窓際のカーテンが、夕暮れの風に小さく揺れている。
茜色の光が差し込み、誰もいない教室をゆっくりと染めていく。
俺は座ったまま、隣にいる彼女を眺めていた。
「ねえ、蓮。今度の日曜、映画行かない?」
頬杖をついた美月が、何でもないような調子で言う。
肩まで伸びた黒髪がさらりと揺れ、夕陽を浴びて一層艶やかに輝いて見えた。
「映画?」
「うん。駅前の映画館で新しいのが公開されたでしょ。ずっと観たかったの」
「へえ……そうなんだ」
「何その反応。興味なさそう」
「いや、そうじゃない。ただ……」
「ただ?」
「美月がそんなふうに『一緒に行こう』って言うの、珍しいなって」
言ってから、自分でも少し照れくさくなる。
彼女はふっと目を細め、机の上で指を組んだ。
「だって、蓮からは全然誘ってくれないでしょ。だったら私が言うしかないじゃない」
「……まあ、否定はしない」
「ほんと素直じゃないんだから」
からかうように笑う彼女に、俺はつい苦笑を返す。
こんな時間が、ずっと続いていく。――そう信じていた。
その時だった。
教室の扉が開き、足音が近づいてきた。
振り返ると、親友の悠真が立っていた。
「おーい、蓮。まだ残ってたか」
「悠真……どうした?」
「ちょっとな」
いつもは軽口を叩く彼が、この時ばかりは妙に真剣な顔をしていた。
俺は首をかしげる。
「……白石。昨日の放課後、誰かと一緒にいた?」
「え?」
不意に名前を呼ばれ、美月が瞬きをした。
悠真はわずかに目を伏せ、吐き捨てるように言った。
「昨日、お前が……知らない男と歩いてたのを見たんだ」
教室に差し込む夕陽が、急に冷たく色を変えた気がした。
胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。
――冗談だろ。
真っ先に浮かんだのは、それだけだった。
白石美月。
俺の恋人で、誰よりも信じている大切な存在。
彼女が裏切るなんて、あり得ない。
けれど、悠真はそんなことを軽々しく言う男じゃない。
俺は笑って受け流すこともできず、ただ曖昧に頷くしかなかった。
その夜、机に向かっても文字は目に入らなかった。
ペン先は止まり、ノートには意味のない線ばかりが重なっていく。
疑念が心を締めつけ、勉強どころか眠ることさえできなかった。
翌日の放課後。
美月と並んで歩く帰り道。
夕陽で空がオレンジ色に染まり、制服の裾を揺らす風が、やけに冷たく感じられる。
「ねえ、蓮。今日、少し元気ないよね?」
不意に彼女が立ち止まり、俺の顔を覗き込んだ。
澄んだ瞳が、心の奥まで射抜いてくるようだった。
「……そう見えるか」
「うん。なんだか考えごとしてる顔」
「……」
言葉が詰まる。
彼女は小首を傾げ、唇を尖らせた。
「何か気になる?」
「いや、別に……」
答えながら、喉がひどく乾く。
どうしても聞かずにはいられなかった。
「昨日の放課後、何してた?」
美月は一瞬驚いたように目を瞬かせ、すぐに柔らかく微笑んだ。
「昨日? 本屋に寄ってからすぐに帰ったよ」
自然すぎるその仕草。
隠し事をしているようには、とても見えなかった。
――なのに。
悠真の声が、頭の中で何度も反響する。
“知らない男と歩いてた”
心臓がざわつく。呼吸が浅くなる。
彼女の笑顔さえ、仮面のように見えてしまう。
「……そっか。ならいい」
そう言うのが精一杯だった。
それ以上は追及できなかった。
彼女を疑うなんて、最低だ。分かっている。
それでも、胸のざわめきはどうしても止まらなかった。
疑念は日に日に膨らんでいった。
授業の内容も頭に入らず、部活の声も遠く霞んで聞こえる。
気がつけば、俺の視線はいつも美月を追っていた。
昼休み、教室の隅。
美月が女子たちと笑い合う姿を眺めながら、俺は手にしたパンをかじることも忘れていた。
