いつか、桜の季節に 出逢えたら

「おーい、起きてる?」

目の前を、何度か手の影が通ったように見えた。

気付くと、紫苑がプリントを広げて座っている。


「あ、ごめん」

そういえば、紫苑に勉強を教えているところだった。

猫又によって記憶を取り戻してからというもの、私がここに来る前の嫌な思い出たちが、頭の中を埋め尽くすようになった。
ーーある意味、トラウマのようなものだ。


「お前、昨日から、なんかおかしくない?」

「別に? 何でもないよ?」

とりあえず、笑ってごまかす。


「……ならいいけどさ。たまに、意識がどっか行ってるよね?」

「ごめん。お腹が空いちゃったのかも……」

言えることが何もなくて、適当な理由を口にした。


「さっき、夕飯食ったのに? しょうがないな、これでも食え」

紫苑がスティックチョコを一本、つまんで差し出す。
私はそれを口で受け取って食べた。


「ありがと」

ーーもぐもぐ


「ほれ、もう一本」

ーーぱく、もぐもぐ


「もう一本」

ーーぱく、もぐもぐ


紫苑を見ると、下を向いたまま、肩を震わせて笑っている。

「なんか……餌付けしてるみたいだな」


ハッと、我に返る。

「……あまりにも自然すぎて、何の違和感もなかったわ……」


考え事をしていたとはいえ、何度も人の手から物を食べるとは。
なんと、お行儀の悪いこと。

ここは、居心地が良すぎるんだよね。
この、何やっても許される感じが。


「ごめんごめん。どこかわからないところ、あった?」

「じゃあ、ここ」

「これはね……」


最初「わからないところがわからない」と言っていた紫苑も、毎日の積み重ねで少しずつ苦手を克服しているように見える。

こんなふうに、効果が目に見えてわかれば、学習意欲も湧くのだろう。

ーークラスにはいろんなタイプの生徒がいて、みんなに同じ授業はするけど、理解力も違うし、モチベーションも違うし、同一に指導するのは難しいのよね。
しかし、保護者の信頼を得るにはーー


「はい」

目の前に差し出されたスティックチョコを、ぱくっと食べる。


「また、どっか行ってた?」

テーブルに肩肘をついて私を見つめる紫苑の笑顔がとても可愛くて。
母性だか庇護欲だかの、よくわからない感情が胸の奥でざわめいた。


「いいえ? ずっとここにいましたよ?」

「また、どっか行ったら、俺が何度でも、引き戻してあげますよ?」


「……それは、どうも」


そして、紫苑に差し出されたチョコスティックを、ぱくっと食べた。

「おいひい」

紫苑と二人、笑い合う。


私がここに来た意味、私がこれからどうするべきか、まだ決められない。
いつでも戻れるって、猫又は言った。
私の願いを叶えれば、幸せな世界が待っているかもしれない。
けれど、絵梨花の死をこのままにもしておけない。
それに、ここを離れたくないの。
神様どうか、もう少しだけ、ここにいさせて下さい。