夕空に、君の名前を

『夕空に、君の名前を』

第一話
放課後の風が、校舎の隙間をすり抜けていく。
中学二年生の瀬川琴葉は、昇降口で靴を履き替えながら、ふと空を見上げた。
茜色の空が、今日の終わりを告げるように染まっていて、琴葉の胸の奥が少しだけぎゅっとなった。

「…今日も、話しかけられなかったな」

目で追っていたのは、同じクラスの幼なじみ——楠原里音(くすはら りおん)。
昔から一緒に遊んでいた仲。でも、いつの間にか彼を目で追うようになっていた。
そして今は、話しかけることさえできなくなっている。

「お姉ちゃーん!」

遠くから聞こえてきた明るい声。
振り返ると、小学三年生の妹・瀬川奈帆が、ランドセルを揺らして走ってくる。
その横には、奈帆の幼なじみ、楠原玲音(れおん)の姿もあった。

「ことはお姉ちゃん、今日もお迎え遅かったー!」

「ごめんごめん、部活が長引いちゃって」

「いいもん!玲音くんが待っててくれたから、寂しくなかったよねっ♪」

そう言ってにこにこ笑う奈帆。その横で玲音は少し照れくさそうにうなずいた。
——ああ、奈帆も気づいてるんだ。玲音のこと、好きなんだなって。

琴葉は妹の想いに気づいている。
だからこそ、自分の片思いを重ねてしまう。年齢は違っても、気持ちはきっと同じだ。

その日の夜、姉妹は並んで布団に入り、そっと話し始めた。

「ねえ、お姉ちゃん。好きな人って、どうしたらこっち向いてくれるの?」

「……うーん、簡単じゃないよ。だって、私もずっと片思いだもん」

「そっか……でも、がんばる。玲音くんに好きって、言えるくらい、がんばる」

その瞳のまっすぐさに、琴葉の胸が少しだけ痛んだ。
大人になっていく道の途中で、恋の痛みを知る。
でも、きっとその痛みさえも、誰かを本気で想った証なんだ。

そして、二人の恋は、少しずつ動き出す——。

第二話:揺れる、放課後の気配
翌日、琴葉は一日中そわそわしていた。
朝から里音とは何度も目が合って、そのたびに心臓が跳ねるように鳴った。

(なんで……いつもは目も合わないのに)

昼休み、琴葉は友達と話しながらも、どこか気もそぞろだった。
そして、放課後。

下校のチャイムが鳴って、生徒たちが帰り支度を始める中——

「瀬川」

不意に名前を呼ばれ、琴葉の背筋がぴんと伸びた。

「……え?」

振り返ると、そこには、教室の入り口に立つ楠原里音。
制服のネクタイを緩めたまま、少し照れくさそうに笑っていた。

「ちょっと、いい?」

心臓が、大きく跳ねた。

◇ ◇ ◇

校舎の裏手。人気の少ない場所に二人並んで座る。
琴葉は何度も深呼吸しながら、どうしてここに呼ばれたのか、考え続けていた。

「……あの、どうしたの?」

「いや、特に深い意味はないんだけど」

そう言って、里音はポケットに手を入れながら、空を見上げた。

「最近、瀬川とあんまり話してなかったなって、思ってさ」

(そんな理由で……? でも……嬉しい……)

「……そうだね、昔は、よく一緒に遊んだのに」

「うん。奈帆と玲音と、四人でよくさ」

その名前が出た瞬間、琴葉の胸にほんの少し、冷たい風が吹き抜けた。

「玲音、最近奈帆のことよく見てるよな」

「……うん、奈帆も、玲音のこと……たぶん、好きだと思う」

「そうなんだ」

静かな時間が流れる。風が葉を揺らす音だけが、耳に届く。
その沈黙を破ったのは——

「琴葉は……どうなの?」

「……え?」

「好きな人、いる?」

心臓が止まりそうになった。
まさか、そんなことを聞かれるなんて、思っていなかった。

「……いるよ」

絞り出すように答えると、里音は小さくうなずいた。

「そっか。……その人、俺の知ってるやつ?」

その一言に、琴葉は答えられなかった。
でも、その沈黙が、なによりも答えになっていた。

「……そっか」

そうつぶやいて、里音は立ち上がる。
その目は、どこか寂しげだった。

「じゃあ、また明日な」

その背中が夕陽に染まって、消えていくように見えた。

琴葉は、何も言えなかった。
胸の中が、甘くて、切なくて、痛くて、もうどうしていいかわからなかった。

——でも、気づいてしまった。

もしかして、里音も……?

