皮膚を焼く暑くまぶしい青空、吹奏楽部のトランペットの音、ストレッチする陸上部。
セーラー服を靡かせながら、走る廊下。
嗚呼、わたくし只今、青春中!
「何ぐずぐずしてるの!?次は水泳部よ!」
「先輩、ちょっと待ってよう!」
カメラの機材を重そうに、ふらふらになりながら走って追い付いてくる後輩が懸命に叫ぶ。
「わたくし達がこうして話している間にも、水泳部の青春は始まってるのよ!」
「…『わたくし』って、『青春』て……先輩そんなキャラでしたっけ?」
ゼェハァしながら追いついた、後輩けんアシスタントの千代田は、首を傾げた。
「……高校デビューの練習中、よ」
そう言いながら、本心はバレないように気を取り直した。
「陸上部、吹奏楽部しかまだ撮ってないのよ? この中学に部活は何個あると思ってるの?
速くしなきゃ青春は逃げていくわ!」
「……青春は逃げませんて」
焦りを隠して、痛みを忘れて、早く速くはやくハヤく!
千代田、君と過ごした思い出も忘れずに持って行くからね。
『わたし』の最後の青春作り。
「あ、水泳部の次は卓球部、テニス部、バスケ部、バレー部ね」
「ええー!」
可愛い顔を歪めて、千代田は嘆いた。
それを無視してわたしは歩いていく。いや、わたくし?
まあ、心の中まではわたくしって呼ばなくてもいいか。
「だから待って下さいよ! 先輩!」
千代田には申し訳ないけど、わたしはもうただただひたすら走っていたかった。
走り抜けるしか、なかった。
わたしと千代田は、部員2名の写真部だった。
わたしが卒業しても、来年二年生の千代田が居るので廃部にはならないと思う。
行事や季節の写真を撮って、新聞部に提供する。なので、ほぼ新聞部と共に活動していた。
活動場所、もとい部室は吹奏楽部の楽譜やら楽器やらを直す倉庫。
千代田とは、そこで出会った。
入学当初は、143センチの、どうみても小学生が学ランを着たような、目の大きい小動物だった。
「千代田も、153センチに大きくなったよねぇ」
水泳部の写真を撮り終わった後、優しく髪を撫でた。
163センチあるわたしの目線の先には、ちーの旋毛があった。
「小学生が学ラン着てどうしたのって先輩、僕に本気で言いましたからね!」
「あはは」
適当に笑いながら、屋上を目指した。まあ言った。だって身長が伸びるだろうからって大きな学ラン来ていて、なんだかぶかぶかな姿が子供っぽかったんだもん。
「知らなかったなぁ。卓球部て屋上でしてたんだねぇ」
だって球が一階まで落ちたら危ないじゃん。
でも屋上って言っても隅っこのスペースにあるビニールハウスなんだもん。
元々は植物を育てていた温室が、冷房の入るビニールハウスに魔改造されているらしい。
全く知らなかった。
「先輩が見てなさすぎるんですよ」
「……そうかも。そうだ!絶対そうだそうだ!」
「……先輩?」
「だから、あんなチビだった千代田のピアノなんかに目も耳も奪われたんだよねぇ」
そう言って、ドアを開け青空を見上げた。
だって親に連れられて行ったコンサートは退屈だったじゃない。
なのに、小さな千代田のピアノに全神経をピリピリ痺れさせたのは、おかしいじゃない。
青空、笑い声、夏休み前の暖かい昼下がり。
キラキラして、眩しくて、
ぬるま湯みたいにダラダラとわたしを縛り付ける。
「ちょっと休憩」
一段落着いたので、体育館二階の、モニター室に侵入した。カーテンを開け窓を開け、太陽の光を浴びた。
「飴あげる♪」
千代田に1つ飴を投げ、自分も口に放り込んで、ゴロンと寝そべった。
風が涼しく、生徒の声が、通り過ぎていく外の景色のように遠く、切り離されたこの空間が気持ち良かった。
「……ありがとう、千代田」
「何ですか? 急に気持ち悪い。傘持って来てないからやめてください」
散々いじめられ慣れている千代田は、疑い深くこちらを見た。
わたしは風を感じる為に、目をつぶった。
『中学校生活の思い出を撮りたい』
わたしがただそう言っただけなのに、部活内容外の事まで手伝ってくれる優しいチビ。
「もっと、ちーと、皆と、嫌いな後輩やムカつく先生と」
こうして、ゆったりとした時間の中で接したかったなぁ。
そうしたらもっと周りが見えたかもしれない。
前ばかり見て、全力で走りすぎて、何が見えたた分からないまま、わたしはゴール一歩手前にいる。
そして、後ろを振り返って、ゴールしていいのか迷って佇んでいる。
この先にあるものは、千代田と過ごした早すぎる日々より楽しいのだろうか?
