「お式もまだなのに……」
アイリスはひそかにため息を吐いた。
ノーイックとヒルダなら、そういうこともあるだろうなとは思いつつ……。
(生まれてくる子どもには申し訳ないけど、これでギルバートの即位はほとんどなくなったのかと思うと、やっぱり残念だわ……)
ギルバートが身分や地位を欲していないことは知っている。
それでも、ブラックウッド王国の民のために、ノーイックではなくギルバートが王であったなら……、と思わずにいられない。
第一の祭祀から第二の祭祀までのおよそ一か月の間に、アイリスは何度かギルバートと領地を訪れた。
面白エピソードだけでなく、ギルバートが領主として領民のためにさまざまな施策をしていることも知った。
市場に行けば、商人たちの喜ぶ声が聞こえた。
「旦那様が領主様になってから、街道が通りやすくなって、市場のお客さんが増えたんだよなぁ」
「橋を掛けてもらったから、荷馬車のまま王都まで行けて助かってるよ」
「前は小舟に荷を乗せて渡ってたんだよな。積み替え作業がきつかったから、ずいぶん楽になったよ」
農業地帯でも同じだった。
「ブライトン領と共同で用水路を引いてくれたから、畑に水をやるのがすごく楽になったんだよ」
川から遠い畑の農民がそう言って喜ぶ一方で、川に近い畑の農民は「氾濫するところにはしっかりした土手を作ってもらって、安心して畑仕事ができる」と喜んでいた。
年寄りや体の弱い人たちは「近くに治療院ができて助かっている」と言い、子どもを持つ母親たちは「読み書きを教えてくれる学び小屋が増えて、通わせやすくなった」と喜んでいた。
「ギルバート、あなたって本当にいい領主様なのね」
「そうかな」
「どこへ行っても、みんなが嬉しそうに話をしてくれるわ。本当によく目が行き届いているのね」
「小さい領地だしね」
領地の広さが影響しないとは言わないが、人々の暮らしに目を向けよう、よくしていくために力を注ごうという気持ちがあるないかのほうが大きい気がした。
このような人が王であったなら、国民はどれほど幸福だろう。
考えても仕方のないことを考えずにはいられなかった。
ノーイック何もしない。
何をするべきかわかっていないし、わかろうとさえしない。
目の前にこれほどの人がいるというのに、あの男が王になるのだと思うと胸が締め付けられるようだった。
「旦那様! 今朝も冷えますな!」
馬車を降りると、すぐに誰かが話しかけてくる。
二月になり、吐く息の白さは相変わらずだが、その中にもほのかな温もり感じるようになった。
この日も農地の視察に来ていた。
一面の麦畑のあちこちに人の姿が見える。麦畑ではさかんに麦踏みが行われているところだ。
「よく育っているみたいね」
「おかげさまで」
農夫が笑顔を見せる横で、彼の妻が頭を下げた。
「お嬢様、先日はありがとうございました」
何かと思えば、少し前に村で行われた子どもたちのお祝いに。花とカードを届けたことへの礼だった。
農村地帯では一人一人の誕生日を祝うのではなく、年に一度、二月のよき日にまとめて「誕生会」を行うと聞いて贈ったものだ。
「お嬢様から、わざわざ花やカードをもらえるなんて、子どもたちも親も大喜びでした。いい思い出ができました」
「喜んでもらえたなら嬉しいわ」
それぞれの年齢の数字をデザインしたカードに、名前と一言メッセージを添えただけのものだが、全員分を用意するのには、それなりの手間と時間を要した。
喜んでもらえたと知って、アイリスも嬉しかった。
他の人たちも、手を休めて集まってくる。
「学び小屋の井戸にポンプを付けてくださったのも、お嬢様だとか」
ギルバートが「ポンプ?」と聞くので、説明した。
「つるべ式の井戸だと、小さい子は自分でお水を汲めないと思って……。ギルバートは他のことで忙しそうだったから、勝手に手配してしまったの。言うのを忘れていたわ」
ごめんなさいと謝る。
「謝ることじゃないよ。よく気が付いてくれた。ありがとう」
ギルバートが嬉しそうにそう言ってくれたので、アイリスも嬉しかった。