揺れる恋心が、静かに、確かに動き始めていた。


第三話:好きだなんて、まだ言えない(里音 side)

「——また明日な。」

自分で言っておきながら、胸の奥がじんわり痛かった。
瀬川琴葉の沈黙。あれが、きっと答えなんだって、わかってた。
あいつの“好きな人”は、俺の知ってるやつ。

——それ、俺じゃないのか?

いや、違う。“だったらいいのに”って、俺が思ったんだ。

◇ ◇ ◇

家に帰ると、玄関から玲音の声が聞こえてきた。

「おかえりー、にいちゃん!」

「おう、ただいま。……奈帆、もう帰った?」

「うん、さっきバイバイした」

玲音はうれしそうにランドセルを床に放り投げて、走っていく。
わかりやすいやつだ。……まあ、俺も似たようなもんか。

リビングに入りながら、リュックをソファに置いて、天井を見上げた。

(琴葉……今、どんな顔してんだろ)

今日、やっと話しかけられた。
たったそれだけで、頭の中がぐるぐるするなんて、情けないと思った。
でも、それ以上に——

「琴葉って、変わったよな……」

気づけばいつも、あいつを目で追ってた。
長い髪、穏やかな声、優しいけど、意外と芯の強いとこ。
昔はただの幼なじみだったのに、いつからだろう。
話せば話すほど、好きになっていくのが、わかった。

……でも。

(あいつの“好き”は、俺じゃないかもしれない)

それが怖くて、今日もちゃんと聞けなかった。
「俺のこと、どう思ってる?」なんて、冗談でも言えなかった。

◇ ◇ ◇

次の日の朝。

教室に入ると、琴葉はすでに席に座っていて、窓の外をぼんやり見ていた。
朝の光が髪に反射して、まるで映画のワンシーンみたいだった。

「おはよ、琴葉」

「……あ、おはよう、里音くん」

その笑顔を見た瞬間、胸の奥が、熱くなる。
“琴葉”って呼び捨てで呼んでみたい——
そんな願いを、また一つ胸に閉じ込めた。

◇ ◇ ◇

昼休み。
廊下ですれ違ったとき、琴葉がふいに言った。

「昨日、話してくれてありがとう。……嬉しかったよ」

「……っ、ああ」

心臓が変なリズムで鳴り始める。
まるで、それだけで全部許されたみたいな、安心感。

「……また、話そ。いろいろ」

「……うん。俺も、話したい」

伝えたいことがたくさんあるのに、うまく言葉にならない。
でも、また少しだけ距離が縮まった気がして、それがうれしくてたまらなかった。

“好きだ”なんて、まだ言えない。
でも——言える日が来ると信じてる。
そのときは、あいつが笑ってくれるように。
少しずつ、俺なりに進んでいこう。

だって、俺の「好き」は、もう止まらないから。


第四話:好きって、なに?(琴葉 side)

「お姉ちゃん、今日も話してたでしょ? 里音くんと」

夕飯を食べ終えて、リビングでごろごろしながら奈帆が言った。
琴葉は思わずコップの麦茶を飲み込むのにむせそうになった。

「え、な、なんで知ってるの?」

「玲音くんが言ってた〜。“にいちゃん、今日も琴葉ちゃんと話してた”って」

「……あいつ、何でも言うなぁ……」

顔が熱くなる。
でも奈帆は悪気なく、テレビを見ながらぽつりとつぶやいた。

「いいなぁ、お姉ちゃん。奈帆も玲音くんと、もっと話したいのに……学校じゃ恥ずかしくてさ」

その一言が、琴葉の心に静かに響いた。
年下の奈帆も、ちゃんと恋してるんだ。
同じように、苦しんだり、ドキドキしたりしてるんだ。

「奈帆」

「ん?」

「……“好き”って、どうやったら伝わるんだろうね」

「うーん……奈帆、わかんない。でもね、玲音くんが笑ってくれるだけで嬉しいの。だから、それだけでいまはいいって思う」

その無邪気でまっすぐな答えに、琴葉は胸がぎゅっとなった。

(私……里音くんと話せただけで、嬉しかったもん)