ふっと頭に柔らかい手が触れた。
千代田がわたしの頭を撫でていた。
「何!?」
「無理、しないで下さい」
目を開くと、心配そうに千代田がわたしを見下ろしていた。
なんで、あんたが泣きそうな顔してるんだよ。
「先輩は、いつも確かに無計画で無鉄砲で適当に楽しい事だけ全力でやってましたけど」
「褒めてないよね、ソレ?」
ムッと睨みつけると、千代田は寂しそうに笑った。
「『わたくし』とか喋るし、なんか焦ってるし、いつもの先輩らしくなくて心配です」
わたしは慌てて顔を背けた。ゴロンと横を向いて、千代田から表情を読み取れないように。
「僕は、前の先輩の方が好きですよ?」
いじめられても、楽しかったから。
そう言うと、しばらく頭を撫でてくれた。
優しくて、面倒見の良い、わたしの自慢の後輩。
だけど、何故か――胸がドキドキする。
撫でられた頭が熱い。
苦しい。ドキドキして泣きそう。叫びながら泣きたくなる衝動。
千代田との思い出を残そうと、焦って頑張って、全力で走って来た意味が少しだけ分かってしまった。
「わたくし、今日は帰りますわ!」
「へ? 先輩!」
嗚呼、知りたくなかった。
この感情に意味なんて要らなかったのに!
ドキドキする音は、なかなか治まらなかった。
「本っ当。中学生の恋愛って手軽で良いよねー」
「……お姉ちゃん。帰ってたの?」
千代田の顔、手の温度、言葉、少しでも思い出したら、恥ずかしくて暴れてしまっていた。
「アンタが百面相している前から帰ってたわよ」
香水はハイブランドの新作を出たら買う。カバンもコスメも服も靴も、バッグもアクセサリーも。
ハイブランドの口紅を艶やかに歪ませる姉。
「中学生て、相手の学歴も収入も家柄も関係なく、スポーツができるだの、重い荷物持ってくれたの、雨の日に子犬を拾ってただの、お手軽で単純に好きになるよね」
「それこそお姉ちゃんの大好きな漫画の中の話しじゃない?」
むぅっと口を尖らせると、フッと意地悪く笑ったあと、また寂しそうに笑った。
「戻りたいわ」
そう言うと、長い爪でも慣れた手つきで携帯を取り出した。携帯のケースまでハイブランドにしておいて何を言うのか。
「あんたもさ、私が言うのもアレだけど、本当に受験すんの?あの女子校に」
答えは沈黙。これはお姉ちゃんの好きな漫画で言っていた。
正解は沈黙だ。
「私じゃ期待に応えられなかったから、アンタに迷惑かけたね」
何を言っても誰かが傷つくんだから沈黙だ。
「それで、良いのね?」
トランペットの音、夏の匂い、陸上部の掛け声、野球部のボールを打つ、音。
瞳を閉じて、刻む。
思い出を、キラキラした初恋を、青春を。
わたくし、只今青春中! 青春中なの!