「本当にありがとうございます、アイリスお嬢様」
「お嬢様を『捨てられ王妃』なんて呼んだのは誰なんでしょうね?」
おかみさんたちが言う横で、男たちも笑う。
「ポンコツだとかなんだとか、そんな話、信じられるもんかね」
「捨てられたのは、王様のほうだろう」
「おい、あんまり不敬なことをいうもんじゃないぞ」
軽く窘める者もいたが、「構うもんか」、「もっと言ってやれ」と、なにやらみんな強気である。
「お嬢様はご立派なお方だ」
「ほんとだよ。このまま、旦那様とお二人で俺らの土地を治めてほしいよ」
ふと、誰かが言った。
「そうだ。いっそ、旦那様とご結婚なさってはどうかね」
「おお。それはいい」
「是非、そうなさってください」
「美男美女でお似合いのお二人じゃないか」
にわかに盛り上がる領民たちを前に、アイリスの頬はかぁっと熱を持った。
ギルバートを見ると、彼の顔も赤い。
「旦那様、まんざらでもなさそうだな」
「お気持ちを伝えるなら、急いだほうがいいですぜ。お嬢様はえらい別嬪さんだからな」
「今がチャンスですよ」
さんざん囃し立てられて、逃げるように馬車に戻った。
馬車に乗ってからも、何を話していいのかわからなくて、困った。
「アイリス」
街が近づいてきた頃、ギルバートが口を開いた。
「アイリスは、ずっと前から王妃になることが決まってた。だから、諦めようと思ってた」
「何を?」
「君を」
視線を空けると、緑色の目がアイリスをまっすぐ見ていた。
「アイリス。君のことが、ずっと好きだった」
「え……?」
アイリスは青い目をいっぱいに見開いた。
「今も、好きだ。僕と結婚してくれるかい?」
「ギ、ギルバート……」
「急にすまない。返事は、すぐじゃなくていい」
ギルバートは慌てたように手で顔を覆い、横を向いた。
少ししてから、「でも、考えておいてほしい」と小さく呟いた。
窓外に目をやるギルバートの横顔に、アイリスはそっと頷く。
胸がドキドキと鳴っていた。
「考えるわ……」
小さな声で、そう返事をするのが精いっぱいだった。
アイリスはひそかにため息を吐いた。
ノーイックとヒルダなら、そういうこともあるだろうなとは思いつつ……。
(生まれてくる子どもには申し訳ないけど、これでギルバートの即位はほとんどなくなったのかと思うと、やっぱり残念だわ……)
ギルバートが身分や地位を欲していないことは知っている。
それでも、ブラックウッド王国の民のために、ノーイックではなくギルバートが王であったなら……、と思わずにいられない。
第一の祭祀から第二の祭祀までのおよそ一か月の間に、アイリスは何度かギルバートと領地を訪れた。
面白エピソードだけでなく、ギルバートが領主として領民のためにさまざまな施策をしていることも知った。
市場に行けば、商人たちの喜ぶ声が聞こえた。
「旦那様が領主様になってから、街道が通りやすくなって、市場のお客さんが増えたんだよなぁ」
「橋を掛けてもらったから、荷馬車のまま王都まで行けて助かってるよ」
「前は小舟に荷を乗せて渡ってたんだよな。積み替え作業がきつかったから、ずいぶん楽になったよ」
農業地帯でも同じだった。
「ブライトン領と共同で用水路を引いてくれたから、畑に水をやるのがすごく楽になったんだよ」
川から遠い畑の農民がそう言って喜ぶ一方で、川に近い畑の農民は「氾濫するところにはしっかりした土手を作ってもらって、安心して畑仕事ができる」と喜んでいた。
年寄りや体の弱い人たちは「近くに治療院ができて助かっている」と言い、子どもを持つ母親たちは「読み書きを教えてくれる学び小屋が増えて、通わせやすくなった」と喜んでいた。
「ギルバート、あなたって本当にいい領主様なのね」
「そうかな」
「どこへ行っても、みんなが嬉しそうに話をしてくれるわ。本当によく目が行き届いているのね」
「小さい領地だしね」
領地の広さが影響しないとは言わないが、人々の暮らしに目を向けよう、よくしていくために力を注ごうという気持ちがあるないかのほうが大きい気がした。
このような人が王であったなら、国民はどれほど幸福だろう。
