必要はない。

 ブライトン家で勉強に励んでいたヘーゼルダインに、小さかったアイリスが花をくれたことがある。

『いちゅも、がんばっていりゅから』

 野に咲く名もない花を、自分で摘んで届けてくれたのだ。

 彼女にはそういう優しさがある。
 努力する人を励ます心や、悪いことだけを悪いと言い、人を責めない公平さや、自分の立場を理解し、どんなに苦しくても努力を続ける強さがある。

(幸せになってほしい)

 ただ、それだけを願う自分でありたかった。
 宰相などという立場を捨てて願えたなら、どれほどいいだろうと……。

 だが、ヘーゼルダインはブラックウッド王国の宰相である。
 国と民の幸福も考えなければならない。

 次期国王ノーイックとその妃となるヒルダの顔を思い浮かべ、再び、深い絶望の淵に立つ。
 この国は、いったいどうなってしまうのだろう。
 二十年前のあの日々、なぜ自分はあれほどに無力だったのだろう。
 埒のないことを思い、古い胸の傷が痛むのを感じた。




 ブライトン家での夕食会の翌日、ヘーゼルダインは第二宮殿の王妃の執務室を訪ねた。

 ハリエットの部屋だった豪奢な一室に、今はヒルダとかいう娘が出入りしている。
 アイリスが使っていた王太子妃の部屋と無駄に行き来して楽しんでいるようだ。

 手紙を書くわけでも、各地からの報告書を読むわけでもなく、ただそのへんをうろうろしている。
 何もすることがないにもかかわらず、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、珍しそうに椅子の一つ一つに腰を下ろしてみたり、とにかく落ち着きなくすごしている。

 実に目障りだ。

「ヘーゼルダイン、手を貸してくれるというのは本当か」

 王のための椅子にだらしなくふんぞりかえったまま、ノーイックが聞く。

「ご用命とあれば、なんなりと」
「では、第三の祭祀について、調べて、準備を進めてくれ。僕が何をすればいいのかも、ちゃんと教えるんだぞ」
「承知いたしました」

 ふにゃふにゃした足取りでヒルダが近づいてきて、王の椅子に座ったノーイックの膝の上に乗った。

「よかったわねー、ノーイックー」
「どけよ」
「えー、どぉしてー?」
「おまえ、妊婦だろ。僕は妊婦には興味がないんだ」
「ひどーい」

 この点に関してのみ、ヘーゼルダインはヒルダに同意した。
 ひどいというか、最低の男だ。

 冷ややかな目を向けているとノーイックが絡んできた。

「なんだ、その眼は」

 別に、と腹の中でだけ答える。

「今、『別に』と言っただろう」
「いいえ」

 口には出していない。

「不敬だぞ! 僕が王になったら、おまえなんかクビにしてやる!」
「どうぞ。お好きなように」
「なんだと!」

 勝手にしろよと心の中で悪態をつきながら、ヘーゼルダインはいつも通りの表情のない顔でノーイックを見下ろした。
 ノーイックのそばかす顔が赤黒く染まってゆく。

 その時、部屋の扉がいきなり開いた。
 王妃の執務室をノックもしないで開ける人間など限られている。