「メリンダが、僕と結婚したいんだって。だから離縁しよう」

 まるで幼子のような純粋無垢な笑みは、誰が見ても好感が持てるものだろう。
 セミロングの蜂蜜色の艶やかな髪に、端麗な顔、宝石のように美しい青紫色の瞳の彼が微笑めば女性達は色めき立つに違いない。

 だがエヴェリーナは、彼の無邪気な笑顔が世界で一番嫌いだ。この瞬間、それを改めて感じた。

 十年、懸命に彼を支えきたと自負している。だが彼には何も伝わっていなかったのだろうか。
 病を克服した彼に、もう私は必要ないという事なのかも知れない。

「承知致しました、離縁致しましょう」

 昔から彼は頑なで、自分の主張が通ると信じて疑わないし実際叶ってきた。
 一度言い出せば周りが何を言ってた所で意味がない故、説得するだけ時間の無駄だ。

「リナなら、そう言ってくれるって思ってたよ! じゃあ、早速これにサインして」

 テーブルに出されたのは離縁書だ。
 彼が用意した物ではない事は明白だ。何故なら彼は一人では何も出来ない人だから。
 差し詰め、彼の浮気相手であるメリンダが用意した物に違いない。まあそんな事はもはやどうだって良いのだが……。

「ねぇ、リナ。メリンダの部屋、どこにする?」

 サインを書いている間、彼がそんな事を言い出した。
 いくら自分で決められなくても、流石に無神経にも程がある。

「そのような事は、メリンダ様と話し合われた方が宜しいのではないでしょうか」

「えー、でも僕はリナに決めて欲しいんだ」

 十年一緒に暮らしてきたが、彼の思考回路が未だに全く持って理解出来ない。

「……現在私が使っています続き部屋が空くので、そちらにされたら宜しいのでは」

 病弱だった彼の看護の為に、いつでも直ぐに駆けつけられるようにと、二人の部屋は続き部屋になっていた。
 本来ならば夫婦なのだから同室であるのが好ましいが、何しろ生まれ付き病弱な彼はこれまでずっとベッドの上で生活をしてきた。それ故、同室は難しいので必然的にそうなった。

「え、リナ、部屋移るの? メリンダには別の部屋を使って貰うから、リナは今のままでいいよ」

 眉根を寄せ少し拗ねたように口を尖らせる彼に、思わず書き終えた離縁書を手から落としそうになる。

「ジュリアス様、私達は離縁するんですよ」

「うん、そうだよ」

「メリンダ様と再婚なさるのですよね?」

「だから?」

「ですからあの部屋、いえ、この宮殿を私は去らなくてはなりません」

 話が噛み合ってないと感じ、改めて確認をするが、ジュリアスは首を傾げるだけでこちらの言わんとする事を理解していない。

「去るって、リナ、ここを出て行くってこと?」

「はい、そうですね」

 酷く驚いた様子で声を上げる姿に、こちらも驚いた。

「そんなのダメだよ! リナは僕とずっと一緒にいるって約束したでしょう⁉︎」

「それは……」

 確かに昔、そんな約束をした記憶はある。だがその約束を反故にしようとしているのは正に彼自身だ。

「ジュリアス様。離縁したら私達の縁はそこでなくなるんです」

「ダメ‼︎ 出て行くなんて許さない‼︎ 僕はメリンダと結婚するけど、リナはずっと僕のリナだから、僕の側にいなくちゃダメなんだ!」

 近くに控えている使用人達は困惑した表情でこちらを見ている。当然だろう。十六歳になったばかりとはいえ、いつまでも子供のようなジュリアスの姿に怒りや呆れなどではなく、虚しさを覚えた。
 
「だから、これからもずっと一緒だよ! ね?」

 無邪気に笑う彼に、どうにか平常心を保っていたが限界だった。
 天使のような笑みが歪んで見える。
 自分が惨めで、虚しくて……疲れてしまった。

 私は、もう頑張れないーー
 
(逃げなくちゃ……)

 そう頭に過ぎるのは、きっと防衛本能かも知れない。