結婚式を終えた夜。
二次会の賑やかな余韻が、まだ街の片隅に漂っていた。
音楽も笑い声も消えたはずなのに、耳の奥ではシャンパンのグラスがぶつかる澄んだ音が、まだかすかに鳴っているように思える。
七海と朝陽は、肩を並べて歩いていた。
タクシーを拾うでもなく、ただ夜風に吹かれながら。
華やかなドレスに身を包んだ七海のヒールが、アスファルトの上で小気味よい音を刻む。
「……今日は、すごかったね」
七海が、ぽつりと呟いた。
「派手だったな。あんな豪華な式、久しぶりに見た」
朝陽は少し笑みを浮かべて答える。
「久しぶりにサークルの仲間が集まって……なんか、学生時代に戻ったみたいだったね」
「わかる。俺たちもう30歳なのに、あの元気はすごいよな」
その笑みはどこか柔らかく、普段の彼の真面目な顔つきとは違う。
吐く息が白く漂い、秋の夜気が肌に沁みる。
二人の足取りは自然とゆっくりになり、まるで帰りをわざと遅らせているようにも見えた。
横断歩道の赤信号で、自然と立ち止まる。
車のライトが流れ、通り過ぎた後の静けさに包まれた交差点。
街灯に照らされて、二人の影が並んで伸びた。
「……ねえ」
七海が、ふいに口を開いた。
「ん?」
「結婚式に行くと、いろいろ考えちゃうよね。自分は、どうなんだろうって」
朝陽は少し視線を横にずらし、彼女の横顔を盗み見る。
街灯の光を受けて、七海の頬が柔らかく照らされ、まるで白いキャンバスに淡い色をのせたようだった。
「焦ってる?」
「焦ってるっていうか……なんか、置いていかれる感じ」
七海は苦笑し、手に持っていたクラッチバッグをぎゅっと握り直した。
指先に力がこもる様子に、胸の内の不安が透けて見える。
「同い年の友達も、もうみんな結婚して子どもいてさ。私だけ、取り残されてる気がして」
朝陽は短く息を吐いた。
「……おまえが取り残されるわけないだろ」
「え?」
七海は思わず彼の顔を見上げる。
「七海は、そうやって考えすぎるとこあるけどさ。俺からしたら……ちゃんと前に進んでる人間に見える」
「朝陽……」
名前を呼ぶ声が自然に漏れる。
その声に重なるように、背後からクラクションが一つ鳴り響いた。
「ねえ」
七海が再び口を開く。
「ん?」
「朝陽って、結婚とか……考えたことある?」
唐突な問いに、朝陽は苦笑した。
「まあ、あるにはある。けど……」
「けど?」
「俺、昔からそういうのに向いてないって言われるんだよな。友達にも、家族にも」
「向いてない?」
「ほら、マイペースだし、仕事優先にしちゃうし。家庭的ってタイプじゃないだろ」
七海は立ち止まり、じっと彼を見上げた。
「それ、誰が決めたの?」
「え?」
「向いてないとか家庭的じゃないとか。周りが勝手に言ってるだけでしょ?本人がどうしたいかが大事なんじゃないの」
朝陽は一瞬、返事に詰まった。
夜風が頬を撫でる。
その沈黙に、七海は自分の声が少し震えていたことに気づく。
「……七海ってさ、そういうとこ、昔から変わんないよな」
「なにそれ、褒めてる?」
「褒めてる。真面目で、優しくて、たまに突っ走る」
七海は照れ隠しのように肩をすくめ、歩き出した。
「……昔のことなんて、忘れていいのに」
「忘れられるわけないだろ。俺たち、同じ時間をずっと共有してきたんだから」
七海の心臓がどきんと跳ねる。
結婚式の余韻と夜の静けさの中で、彼の言葉がやけに重く響いた。
「七海」
名前を呼ぶ朝陽の声に、足が止まった。
振り向くと、街灯に照らされた彼の横顔が見える。
真剣で、少しだけ迷っているような表情。
「俺は、たぶん逃げてたと思う。怖くて。自信なくて」
七海は一瞬驚き、それから小さく笑った。
「正直すぎる」
「でも今は、逃げたくない」
その言葉に、胸の奥が強く揺れた。
夜の冷たい空気よりも、ずっと熱く。
七海はクラッチバッグを抱きしめるように持ち直した。
「……どうして、今になって?」
「さっきの結婚式で思ったんだよ。誰かの幸せを祝うのもいいけど……俺は、自分の幸せをちゃんと掴みたいって」
一歩近づく。
距離が縮まって、呼吸が重なる。
「七海。俺は――おまえと歩きたい」
短いけれど、はっきりとしたプロポーズだった。