何も答えない私に、お姉ちゃんは小さく「ごめんね」って謝ってくれた。
でも私は正解はもう分かっていた。
***
夜中の2時ぐらいだろうか。
真っ白なノート……。
結局お姉ちゃんの言葉に心をかき混ぜられて今日は勉強に身が入らなかった。
手軽で簡単で、何も障害がない。だからお姉ちゃんは羨ましいと言ったんだろうけど。
手軽で簡単で、障害がなかったら、――こんなに苦しいわけはなかったよ。
ブラスバンド部の、楽器倉庫。
その隣のピアノ教室で、チビな小学生みたいな少年が、ウットリとピアノを弾いていた。
その音色は、優しくて透き通っていて、晴れ晴れした青空の下、何処までも続く草原のように自由で、楽しくなるような、躍動感。
私が欲しかった、探してたもの、全て持ってた。
『先輩、まだ起きていたら窓の外を見てくれませんか』
「えっ!?」
千代田からのメッセージに思わず既読を付けてしまった。
『こんな時間まで先輩が気になって眠れなかった。やっぱりいつもと違ってなんだか、嫌だった。眠れなくては知って走って、走っていたら家の前に来てました。ストーカーですいません』
こんな夜中に?
恐る恐るカーテンを開ける。
「千代田」
自転車のライトが弱々しく光る中、汗だくのちーが倒れ込むように自転車に座っていた。
夜中に、どうして此処に?
「ごめんね! 先輩!」
一階にまだ電気がついていたので、千代田は口ぱくで、けれどしっかりと私を見て謝った。
「僕、受験生の先輩に対して、無理しないでとか軽々しく言ってしまって……」
「ちょっと待ってて」
「……ごめんね。先輩。受験勉強中に」
「大丈夫。全然勉強なんてしてなかったしぃ」
少し肌寒く感じ、長めのカーディガンの袖を引っ張りながら寒い指先を隠す。
夏が始まるというのに、なんで夜はまだ寒いの?
本当に寒いのかわからなかった。
道路まで出ていくと汗でびっしょりの千代田がいて、カーデガンを羽織る私とは正反対だったから。
「先輩なら勉強できるから余裕なんだ」
「まぁね。わたくし、あの有名なカナリア女学院高等部に推薦入試の予定だしね」
「え!?」
目がまん丸になって、千代田が驚いた。 やっぱり千代田も知ってるんだ。
「あの近寄りがたい、金持ちオーラばりばりのお高くとまった高校でしょ? 車送迎必須、各界のご子息御息女、旧家、旧財閥、先祖が武士だのすっごい家柄重視のお嬢様学校でしょ? ……先輩ぽくないよ!?」
「…だから、『わたくし』なの。私はこの家の家族だし」
千代田は私の家を見上げた。
三階建てのまるで宮殿みたいな、成金全開の屋敷。
門には石像なんて左右に置いて、トピアリーだらけの広い庭に、これ見よがしに女神が壺から水を流す噴水。
広くて、そして世界一窮屈なこの家。
目を瞑って、千代田の隣の空気を吸う。
気持ち、いい。
千代田が居るだけで、私の胸はドキドキワクワクする。
二時なのに、蝉は鳴かないのに、
涼しいのに、不規則なリズムで私の胸は鳴る。
「もう少ししたら、『わたくし』は近寄りがたいお高くとまった金持ちオーラばりばりの女子高生になるんですもの」
千代田は両手をあわあわさせて動揺を隠しきれていなかった。
「なんで? 先輩、なんで?」
――――なんで、無理してるの?
そう、言った。
「無理なんてしてないよ」
あ……今、わたし上手に笑えた。
上辺だけの造り笑い。
上手に、笑えた。乾いた笑顔。
でも、涙も流れてしまった。
「先輩、お願いします」
――心の中に溜めないで?