それが答えなのかもしれない。

「ありがと、奈帆。……ちょっと、元気出た」

「えへへ〜、お姉ちゃんもがんばれ〜!」

ふたりで顔を見合わせて笑った。
こんな何気ない夜に、少しだけ背中を押された気がした。

——“好き”って、まだ怖いけど、でもきっと、伝えたい気持ちは本物だから。

◇ ◇ ◇

夜。自分の部屋に戻り、机に肘をついて、窓の外を見上げた。
夜空に浮かぶ星が、遠くで瞬いている。

「里音くん、わたし……」

窓に手を当てて、そっとつぶやいた。

「あなたのことが、好きです」

それは、まだ誰にも届かない、心の中だけの告白だった。


第五話:兄弟って、めんどくさい(里音 side)

「ねえねえ、にいちゃん、ほんとに琴葉ちゃんのこと好きなんでしょ?」

「はぁ!? な、なんだよ急に!」

風呂上がり、髪をタオルで拭いていた里音の背中に、弟・玲音の声が飛んできた。
玲音は漫画を読みながらソファに寝転がっている。

「だってさ〜、なんかにいちゃん、最近楽しそうだし」

「……楽しそうって、なに」

「ふふん、図星〜」

弟にからかわれて顔が熱くなるなんて、情けない。
でも玲音の言葉は妙に鋭くて、反論できなかった。

「……あいつ、琴葉のこと好きなんだよな」

「え?」

「奈帆。……あいつ、好きって感情、わかってんのかな」

「……知ってるよ。奈帆、ちゃんと恋してる。にいちゃんが言ってたように、あいつまっすぐだし、素直でさ……俺も、好きなんだよ」

玲音がふいに、真面目な顔で言った。
それが妙に大人びて見えて、里音は言葉をなくした。

「俺もさ、ちゃんと気持ち伝えられるようになりたいんだ。にいちゃんみたいにさ」

「……いや、俺も全然だよ。今日なんか、好きなの? って聞いたのに……返事、もらえなかった」

「え、それって……」

「多分……俺じゃないんだよ、琴葉の好きな人」

ぽつりと言ったその言葉に、玲音が真顔になった。

「それ、ちゃんと聞いた? “俺じゃない”って、琴葉ちゃんが言ったの?」

「いや……でも、何も言わなかった。だから……」

「にいちゃん、そういうとこだよ」

「……は?」

「勝手に決めつけて諦めようとするの、よくない。琴葉ちゃんだって、きっといろんな気持ち抱えてるんだよ」

玲音の言葉に、思わず苦笑した。

「お前、いつからそんなこと言えるようになったんだよ……」

「ふふん、小三なめんなよ」

兄弟で顔を見合わせて笑った。
でも、心の中にはちゃんと、少しだけ勇気が灯っていた。

「……もう少し、がんばってみようかな」

「そうそう。で、にいちゃんが成功したら、俺も奈帆に告白する」

「プレッシャーかけんなよ……」

だけどその言葉に、ふたりとも少しだけ笑ってしまった。

——兄弟って、めんどくさいけど、悪くない。

夜のリビングに、笑い声が響いた。


第六話:声が届きそうで、届かない(琴葉 side)

朝のHRが終わり、1時間目の国語が始まる。
教室の窓から差し込む光はやさしくて、風はちょっとだけ肌寒い。
けれど、琴葉の胸の中はずっとざわついていた。

——昨日の夜、奈帆と話してから、ずっと考えてる。

「好き」って、どうしたら届くんだろう。
声に出せば届くのかな。
それとも、まだ言っちゃいけないのかな。

ちら、と教室の斜め前の席を見る。
そこには、いつも通りにノートをとっている里音の姿。
でも、その背中が……今日はいつもより少しだけ遠く感じた。

(私……ちゃんと返事、できてなかったよね)