彼女の笑顔があまりに自然で、あまりに眩しくて――だからこそ、余計に信じられなくなる。
放課後、意を決して彼女を尾けた。
罪悪感に胸を刺されながらも、足は止まらない。
下校の人混みに紛れ、少し離れた位置から彼女の背を追いかける。
――そして。
駅前の人混みの中で、美月は立ち止まった。
視線の先、そこにいたのは一人の男。
俺の知らない顔。
俺の知らない声。
ふたりは小さく言葉を交わし、そのまま歩き出す。
自然すぎる並び。距離感。
何より、美月が見せた柔らかな笑み。
――俺だけに向けられていたはずの表情。
その瞬間、胸の奥で「確信」に変わった。
逃げ場はもうなかった。
次の日。
教室の窓際で、美月を呼び止めた。
人の少ない放課後の空気。
揺れるカーテンの隙間から差し込む光が、彼女の頬を照らしている。
「……昨日、駅前で誰と一緒にいたんだ」
声が震えていた。
美月は一瞬だけ目を泳がせ、それからかすかに笑った。
「……見られてたんだ」
「答えてくれ」
「ただの友達だよ。塾の子」
「本当に、それだけか?」
「ええ」
即答。迷いのない声。
なのに――俺の胸に広がるのは安堵ではなく、ひどい虚しさだった。
「……なら、いい」
それ以上は言えなかった。
彼女を問い詰める勇気がなかった。
けれど、心のどこかで確信していた。
あの笑顔は、もう俺だけのものじゃないのだと。
それから数日後。
放課後の外は冬の訪れを告げるように冷え込んでいた。
吐く息が白く広がる。街灯が滲む。
用事があると言って先に学校を出た美月の連絡をまっていた俺は、駅前のベンチに腰を下ろし、震える手でスマホを握りしめていた。
通知は鳴らない。
けれど胸騒ぎが止まらない。
足は勝手に彼女を探しに動き出していた。
――見つけてしまった。
美月。
そして彼女の隣には、あの日と同じ男がいた。
ふたりは笑い合い、彼女の肩が小さく触れるたび、男は嬉しそうに顔をほころばせていた。
時間が止まった。
耳鳴りがして、鼓動の音だけが響く。
声をかけようとしても、喉は凍りついたように動かない。
ただ、目の前の光景が胸を貫いていく。
――裏切られた。
頭の中で言葉が何度も反響する。
信じたい気持ちと、信じられない現実。
すべてがごちゃ混ぜになり、視界が滲む。
そのまま逃げるように背を向けた。
どこに向かっているのかも分からず、ただ夜の街を歩き続けた。
ポケットの中のスマホが震える。
画面に浮かぶのは「美月」の名前。
震える指で通話ボタンを押す。
『蓮? 今どこにいるの?』
「……駅前」
『私もさっきまでいたよ。気づかなかったな』
「……そうか」
『ねえ、声、変だよ。何かあった?』
問いかけに答えられなかった。
声を絞り出そうとするたび、胸が痛んだ。
『まだ駅前にいる?そっちに行くから待ってて』
「わかった」
やがて、通話は途切れた。
画面の光が消え、残されたのは冷たい風だけだった。
雪がちらつく帰り道。街灯の光に白く照らされる路面が、冷たく輝いていた。
俺は足を止め、深呼吸を繰り返す。
胸の奥に渦巻く感情は、言葉にすることを拒むように重く、鋭かった。
美月は何も知らずに、笑顔で近づいてくる。
「蓮、待った?」
「……いや」
言葉は短く、冷たく響いたかもしれない。
手を握ろうとする彼女の手を、俺はそっと振り払った。
その瞬間、彼女の笑顔が一瞬だけ崩れ悲しそうな顔をした。
その表情に俺は胸を締めつけられる。
「……美月」
「うん?」
呼びかけた声は、震えていた。
「俺……もう……無理かもしれない」
彼女は目を見開いたまま、言葉を失う。
泣きそうな瞳。小さく震える唇。
「なんで……? 蓮……?」
「信じたいのに、信じられないんだ。……美月が、他の誰かと……」
俺は言いかけて、喉が詰まった。
そのまま、目の前の景色が揺れる。
美月はそっと俺の手を握り返す。
「ごめんね……蓮。私……本当に、君だけだった」