悲しそうに言った。
トランペットの音、グラウンドの練習の声、蝉が鳴く、暑い午後、笑っている、貴方。
全部全部、写真に収めて、貴方をすべて写真に閉じ込めて。
頑張りたいって、頑張れるって、そう思ってたんだ……。
苦しい。苦しいよ……。千代田。
頑張るって決めたわたしの心を受け止めないで。
でももう私しかいないんだ。
姉が受験で失敗して、父が激怒して母と姉の頬を叩いた。
『男でも産んでいれば!』
毎日母は泣いていて、姉は家に寄り付かなくなった。
でもーー。
でも私があの学校に姉の代わりに受かれば、父は機嫌を直してくれるっておばあさまが言っていたの。
母を助けるためにも、お姉ちゃんにこれ以上苦しい思いをさせないためにも。
私だけ青春のぬるま湯の中に浸かっていたら誰も救えないんだ。
「大丈夫よ。わたくし、今からは1人で頑張るんだから」
親の期待に、姉も心傷ついた。
わたしも頑張れる所まで頑張ってみる。
思い出を、大切にしまって。
――ゆっくりと千代田の右腕を掴んだ。
「1人で頑張るわ。――明日から」
だから、千代田に抱き着く。
ああ、小学生みたいな小さな千代田が良かった。
あの時の千代田ならぬいぐるみみたいに抱きしめられていたのに。
こんなに大きくなったらしがみつくしかないよ。
「だから、今日だけは泣かせて」
明日には忘れてね。
そう言って、腕の中に侵入した。
千代田の腕の中は思っていたより頑丈で、温かい。
優しい包み込んでくれる、温もりでした。
握った手を、開いて見つめてみた。
千代田は、苦しげにわたしを見て、家族が起きる前に帰っていた。
千代田の体から、不規則な心臓の音がなっていた。
初めて千代田を見た時に、ピアノの上にあったメトロノームを思い出した。
規則的なリズムを、無表情にならす音。
ありがとう。
初めて会った時のあのピアノから奏でるあの音色より、不規則でも私のためのリズムを刻む心臓の音が嬉しかった。
けれど、わたしの青春も、受験や日々の思い出や、千代田への思いで不規則で、心地よい。
苦しくて、苦しい中で誰かに恋する、それだけでまた、音が刻める。
君と離れるまであと数ヶ月。
君がいない生活まで数ヶ月。
案外、すぐに忘れるかもね。
それまで、不規則に、わたしはメトロノームを鳴らすだろう。
セーラー服を靡かせながら、走る廊下。
嗚呼、わたくし只今、青春中!
「何ぐずぐずしてるの!?次は水泳部よ!」
「先輩、ちょっと待ってよう!」
カメラの機材を重そうに、ふらふらになりながら走って追い付いてくる後輩が懸命に叫ぶ。
「わたくし達がこうして話している間にも、水泳部の青春は始まってるのよ!」
「…『わたくし』って、『青春』て……先輩そんなキャラでしたっけ?」
ゼェハァしながら追いついた、後輩けんアシスタントの千代田は、首を傾げた。
「……高校デビューの練習中、よ」
そう言いながら、本心はバレないように気を取り直した。
「陸上部、吹奏楽部しかまだ撮ってないのよ? この中学に部活は何個あると思ってるの?
速くしなきゃ青春は逃げていくわ!」
「……青春は逃げませんて」
焦りを隠して、痛みを忘れて、早く速くはやくハヤく!
千代田、君と過ごした思い出も忘れずに持って行くからね。
『わたし』の最後の青春作り。
「あ、水泳部の次は卓球部、テニス部、バスケ部、バレー部ね」
「ええー!」
可愛い顔を歪めて、千代田は嘆いた。
それを無視してわたしは歩いていく。いや、わたくし?