七海の視界がにじむ。
言葉にするのは怖い、でも――逃げたくなかった。
「……私も。ずっと、そう思ってた」
気づけば、二人の手が触れ合っていた。
どちらからともなく、指が絡む。
七海は震える声で呟く。
「ねえ……これって、遅すぎたのかな」
朝陽は首を横に振った。
「遅くなんかない。むしろ、今だからだろ」
――思えば、すべては十年前のあの日からだった。
「……あのときは、突然の雨だったよね」
誰にともなく呟いた声は、夜風に混じってすぐに消えていく。
その横で、朝陽が短く笑った。
「そうだったな」
「……ほんの五分だったのにね」
七海は自分に言い聞かせるように呟いた。
「五分?」
「うん。あのとき一緒に雨宿りしたの、ほんの五分くらいだったのに。そこから全部が変わった」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
突然の雨宿りで、先輩の朝陽と過ごした五分。
終電を待つわずか十分の間に想いを告げられ、ふたりは恋人同士となった。
だが社会人となり、エレベーターに閉じ込められた八分間で、すれ違いが爆発し別れを選んでしまう。
そして二年後、図書館での再会。わずか十五分の会話の中で、胸の奥に残っていた想いが再び重なり合っていく。
たった数分の出来事が、人生の流れを変えてしまった。
そして今。
信号待ちの三十秒。
ほんのわずかな沈黙すらも、愛しくて仕方ないほどに――。
隣にいる朝陽は、ポケットに片手を突っ込んだまま、じっと前を見ていた。
けれど七海にはわかる。
視線の端が、確かに自分の方を意識していることに。
「……なに?」
思わず笑って問いかけると、朝陽は少しだけ肩を揺らした。
「いや……ただ、さ」
「うん?」
「不思議だなって思って」
「不思議?」
「雨宿りから始まって、いまこうして隣に立ってる。信号待ちしてるだけなのに、妙に特別に感じるんだ」
七海は息をのむ。
同じことを、自分も考えていたから。
「……私も。なんでだろうね。ほんの三十秒しかないのに、こんなに長く感じる」
「長くても、悪くない」
朝陽はそう言って、ようやく視線を七海に向けた。
夜の街灯に照らされたその瞳は、真剣で、揺らぎがなくて、まっすぐだった。
その目に射抜かれた瞬間、七海の心臓が強く跳ね、呼吸が少し乱れる。
赤信号の下で交わす視線。
車の音も、人の気配も、すべて遠ざかっていくように感じられた。
まるで、この小さな交差点だけが世界から切り取られてしまったかのように。
――あと十秒。
七海は無意識に数を刻む。
でも、青になって欲しくなかった。
このまま時間が止まればいいと、心から願ってしまう。
赤信号が、あと数秒で変わろうとしていた。
その瞬間、朝陽の手がそっと伸びてくる。
ためらいがちな指先が七海の手に触れ、そして絡んだ。
七海は驚きに息を呑む。
でも、拒む理由なんてひとつもなかった。
むしろ――ずっとこの瞬間を待っていた気がした。
「七海」
名前を呼ぶ声は、低くて、ほんの少し震えていた。
「……俺はもう逃げない。おまえと歩いていきたい」
夜の街灯に照らされた横顔は、迷いを振り切ったようにまっすぐだった。
七海の胸が熱くなる。
目の奥がじんわりと潤んで、言葉を探す前に唇が動いていた。
「……私も。朝陽と一緒に、これからを歩きたい」
交差点のライトが青に変わる。
車が一斉に流れ出し、街の時間が再び動き出す。
けれど二人の世界は、その一瞬だけ切り取られたように静かだった。
絡めた手の温もりが、鼓動よりも確かに伝わってくる。
その温度は、約束のように、未来を照らしていた。
二人は並んで歩き出す。
赤から青へ、夜から朝へ――。
過ぎ去った時間さえ包み込むように、未来への道がゆっくりと開けていく。夜の街角。
コンビニの白い明かりが背中を押すように眩しく光り、アスファルトに映った二人の影をやわらかく縁取っていた。
遠くからは電車の走り去る音が微かに響き、街全体がゆっくりと夜に沈んでいく。
――あの日の五分間の雨宿りから始まった恋は、この三十秒で、永遠になった。
二人は並んで歩き出す。
赤から青へ。
夜から朝へ。
止まっていた時間さえ包み込むように、未来へと続く道を。