言葉はやさしく響くのに、胸に刺さる痛みは消えない。
俺は彼女を抱きしめることも、笑顔を取り戻すこともできず、ただ立ち尽くすしかなかった。
雪が舞い落ち、ふたりの影を細く長く伸ばしていく。
言葉にできない想いが、冷たい夜の空気に溶けていった。
あの日から、俺と美月との間には埋められない溝ができてしまった。
教室で隣に座っていても、言葉が交わらない。
廊下ですれ違っても、視線を合わせられない。
――そして、その日は突然やってきた。
昼休み。校庭で悠真と話していると、女生徒が息を切らして駆け寄ってきた。
「神谷くん! 白石さんが……倒れたって!」
その言葉に思考が真っ白になる。
気づけば、俺は校舎を全力で駆け抜けていた。
保健室のベッドに横たわる美月。
蒼白な顔、細い指先。
「美月!」
呼びかけても、彼女は薄く目を開くだけだった。
すぐに救急車が呼ばれ、彼女は病院へ運ばれた。
待合室で俺は何もできず、ただ祈るように時間を過ごす。
やがて現れたのは、あの時の青年だった。
「……君が、蓮くんだね」
彼は落ち着いた声でそう言った。
「僕は白石翔太。美月の兄だ」
「……兄?」
耳を疑った。
「この前、一緒にいたのは――」
「ああ、僕だ。突然で驚かせたかもしれない。……すまない」
頭の中で、音を立てて何かが崩れていく。
友達じゃなかった。恋人でもなかった。――家族。
美月は、嘘をついていた。
けれど、それだけじゃ終わらなかった。
翔太さんは、静かに言葉を続ける。
「美月は、生まれつき心臓に持病があるんだ。ここ数ヶ月、状態が悪化していて……」
「……そんな」
「彼女なりに、普通の高校生活を送りたかったんだと思う。君に心配をかけたくなくて、隠していたんだ」
胸の奥が痛む。
俺が疑い続けたその時間、彼女はひとりで苦しみに耐えていたのか。
どうして――どうして気づけなかったんだ。
病室に入ると、美月はベッドに横たわっていた。
酸素マスクをつけ、それでも微笑もうとする。
「……蓮、来てくれたんだ」
「当たり前だろ……!」
声が震える。視界が滲んで、彼女の顔がうまく見えない。
「ごめんね。……嘘、ついてた」
「……なんでだよ。どうして俺に言ってくれなかったんだ」
「だって……蓮には、笑っててほしかったから」
その言葉が、刃のように心に突き刺さった。
病室の窓から差し込む月明かりが、白いシーツを淡く照らしていた。
消毒液の匂い、規則正しく鳴る心電図の音。
俺はベッドのそばに座り、美月の手を握りしめていた。
「ねえ、蓮」
弱々しい声が静寂を破る。
「私ね……ずっと幸せだったよ。放課後に一緒に帰ったこと、教室で笑い合ったこと、ぜんぶ」
「やめろよ。まるで、もう……」
「うん。もう長くないって、自分でも分かってるから」
彼女はかすかに笑った。その笑顔は、泣きたくなるほどきれいだった。
「ごめんね、嘘ばっかりで。本当はずっと、怖かった。もし病気のことを話したら、蓮に重荷を背負わせちゃうんじゃないかって……」
「そんなこと……!」
声が詰まる。
「俺は……たとえどんなことでも、美月を――」
言葉の続きを紡ぐ前に、彼女がそっと僕の唇に指を当て、泣きそうな笑顔で彼女は言った。
「……。最後まで、信じて欲しかった……。ごめんね……ありがとう。恋人でいさせてくれて」
その目がゆっくり閉じていく。
俺は必死に名前を呼んだ。
「美月!美月!」
けれど、その声は彼女には届かない。
――静寂。
心電図の音が途切れ、夜が深まる。
俺の掌には、力を失った彼女の温もりだけが残されていた。
涙が頬を伝い落ちる。
「……たとえ嘘でも、俺は君を信じたかった」
その言葉だけが、虚空に響いた。
彼女のいない世界で、これからも生きていかなくちゃならない。
笑顔も、嘘も、全部ひっくるめて。
俺は彼女の記憶を抱きしめて歩いていく。