まあ、心の中まではわたくしって呼ばなくてもいいか。
「だから待って下さいよ! 先輩!」
千代田には申し訳ないけど、わたしはもうただただひたすら走っていたかった。
走り抜けるしか、なかった。
わたしと千代田は、部員2名の写真部だった。
わたしが卒業しても、来年二年生の千代田が居るので廃部にはならないと思う。
行事や季節の写真を撮って、新聞部に提供する。なので、ほぼ新聞部と共に活動していた。
活動場所、もとい部室は吹奏楽部の楽譜やら楽器やらを直す倉庫。
千代田とは、そこで出会った。
入学当初は、143センチの、どうみても小学生が学ランを着たような、目の大きい小動物だった。
「千代田も、153センチに大きくなったよねぇ」
水泳部の写真を撮り終わった後、優しく髪を撫でた。
163センチあるわたしの目線の先には、ちーの旋毛があった。
「小学生が学ラン着てどうしたのって先輩、僕に本気で言いましたからね!」
「あはは」
適当に笑いながら、屋上を目指した。まあ言った。だって身長が伸びるだろうからって大きな学ラン来ていて、なんだかぶかぶかな姿が子供っぽかったんだもん。
「知らなかったなぁ。卓球部て屋上でしてたんだねぇ」
だって球が一階まで落ちたら危ないじゃん。
でも屋上って言っても隅っこのスペースにあるビニールハウスなんだもん。
元々は植物を育てていた温室が、冷房の入るビニールハウスに魔改造されているらしい。
全く知らなかった。
「先輩が見てなさすぎるんですよ」
「……そうかも。そうだ!絶対そうだそうだ!」
「……先輩?」
「だから、あんなチビだった千代田のピアノなんかに目も耳も奪われたんだよねぇ」
そう言って、ドアを開け青空を見上げた。
だって親に連れられて行ったコンサートは退屈だったじゃない。
なのに、小さな千代田のピアノに全神経をピリピリ痺れさせたのは、おかしいじゃない。
青空、笑い声、夏休み前の暖かい昼下がり。
キラキラして、眩しくて、
ぬるま湯みたいにダラダラとわたしを縛り付ける。
「ちょっと休憩」
一段落着いたので、体育館二階の、モニター室に侵入した。カーテンを開け窓を開け、太陽の光を浴びた。
「飴あげる♪」
千代田に1つ飴を投げ、自分も口に放り込んで、ゴロンと寝そべった。
風が涼しく、生徒の声が、通り過ぎていく外の景色のように遠く、切り離されたこの空間が気持ち良かった。
「……ありがとう、千代田」
「何ですか? 急に気持ち悪い。傘持って来てないからやめてください」
散々いじめられ慣れている千代田は、疑い深くこちらを見た。
わたしは風を感じる為に、目をつぶった。
『中学校生活の思い出を撮りたい』
わたしがただそう言っただけなのに、部活内容外の事まで手伝ってくれる優しいチビ。
「もっと、ちーと、皆と、嫌いな後輩やムカつく先生と」
こうして、ゆったりとした時間の中で接したかったなぁ。
そうしたらもっと周りが見えたかもしれない。
前ばかり見て、全力で走りすぎて、何が見えたた分からないまま、わたしはゴール一歩手前にいる。
そして、後ろを振り返って、ゴールしていいのか迷って佇んでいる。
この先にあるものは、千代田と過ごした早すぎる日々より楽しいのだろうか?
ふっと頭に柔らかい手が触れた。
千代田がわたしの頭を撫でていた。
「何!?」
「無理、しないで下さい」
目を開くと、心配そうに千代田がわたしを見下ろしていた。
なんで、あんたが泣きそうな顔してるんだよ。
「先輩は、いつも確かに無計画で無鉄砲で適当に楽しい事だけ全力でやってましたけど」
「褒めてないよね、ソレ?」
ムッと睨みつけると、千代田は寂しそうに笑った。
「『わたくし』とか喋るし、なんか焦ってるし、いつもの先輩らしくなくて心配です」
わたしは慌てて顔を背けた。ゴロンと横を向いて、千代田から表情を読み取れないように。
「僕は、前の先輩の方が好きですよ?」
いじめられても、楽しかったから。
そう言うと、しばらく頭を撫でてくれた。
優しくて、面倒見の良い、わたしの自慢の後輩。
だけど、何故か――胸がドキドキする。
撫でられた頭が熱い。
苦しい。ドキドキして泣きそう。叫びながら泣きたくなる衝動。
千代田との思い出を残そうと、焦って頑張って、全力で走って来た意味が少しだけ分かってしまった。
「わたくし、今日は帰りますわ!」
「へ? 先輩!」
嗚呼、知りたくなかった。
この感情に意味なんて要らなかったのに!