考えても仕方のないことを考えずにはいられなかった。
ノーイック何もしない。
何をするべきかわかっていないし、わかろうとさえしない。
目の前にこれほどの人がいるというのに、あの男が王になるのだと思うと胸が締め付けられるようだった。
「旦那様! 今朝も冷えますな!」
馬車を降りると、すぐに誰かが話しかけてくる。
二月になり、吐く息の白さは相変わらずだが、その中にもほのかな温もり感じるようになった。
この日も農地の視察に来ていた。
一面の麦畑のあちこちに人の姿が見える。麦畑ではさかんに麦踏みが行われているところだ。
「よく育っているみたいね」
「おかげさまで」
農夫が笑顔を見せる横で、彼の妻が頭を下げた。
「お嬢様、先日はありがとうございました」
何かと思えば、少し前に村で行われた子どもたちのお祝いに。花とカードを届けたことへの礼だった。
農村地帯では一人一人の誕生日を祝うのではなく、年に一度、二月のよき日にまとめて「誕生会」を行うと聞いて贈ったものだ。
「お嬢様から、わざわざ花やカードをもらえるなんて、子どもたちも親も大喜びでした。いい思い出ができました」
「喜んでもらえたなら嬉しいわ」
それぞれの年齢の数字をデザインしたカードに、名前と一言メッセージを添えただけのものだが、全員分を用意するのには、それなりの手間と時間を要した。
喜んでもらえたと知って、アイリスも嬉しかった。
他の人たちも、手を休めて集まってくる。
「学び小屋の井戸にポンプを付けてくださったのも、お嬢様だとか」
ギルバートが「ポンプ?」と聞くので、説明した。
「つるべ式の井戸だと、小さい子は自分でお水を汲めないと思って……。ギルバートは他のことで忙しそうだったから、勝手に手配してしまったの。言うのを忘れていたわ」
ごめんなさいと謝る。
「謝ることじゃないよ。よく気が付いてくれた。ありがとう」
ギルバートが嬉しそうにそう言ってくれたので、アイリスも嬉しかった。
「本当にありがとうございます、アイリスお嬢様」
「お嬢様を『捨てられ王妃』なんて呼んだのは誰なんでしょうね?」
おかみさんたちが言う横で、男たちも笑う。
「ポンコツだとかなんだとか、そんな話、信じられるもんかね」
「捨てられたのは、王様のほうだろう」
「おい、あんまり不敬なことをいうもんじゃないぞ」
軽く窘める者もいたが、「構うもんか」、「もっと言ってやれ」と、なにやらみんな強気である。
「お嬢様はご立派なお方だ」
「ほんとだよ。このまま、旦那様とお二人で俺らの土地を治めてほしいよ」
ふと、誰かが言った。
「そうだ。いっそ、旦那様とご結婚なさってはどうかね」
「おお。それはいい」
「是非、そうなさってください」
「美男美女でお似合いのお二人じゃないか」
にわかに盛り上がる領民たちを前に、アイリスの頬はかぁっと熱を持った。
ギルバートを見ると、彼の顔も赤い。
「旦那様、まんざらでもなさそうだな」
「お気持ちを伝えるなら、急いだほうがいいですぜ。お嬢様はえらい別嬪さんだからな」
「今がチャンスですよ」
さんざん囃し立てられて、逃げるように馬車に戻った。
馬車に乗ってからも、何を話していいのかわからなくて、困った。
「アイリス」
街が近づいてきた頃、ギルバートが口を開いた。
「アイリスは、ずっと前から王妃になることが決まってた。だから、諦めようと思ってた」
「何を?」
「君を」
視線を空けると、緑色の目がアイリスをまっすぐ見ていた。
「アイリス。君のことが、ずっと好きだった」
「え……?」
アイリスは青い目をいっぱいに見開いた。
「今も、好きだ。僕と結婚してくれるかい?」
「ギ、ギルバート……」
「急にすまない。返事は、すぐじゃなくていい」
ギルバートは慌てたように手で顔を覆い、横を向いた。
少ししてから、「でも、考えておいてほしい」と小さく呟いた。
窓外に目をやるギルバートの横顔に、アイリスはそっと頷く。
胸がドキドキと鳴っていた。
「考えるわ……」
小さな声で、そう返事をするのが精いっぱいだった。