――もう二度と、戻らない日々を胸に刻みながら。
茜色の光が差し込み、誰もいない教室をゆっくりと染めていく。
俺は座ったまま、隣にいる彼女を眺めていた。
「ねえ、蓮。今度の日曜、映画行かない?」
頬杖をついた美月が、何でもないような調子で言う。
肩まで伸びた黒髪がさらりと揺れ、夕陽を浴びて一層艶やかに輝いて見えた。
「映画?」
「うん。駅前の映画館で新しいのが公開されたでしょ。ずっと観たかったの」
「へえ……そうなんだ」
「何その反応。興味なさそう」
「いや、そうじゃない。ただ……」
「ただ?」
「美月がそんなふうに『一緒に行こう』って言うの、珍しいなって」
言ってから、自分でも少し照れくさくなる。
彼女はふっと目を細め、机の上で指を組んだ。
「だって、蓮からは全然誘ってくれないでしょ。だったら私が言うしかないじゃない」
「……まあ、否定はしない」
「ほんと素直じゃないんだから」
からかうように笑う彼女に、俺はつい苦笑を返す。
こんな時間が、ずっと続いていく。――そう信じていた。
その時だった。
教室の扉が開き、足音が近づいてきた。
振り返ると、親友の悠真が立っていた。
「おーい、蓮。まだ残ってたか」
「悠真……どうした?」
「ちょっとな」
いつもは軽口を叩く彼が、この時ばかりは妙に真剣な顔をしていた。
俺は首をかしげる。
「……白石。昨日の放課後、誰かと一緒にいた?」
「え?」
不意に名前を呼ばれ、美月が瞬きをした。
悠真はわずかに目を伏せ、吐き捨てるように言った。
「昨日、お前が……知らない男と歩いてたのを見たんだ」
教室に差し込む夕陽が、急に冷たく色を変えた気がした。
胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。
――冗談だろ。
真っ先に浮かんだのは、それだけだった。
白石美月。
俺の恋人で、誰よりも信じている大切な存在。
彼女が裏切るなんて、あり得ない。
けれど、悠真はそんなことを軽々しく言う男じゃない。
俺は笑って受け流すこともできず、ただ曖昧に頷くしかなかった。
その夜、机に向かっても文字は目に入らなかった。
ペン先は止まり、ノートには意味のない線ばかりが重なっていく。
疑念が心を締めつけ、勉強どころか眠ることさえできなかった。
翌日の放課後。
美月と並んで歩く帰り道。
夕陽で空がオレンジ色に染まり、制服の裾を揺らす風が、やけに冷たく感じられる。
「ねえ、蓮。今日、少し元気ないよね?」
不意に彼女が立ち止まり、俺の顔を覗き込んだ。
澄んだ瞳が、心の奥まで射抜いてくるようだった。
「……そう見えるか」
「うん。なんだか考えごとしてる顔」
「……」
言葉が詰まる。
彼女は小首を傾げ、唇を尖らせた。
「何か気になる?」
「いや、別に……」
答えながら、喉がひどく乾く。
どうしても聞かずにはいられなかった。
「昨日の放課後、何してた?」
美月は一瞬驚いたように目を瞬かせ、すぐに柔らかく微笑んだ。
「昨日? 本屋に寄ってからすぐに帰ったよ」
自然すぎるその仕草。
隠し事をしているようには、とても見えなかった。
――なのに。
悠真の声が、頭の中で何度も反響する。
“知らない男と歩いてた”
心臓がざわつく。呼吸が浅くなる。
彼女の笑顔さえ、仮面のように見えてしまう。
「……そっか。ならいい」
そう言うのが精一杯だった。
それ以上は追及できなかった。
彼女を疑うなんて、最低だ。分かっている。
それでも、胸のざわめきはどうしても止まらなかった。
疑念は日に日に膨らんでいった。
授業の内容も頭に入らず、部活の声も遠く霞んで聞こえる。
気がつけば、俺の視線はいつも美月を追っていた。
昼休み、教室の隅。
美月が女子たちと笑い合う姿を眺めながら、俺は手にしたパンをかじることも忘れていた。
彼女の笑顔があまりに自然で、あまりに眩しくて――だからこそ、余計に信じられなくなる。