ドキドキする音は、なかなか治まらなかった。
「本っ当。中学生の恋愛って手軽で良いよねー」
「……お姉ちゃん。帰ってたの?」
千代田の顔、手の温度、言葉、少しでも思い出したら、恥ずかしくて暴れてしまっていた。
「アンタが百面相している前から帰ってたわよ」
香水はハイブランドの新作を出たら買う。カバンもコスメも服も靴も、バッグもアクセサリーも。
ハイブランドの口紅を艶やかに歪ませる姉。
「中学生て、相手の学歴も収入も家柄も関係なく、スポーツができるだの、重い荷物持ってくれたの、雨の日に子犬を拾ってただの、お手軽で単純に好きになるよね」
「それこそお姉ちゃんの大好きな漫画の中の話しじゃない?」
むぅっと口を尖らせると、フッと意地悪く笑ったあと、また寂しそうに笑った。
「戻りたいわ」
そう言うと、長い爪でも慣れた手つきで携帯を取り出した。携帯のケースまでハイブランドにしておいて何を言うのか。
「あんたもさ、私が言うのもアレだけど、本当に受験すんの?あの女子校に」
答えは沈黙。これはお姉ちゃんの好きな漫画で言っていた。
正解は沈黙だ。
「私じゃ期待に応えられなかったから、アンタに迷惑かけたね」
何を言っても誰かが傷つくんだから沈黙だ。
「それで、良いのね?」
トランペットの音、夏の匂い、陸上部の掛け声、野球部のボールを打つ、音。
瞳を閉じて、刻む。
思い出を、キラキラした初恋を、青春を。
わたくし、只今青春中! 青春中なの!
何も答えない私に、お姉ちゃんは小さく「ごめんね」って謝ってくれた。
でも私は正解はもう分かっていた。
***
夜中の2時ぐらいだろうか。
真っ白なノート……。
結局お姉ちゃんの言葉に心をかき混ぜられて今日は勉強に身が入らなかった。
手軽で簡単で、何も障害がない。だからお姉ちゃんは羨ましいと言ったんだろうけど。
手軽で簡単で、障害がなかったら、――こんなに苦しいわけはなかったよ。
ブラスバンド部の、楽器倉庫。
その隣のピアノ教室で、チビな小学生みたいな少年が、ウットリとピアノを弾いていた。
その音色は、優しくて透き通っていて、晴れ晴れした青空の下、何処までも続く草原のように自由で、楽しくなるような、躍動感。
私が欲しかった、探してたもの、全て持ってた。
『先輩、まだ起きていたら窓の外を見てくれませんか』
「えっ!?」
千代田からのメッセージに思わず既読を付けてしまった。
『こんな時間まで先輩が気になって眠れなかった。やっぱりいつもと違ってなんだか、嫌だった。眠れなくては知って走って、走っていたら家の前に来てました。ストーカーですいません』
こんな夜中に?
恐る恐るカーテンを開ける。
「千代田」
自転車のライトが弱々しく光る中、汗だくのちーが倒れ込むように自転車に座っていた。
夜中に、どうして此処に?
「ごめんね! 先輩!」
一階にまだ電気がついていたので、千代田は口ぱくで、けれどしっかりと私を見て謝った。
「僕、受験生の先輩に対して、無理しないでとか軽々しく言ってしまって……」
「ちょっと待ってて」
「……ごめんね。先輩。受験勉強中に」
「大丈夫。全然勉強なんてしてなかったしぃ」
少し肌寒く感じ、長めのカーディガンの袖を引っ張りながら寒い指先を隠す。
夏が始まるというのに、なんで夜はまだ寒いの?