二次会の賑やかな余韻が、まだ街の片隅に漂っていた。
音楽も笑い声も消えたはずなのに、耳の奥ではシャンパンのグラスがぶつかる澄んだ音が、まだかすかに鳴っているように思える。
七海と朝陽は、肩を並べて歩いていた。
タクシーを拾うでもなく、ただ夜風に吹かれながら。
華やかなドレスに身を包んだ七海のヒールが、アスファルトの上で小気味よい音を刻む。
「……今日は、すごかったね」
七海が、ぽつりと呟いた。
「派手だったな。あんな豪華な式、久しぶりに見た」
朝陽は少し笑みを浮かべて答える。
「久しぶりにサークルの仲間が集まって……なんか、学生時代に戻ったみたいだったね」
「わかる。俺たちもう30歳なのに、あの元気はすごいよな」
その笑みはどこか柔らかく、普段の彼の真面目な顔つきとは違う。
吐く息が白く漂い、秋の夜気が肌に沁みる。
二人の足取りは自然とゆっくりになり、まるで帰りをわざと遅らせているようにも見えた。
横断歩道の赤信号で、自然と立ち止まる。
車のライトが流れ、通り過ぎた後の静けさに包まれた交差点。
街灯に照らされて、二人の影が並んで伸びた。
「……ねえ」
七海が、ふいに口を開いた。
「ん?」
「結婚式に行くと、いろいろ考えちゃうよね。自分は、どうなんだろうって」
朝陽は少し視線を横にずらし、彼女の横顔を盗み見る。
街灯の光を受けて、七海の頬が柔らかく照らされ、まるで白いキャンバスに淡い色をのせたようだった。
「焦ってる?」
「焦ってるっていうか……なんか、置いていかれる感じ」
七海は苦笑し、手に持っていたクラッチバッグをぎゅっと握り直した。
指先に力がこもる様子に、胸の内の不安が透けて見える。
「同い年の友達も、もうみんな結婚して子どもいてさ。私だけ、取り残されてる気がして」
朝陽は短く息を吐いた。
「……おまえが取り残されるわけないだろ」
「え?」
七海は思わず彼の顔を見上げる。
「七海は、そうやって考えすぎるとこあるけどさ。俺からしたら……ちゃんと前に進んでる人間に見える」
「朝陽……」
名前を呼ぶ声が自然に漏れる。
その声に重なるように、背後からクラクションが一つ鳴り響いた。
「ねえ」
七海が再び口を開く。
「ん?」
「朝陽って、結婚とか……考えたことある?」
唐突な問いに、朝陽は苦笑した。
「まあ、あるにはある。けど……」
「けど?」
「俺、昔からそういうのに向いてないって言われるんだよな。友達にも、家族にも」
「向いてない?」
「ほら、マイペースだし、仕事優先にしちゃうし。家庭的ってタイプじゃないだろ」
七海は立ち止まり、じっと彼を見上げた。
「それ、誰が決めたの?」
「え?」
「向いてないとか家庭的じゃないとか。周りが勝手に言ってるだけでしょ?本人がどうしたいかが大事なんじゃないの」
朝陽は一瞬、返事に詰まった。
夜風が頬を撫でる。
その沈黙に、七海は自分の声が少し震えていたことに気づく。
「……七海ってさ、そういうとこ、昔から変わんないよな」
「なにそれ、褒めてる?」
「褒めてる。真面目で、優しくて、たまに突っ走る」
七海は照れ隠しのように肩をすくめ、歩き出した。
「……昔のことなんて、忘れていいのに」
「忘れられるわけないだろ。俺たち、同じ時間をずっと共有してきたんだから」
七海の心臓がどきんと跳ねる。
結婚式の余韻と夜の静けさの中で、彼の言葉がやけに重く響いた。
「七海」
名前を呼ぶ朝陽の声に、足が止まった。
振り向くと、街灯に照らされた彼の横顔が見える。
真剣で、少しだけ迷っているような表情。
「俺は、たぶん逃げてたと思う。怖くて。自信なくて」
七海は一瞬驚き、それから小さく笑った。
「正直すぎる」
「でも今は、逃げたくない」
その言葉に、胸の奥が強く揺れた。
夜の冷たい空気よりも、ずっと熱く。
七海はクラッチバッグを抱きしめるように持ち直した。
「……どうして、今になって?」
「さっきの結婚式で思ったんだよ。誰かの幸せを祝うのもいいけど……俺は、自分の幸せをちゃんと掴みたいって」
一歩近づく。
距離が縮まって、呼吸が重なる。
「七海。俺は――おまえと歩きたい」
短いけれど、はっきりとしたプロポーズだった。
七海の視界がにじむ。