放課後、意を決して彼女を尾けた。
罪悪感に胸を刺されながらも、足は止まらない。
下校の人混みに紛れ、少し離れた位置から彼女の背を追いかける。
――そして。
駅前の人混みの中で、美月は立ち止まった。
視線の先、そこにいたのは一人の男。
俺の知らない顔。
俺の知らない声。
ふたりは小さく言葉を交わし、そのまま歩き出す。
自然すぎる並び。距離感。
何より、美月が見せた柔らかな笑み。
――俺だけに向けられていたはずの表情。
その瞬間、胸の奥で「確信」に変わった。
逃げ場はもうなかった。
次の日。
教室の窓際で、美月を呼び止めた。
人の少ない放課後の空気。
揺れるカーテンの隙間から差し込む光が、彼女の頬を照らしている。
「……昨日、駅前で誰と一緒にいたんだ」
声が震えていた。
美月は一瞬だけ目を泳がせ、それからかすかに笑った。
「……見られてたんだ」
「答えてくれ」
「ただの友達だよ。塾の子」
「本当に、それだけか?」
「ええ」
即答。迷いのない声。
なのに――俺の胸に広がるのは安堵ではなく、ひどい虚しさだった。
「……なら、いい」
それ以上は言えなかった。
彼女を問い詰める勇気がなかった。
けれど、心のどこかで確信していた。
あの笑顔は、もう俺だけのものじゃないのだと。
それから数日後。
放課後の外は冬の訪れを告げるように冷え込んでいた。
吐く息が白く広がる。街灯が滲む。
用事があると言って先に学校を出た美月の連絡をまっていた俺は、駅前のベンチに腰を下ろし、震える手でスマホを握りしめていた。
通知は鳴らない。
けれど胸騒ぎが止まらない。
足は勝手に彼女を探しに動き出していた。
――見つけてしまった。
美月。
そして彼女の隣には、あの日と同じ男がいた。
ふたりは笑い合い、彼女の肩が小さく触れるたび、男は嬉しそうに顔をほころばせていた。
時間が止まった。
耳鳴りがして、鼓動の音だけが響く。
声をかけようとしても、喉は凍りついたように動かない。
ただ、目の前の光景が胸を貫いていく。
――裏切られた。
頭の中で言葉が何度も反響する。
信じたい気持ちと、信じられない現実。
すべてがごちゃ混ぜになり、視界が滲む。
そのまま逃げるように背を向けた。
どこに向かっているのかも分からず、ただ夜の街を歩き続けた。
ポケットの中のスマホが震える。
画面に浮かぶのは「美月」の名前。
震える指で通話ボタンを押す。
『蓮? 今どこにいるの?』
「……駅前」
『私もさっきまでいたよ。気づかなかったな』
「……そうか」
『ねえ、声、変だよ。何かあった?』
問いかけに答えられなかった。
声を絞り出そうとするたび、胸が痛んだ。
『まだ駅前にいる?そっちに行くから待ってて』
「わかった」
やがて、通話は途切れた。
画面の光が消え、残されたのは冷たい風だけだった。
雪がちらつく帰り道。街灯の光に白く照らされる路面が、冷たく輝いていた。
俺は足を止め、深呼吸を繰り返す。
胸の奥に渦巻く感情は、言葉にすることを拒むように重く、鋭かった。
美月は何も知らずに、笑顔で近づいてくる。
「蓮、待った?」
「……いや」
言葉は短く、冷たく響いたかもしれない。
手を握ろうとする彼女の手を、俺はそっと振り払った。
その瞬間、彼女の笑顔が一瞬だけ崩れ悲しそうな顔をした。
その表情に俺は胸を締めつけられる。
「……美月」
「うん?」
呼びかけた声は、震えていた。
「俺……もう……無理かもしれない」
彼女は目を見開いたまま、言葉を失う。
泣きそうな瞳。小さく震える唇。
「なんで……? 蓮……?」
「信じたいのに、信じられないんだ。……美月が、他の誰かと……」
俺は言いかけて、喉が詰まった。
そのまま、目の前の景色が揺れる。
美月はそっと俺の手を握り返す。
「ごめんね……蓮。私……本当に、君だけだった」