本当に寒いのかわからなかった。
道路まで出ていくと汗でびっしょりの千代田がいて、カーデガンを羽織る私とは正反対だったから。
「先輩なら勉強できるから余裕なんだ」
「まぁね。わたくし、あの有名なカナリア女学院高等部に推薦入試の予定だしね」
「え!?」
目がまん丸になって、千代田が驚いた。 やっぱり千代田も知ってるんだ。
「あの近寄りがたい、金持ちオーラばりばりのお高くとまった高校でしょ? 車送迎必須、各界のご子息御息女、旧家、旧財閥、先祖が武士だのすっごい家柄重視のお嬢様学校でしょ? ……先輩ぽくないよ!?」
「…だから、『わたくし』なの。私はこの家の家族だし」
千代田は私の家を見上げた。
三階建てのまるで宮殿みたいな、成金全開の屋敷。
門には石像なんて左右に置いて、トピアリーだらけの広い庭に、これ見よがしに女神が壺から水を流す噴水。
広くて、そして世界一窮屈なこの家。
目を瞑って、千代田の隣の空気を吸う。
気持ち、いい。
千代田が居るだけで、私の胸はドキドキワクワクする。
二時なのに、蝉は鳴かないのに、
涼しいのに、不規則なリズムで私の胸は鳴る。
「もう少ししたら、『わたくし』は近寄りがたいお高くとまった金持ちオーラばりばりの女子高生になるんですもの」
千代田は両手をあわあわさせて動揺を隠しきれていなかった。
「なんで? 先輩、なんで?」
――――なんで、無理してるの?
そう、言った。
「無理なんてしてないよ」
あ……今、わたし上手に笑えた。
上辺だけの造り笑い。
上手に、笑えた。乾いた笑顔。
でも、涙も流れてしまった。
「先輩、お願いします」
――心の中に溜めないで?
悲しそうに言った。
トランペットの音、グラウンドの練習の声、蝉が鳴く、暑い午後、笑っている、貴方。
全部全部、写真に収めて、貴方をすべて写真に閉じ込めて。
頑張りたいって、頑張れるって、そう思ってたんだ……。
苦しい。苦しいよ……。千代田。
頑張るって決めたわたしの心を受け止めないで。
でももう私しかいないんだ。
姉が受験で失敗して、父が激怒して母と姉の頬を叩いた。
『男でも産んでいれば!』
毎日母は泣いていて、姉は家に寄り付かなくなった。
でもーー。
でも私があの学校に姉の代わりに受かれば、父は機嫌を直してくれるっておばあさまが言っていたの。
母を助けるためにも、お姉ちゃんにこれ以上苦しい思いをさせないためにも。
私だけ青春のぬるま湯の中に浸かっていたら誰も救えないんだ。
「大丈夫よ。わたくし、今からは1人で頑張るんだから」
親の期待に、姉も心傷ついた。
わたしも頑張れる所まで頑張ってみる。
思い出を、大切にしまって。
――ゆっくりと千代田の右腕を掴んだ。
「1人で頑張るわ。――明日から」
だから、千代田に抱き着く。
ああ、小学生みたいな小さな千代田が良かった。
あの時の千代田ならぬいぐるみみたいに抱きしめられていたのに。
こんなに大きくなったらしがみつくしかないよ。
「だから、今日だけは泣かせて」
明日には忘れてね。
そう言って、腕の中に侵入した。
千代田の腕の中は思っていたより頑丈で、温かい。
優しい包み込んでくれる、温もりでした。
握った手を、開いて見つめてみた。
千代田は、苦しげにわたしを見て、家族が起きる前に帰っていた。
千代田の体から、不規則な心臓の音がなっていた。
初めて千代田を見た時に、ピアノの上にあったメトロノームを思い出した。
規則的なリズムを、無表情にならす音。
ありがとう。
初めて会った時のあのピアノから奏でるあの音色より、不規則でも私のためのリズムを刻む心臓の音が嬉しかった。
けれど、わたしの青春も、受験や日々の思い出や、千代田への思いで不規則で、心地よい。
苦しくて、苦しい中で誰かに恋する、それだけでまた、音が刻める。
君と離れるまであと数ヶ月。
君がいない生活まで数ヶ月。
案外、すぐに忘れるかもね。
それまで、不規則に、わたしはメトロノームを鳴らすだろう。



