「縄野、ちょっといいか」

地獄のような6時間授業を終え、星南と一緒に部活に行こうと肩にスクールバッグをかけたその時、F組の担任である初老の男性教師があたしを呼び出した。

「柚音、わたし先部活行ってるね」

ひらひらと星南が手を振ったので軽くあたしも手を振り返して手頃な机にスクールバッグを置く。

「最近どうだ。」

教卓前の2つの席をくっつけ、担任が真剣そうな面持ちで私にそう問いかけてきた。

おそらく家のことだろう。


「だいじょうぶです。特に変わったこともなく…」


ろくに働けない父親の代わりに皿洗いなどの家事をやって、両親が喧嘩した後、お酒を浴びるように飲んで、荒れている母親の愚痴を聞いてなだめてあげる。

そんな生活が一般的な中学2年生にはあまりに重すぎることだと、わかっている。

それに、クラスメイト達が平然と友達に家族の愚痴をこぼしているのを見て、人に吐ける愚痴でいいな、という嫉妬で狂いそうになる。

星南や新菜に家族の愚痴を聞かされるたび、耳をふさいでその場から逃げ出してしまいたくなる。

黒く渦巻く醜い感情を抑え込んで、星南や新菜の家族の愚痴を聞かされたり、ろくに働けない父親の代わりをしたり、荒れている母親の愚痴を聞いて、なだめてあげる。――そんな生活、大丈夫なわけがないでしょ。


あたしが必死で絞り出した「だいじょうぶ」は「そうか。」と軽く受け流されてしまった。

「それならいいんだ。最近縄野は疲れてるように見えたからな。まあ、思春期ってのは色々あるもんだ。先生も縄野ぐらいの年頃は親に反抗してばかりだったよ、ははっ」

笑いながら担任は机を片付け始める。あたしの心にじんわりと絶望の黒いインクが広がっていく。

「縄野はひとりじゃないからな。何かあったら先生だけじゃなくて電話窓口とかでもいいから愚痴は吐けよ。」

――ひとりじゃない?なにそれ。

「そういえば吹奏楽部は今日活動があったよな。がんばれよ。」

その言葉を聞いた瞬間、忘れかけていた憂鬱が一気に心の中に押し寄せてきてぐらりと視界がゆがんだ気がした。

「はい。さようなら」

あたしは机に置いていたスクールバッグをひったくるように掴み、逃げるように教室を出た。