言葉はやさしく響くのに、胸に刺さる痛みは消えない。
俺は彼女を抱きしめることも、笑顔を取り戻すこともできず、ただ立ち尽くすしかなかった。
雪が舞い落ち、ふたりの影を細く長く伸ばしていく。
言葉にできない想いが、冷たい夜の空気に溶けていった。
あの日から、俺と美月との間には埋められない溝ができてしまった。
教室で隣に座っていても、言葉が交わらない。
廊下ですれ違っても、視線を合わせられない。
――そして、その日は突然やってきた。
昼休み。校庭で悠真と話していると、女生徒が息を切らして駆け寄ってきた。
「神谷くん! 白石さんが……倒れたって!」
その言葉に思考が真っ白になる。
気づけば、俺は校舎を全力で駆け抜けていた。
保健室のベッドに横たわる美月。
蒼白な顔、細い指先。
「美月!」
呼びかけても、彼女は薄く目を開くだけだった。
すぐに救急車が呼ばれ、彼女は病院へ運ばれた。
待合室で俺は何もできず、ただ祈るように時間を過ごす。
やがて現れたのは、あの時の青年だった。
「……君が、蓮くんだね」
彼は落ち着いた声でそう言った。
「僕は白石翔太。美月の兄だ」
「……兄?」
耳を疑った。
「この前、一緒にいたのは――」
「ああ、僕だ。突然で驚かせたかもしれない。……すまない」
頭の中で、音を立てて何かが崩れていく。
友達じゃなかった。恋人でもなかった。――家族。
美月は、嘘をついていた。
けれど、それだけじゃ終わらなかった。
翔太さんは、静かに言葉を続ける。
「美月は、生まれつき心臓に持病があるんだ。ここ数ヶ月、状態が悪化していて……」
「……そんな」
「彼女なりに、普通の高校生活を送りたかったんだと思う。君に心配をかけたくなくて、隠していたんだ」
胸の奥が痛む。
俺が疑い続けたその時間、彼女はひとりで苦しみに耐えていたのか。
どうして――どうして気づけなかったんだ。
病室に入ると、美月はベッドに横たわっていた。
酸素マスクをつけ、それでも微笑もうとする。
「……蓮、来てくれたんだ」
「当たり前だろ……!」
声が震える。視界が滲んで、彼女の顔がうまく見えない。
「ごめんね。……嘘、ついてた」
「……なんでだよ。どうして俺に言ってくれなかったんだ」
「だって……蓮には、笑っててほしかったから」
その言葉が、刃のように心に突き刺さった。
病室の窓から差し込む月明かりが、白いシーツを淡く照らしていた。
消毒液の匂い、規則正しく鳴る心電図の音。
俺はベッドのそばに座り、美月の手を握りしめていた。
「ねえ、蓮」
弱々しい声が静寂を破る。
「私ね……ずっと幸せだったよ。放課後に一緒に帰ったこと、教室で笑い合ったこと、ぜんぶ」
「やめろよ。まるで、もう……」
「うん。もう長くないって、自分でも分かってるから」
彼女はかすかに笑った。その笑顔は、泣きたくなるほどきれいだった。
「ごめんね、嘘ばっかりで。本当はずっと、怖かった。もし病気のことを話したら、蓮に重荷を背負わせちゃうんじゃないかって……」
「そんなこと……!」
声が詰まる。
「俺は……たとえどんなことでも、美月を――」
言葉の続きを紡ぐ前に、彼女がそっと僕の唇に指を当て、泣きそうな笑顔で彼女は言った。
「……。最後まで、信じて欲しかった……。ごめんね……ありがとう。恋人でいさせてくれて」
その目がゆっくり閉じていく。
俺は必死に名前を呼んだ。
「美月!美月!」
けれど、その声は彼女には届かない。
――静寂。
心電図の音が途切れ、夜が深まる。
俺の掌には、力を失った彼女の温もりだけが残されていた。
涙が頬を伝い落ちる。
「……たとえ嘘でも、俺は君を信じたかった」
その言葉だけが、虚空に響いた。
彼女のいない世界で、これからも生きていかなくちゃならない。
笑顔も、嘘も、全部ひっくるめて。
俺は彼女の記憶を抱きしめて歩いていく。
――もう二度と、戻らない日々を胸に刻みながら。