言葉にするのは怖い、でも――逃げたくなかった。
「……私も。ずっと、そう思ってた」
気づけば、二人の手が触れ合っていた。
どちらからともなく、指が絡む。
七海は震える声で呟く。
「ねえ……これって、遅すぎたのかな」
朝陽は首を横に振った。
「遅くなんかない。むしろ、今だからだろ」
――思えば、すべては十年前のあの日からだった。
「……あのときは、突然の雨だったよね」
誰にともなく呟いた声は、夜風に混じってすぐに消えていく。
その横で、朝陽が短く笑った。
「そうだったな」
「……ほんの五分だったのにね」
七海は自分に言い聞かせるように呟いた。
「五分?」
「うん。あのとき一緒に雨宿りしたの、ほんの五分くらいだったのに。そこから全部が変わった」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
突然の雨宿りで、先輩の朝陽と過ごした五分。
終電を待つわずか十分の間に想いを告げられ、ふたりは恋人同士となった。
だが社会人となり、エレベーターに閉じ込められた八分間で、すれ違いが爆発し別れを選んでしまう。
そして二年後、図書館での再会。わずか十五分の会話の中で、胸の奥に残っていた想いが再び重なり合っていく。
たった数分の出来事が、人生の流れを変えてしまった。
そして今。
信号待ちの三十秒。
ほんのわずかな沈黙すらも、愛しくて仕方ないほどに――。
隣にいる朝陽は、ポケットに片手を突っ込んだまま、じっと前を見ていた。
けれど七海にはわかる。
視線の端が、確かに自分の方を意識していることに。
「……なに?」
思わず笑って問いかけると、朝陽は少しだけ肩を揺らした。
「いや……ただ、さ」
「うん?」
「不思議だなって思って」
「不思議?」
「雨宿りから始まって、いまこうして隣に立ってる。信号待ちしてるだけなのに、妙に特別に感じるんだ」
七海は息をのむ。
同じことを、自分も考えていたから。
「……私も。なんでだろうね。ほんの三十秒しかないのに、こんなに長く感じる」
「長くても、悪くない」
朝陽はそう言って、ようやく視線を七海に向けた。
夜の街灯に照らされたその瞳は、真剣で、揺らぎがなくて、まっすぐだった。
その目に射抜かれた瞬間、七海の心臓が強く跳ね、呼吸が少し乱れる。
赤信号の下で交わす視線。
車の音も、人の気配も、すべて遠ざかっていくように感じられた。
まるで、この小さな交差点だけが世界から切り取られてしまったかのように。
――あと十秒。
七海は無意識に数を刻む。
でも、青になって欲しくなかった。
このまま時間が止まればいいと、心から願ってしまう。
赤信号が、あと数秒で変わろうとしていた。
その瞬間、朝陽の手がそっと伸びてくる。
ためらいがちな指先が七海の手に触れ、そして絡んだ。
七海は驚きに息を呑む。
でも、拒む理由なんてひとつもなかった。
むしろ――ずっとこの瞬間を待っていた気がした。
「七海」
名前を呼ぶ声は、低くて、ほんの少し震えていた。
「……俺はもう逃げない。おまえと歩いていきたい」
夜の街灯に照らされた横顔は、迷いを振り切ったようにまっすぐだった。
七海の胸が熱くなる。
目の奥がじんわりと潤んで、言葉を探す前に唇が動いていた。
「……私も。朝陽と一緒に、これからを歩きたい」
交差点のライトが青に変わる。
車が一斉に流れ出し、街の時間が再び動き出す。
けれど二人の世界は、その一瞬だけ切り取られたように静かだった。
絡めた手の温もりが、鼓動よりも確かに伝わってくる。
その温度は、約束のように、未来を照らしていた。
二人は並んで歩き出す。
赤から青へ、夜から朝へ――。
過ぎ去った時間さえ包み込むように、未来への道がゆっくりと開けていく。夜の街角。
コンビニの白い明かりが背中を押すように眩しく光り、アスファルトに映った二人の影をやわらかく縁取っていた。
遠くからは電車の走り去る音が微かに響き、街全体がゆっくりと夜に沈んでいく。
――あの日の五分間の雨宿りから始まった恋は、この三十秒で、永遠になった。
二人は並んで歩き出す。
赤から青へ。
夜から朝へ。
止まっていた時間さえ包み込むように、未来へと続く道を。



