「カーク!」
「エステル……様っ」

 驚く彼に駆け寄り、軽く息を整える。彼の空色の瞳がふと細められた。まるで何か眩しいものを見ているかのような、見たことのない表情だった。

「カーク、その……」

 こんなときになって、まともな言葉が出てこない。ここを旅立てば魔獣を殲滅するまで帰ってこられない。いくら聖剣に選ばれた英雄だからといって、彼が無事である保証はないのだ。

 周囲には出発の準備に勤しむ大勢の騎士たちの姿があった。今回の討伐隊に参加するのはカークだけではない。騎士たちの剣で魔獣を絶命させることはできなくとも、足止めにはなる。カークが魔獣にとどめを刺しやすいよう、彼らもまた剣を振るう。

 けれど騎士たちとカークの違いは明確だ。彼らは休むことが許されるし、失礼な言い方をすれば逃げることも断ることもできる。けれどカークにはそれが許されない。聖剣の持ち主である彼はこの重責から(のが)れられない。仮に彼が剣を手放すことが許されるとするなら——それは命を散らしたときだけだ。

 その事実に今更ながらに気づいて、エステルは息が止まりそうだった。喉が塞がれてかけらの声も出せない。

 思わず俯いた先に彼が腰に穿いた聖剣が映り、その存在が——憎いと思ってしまった。

(なぜカークでなければならなかったの。なぜ彼を選んだのよ……っ!)

 ルヴァイン王国の姫として、決して抱いてはならない思い。国を守る聖剣に楯突く声をあげるなど、許されることではないとわかっていながら、渦巻く思いを制御することができない。

 目の前にある聖剣を奪って、地面に叩きつけてやりたい衝動に駆られた。魔獣の暴走から我々を守ってくれる唯一無二の剣を。カークが、エステルが恋する彼が、姉に捧げたその剣を。

 言葉を失ったエステルの頭に、ふと温かな気配が降りてきた。カークの手がエステルの頭をぽんぽん、と撫でていた。

「どうやら俺は、すごく運がいいみたいです」

 彼の手が作る影の先で、空色の瞳が揺れた気がした。逆光になってよく見えない。

「万が一の奇跡を願ってはいたけど、まさか英雄になれるなんて考えてもいなかった。これで俺の夢が叶うかもしれないと思うと……心から嬉しいんだ」

 そして彼は——大きく破顔した。

「だからエステル、俺を笑顔で見送ってほしい」

 何度も見上げた彼の表情の中に、懐かしい景色が見えた気がした。城中の庭という庭を探検して走り回ったあの頃。カークはいつもエステルを後ろを追いかけてきてくれた。

 いつの間にか彼は自分を追い越し、そしてずっと先まで走り抜けようとしている。

(あぁ、そうか……)

 いつかのカークの言葉を思い出す。万が一の奇跡を起こすために騎士になるのだと、そう言った。王女の隣に並び立つために武功を上げたいのだと、そのために彼女に剣を捧げたいのだと。

 最後の願いはすでに叶った。聖剣は姉ソフィアに捧げられ、ソフィアもまた彼の忠誠を受け取った。

 次にカークが願うのは——姉ソフィアの隣に立ち、彼女が導く国ごと、真の意味で守れる存在になること。

 英雄という肩書きは、彼にとって奇跡を起こせる唯一無二の力だ。子爵家という身分では不可能だった彼の夢を、その肩書きが叶えてくれる。

「……わかった」

 今理解したのではない、ずっと前からわかっていたこと。

 彼は姉を愛し、姉もまた彼のことを慕っている。

 エステルは込み上げる思いに蓋をして、唇の端を吊り上げた。

「絶対無事に帰ってきてね、約束よ」
「……あぁ」

 カークの手が伸びて、またエステルの頭を撫でる。幼い子どもにするようなこの行為が、なぜか今は恨めしい。

 けれどこの手は、ソフィアでなくエステルだけに向けられるものだった。彼が無事凱旋し、その褒賞で姉の婚約者に据えられたら、もう与えられることもなくなるだろう。

 これが最後になるかもしれない、彼の手。自分は今、うまく笑えているだろうか。

 カークと別れ、城のバルコニーから旅立つ騎士団を見送る。最前列で黒馬に跨る彼と聖剣が一際輝いているのを、皆が熱狂的に讃えている。

 隣では姉が凛とした表情で見送りに臨んでいた。彼女の胸中には何があるのだろう。自分の隣に並び立つために、奇跡を起こして英雄となった彼のことを、誇らしく思っているのだろうか。

 エステルの思いを他所に、カークは旅立っていった。そして、二年という長き月日に渡り、国の英雄であり続けた。