あのとき、「好きな人、いる?」って聞かれて、
ただ「うん」としか言えなかった。
それが、どんな意味に聞こえたかなんて……今さら気づいても遅いのかもしれない。

——「その人、俺の知ってるやつ?」
あの一言に、どうして言えなかったんだろう。

◇ ◇ ◇

昼休み。
琴葉は友達に誘われて中庭に出たけれど、心ここにあらずだった。

「琴葉、最近さ、楠原くんと話すこと多くない?」

友達の優希夏がひょいと顔をのぞかせてくる。

「え、そ、そうかな?」

「だって、前はそんなに話してなかったじゃん。なのに最近、よく目が合ってるし」

「そ、そんな……っ」

「もしかして、いい感じ?」

「な、なんでそうなるの!?」

「えー、だって琴葉ってさ、わかりやすいもん。顔とか、目線とか」

「や、やめてよぉ……!」

優希夏の茶化しに赤くなる顔を隠しながら、それでも内心はちょっとだけ嬉しかった。

——そうだよね、前よりは、ちゃんと話せてる。
ほんの少しだけでも、前に進んでる気がする。

◇ ◇ ◇

その日の帰り。昇降口で靴を履いていたとき、不意に声が聞こえた。

「……琴葉」

びくっとして顔を上げると、そこには、やっぱり里音が立っていた。
いつもより少しだけ、気まずそうな顔で。

「昨日……変なこと言ってごめん」

「えっ……」

「なんか、変なふうに聞こえたかもしれないし。無理に聞くことじゃなかったよな」

「……ちがうの」

とっさに言葉が出た。自分でもびっくりするくらいの声で。

「ちがうの、里音くん。あのとき、ちゃんと答えたかったんだけど、言葉にできなかっただけで……」

「琴葉……?」

言いかけて、止まる。
これ以上は、今はまだ言っちゃいけない気がした。

「また……話してくれる?」

「……もちろん」

ふたりの距離が、ほんの一歩だけ近づいた気がした。
だけどその一歩が、とても大きくて、温かくて。
胸が、ほんのりと甘くなる。

(私、もうちょっとだけ、勇気出せたらいいな)

夕方の光の中で、並んで歩くふたりの影が、少しずつ重なっていく。



第七話:大好きって、言えたらいいな(奈帆 side)

「う〜ん……どっちがかわいいかなあ……」

日曜日の朝、鏡の前で奈帆は真剣な顔をしていた。
手に持っているのは、ピンクのハートのヘアピンと、黄色のリボンのゴム。

今日は玲音くんと図書館で待ち合わせ。
——って言っても、偶然「明日、本返しに行くんだ〜」って玲音くんが言ってたのを聞いて、
「奈帆も行く〜!」って言っただけなんだけど。

(でも……これは、デートって言ってもいいのかな?)

顔がぽわ〜っと赤くなって、胸がきゅってなる。
鏡の前の自分が、ちょっとだけいつもより女の子に見えて、うれしくなった。

「よし、今日はリボンのほうにするっ!」

くるんっと髪を結んで、奈帆は小さくガッツポーズ。
背伸びしたい気持ちと、ちょっぴりのドキドキを抱えて、玄関のドアを開けた。

◇ ◇ ◇

図書館の前につくと、すでに玲音くんがベンチに座っていた。

「あっ、玲音くんっ!」

走っていくと、彼は少し目を丸くして——ふわっと笑った。

「……おはよ、奈帆。今日、なんか……かわいいな」

「えっ!? な、なんで!?」

「髪、いつもとちがう。……リボン、似合ってる」

(えっえっ、そんなの、そんなの、言われたら……!!)

奈帆の心臓は、今まで聞いたことのない音を立てて跳ねていた。

「……ほんとに、かわいい」

玲音くんはぼそっと、でもはっきり言った。

「っ……あ、ありがとう……!」

うれしくて、うれしくて、リュックをぎゅっと抱きしめてしまった。
顔はもう、たぶんりんごみたいに赤かったと思う。

◇ ◇ ◇

図書館では、ふたりで絵本を読んだり、少し難しい本を選んだりした。
玲音くんは、本を読んでるときの顔がすごく真剣で、時々めがねをくいって上げる仕草が、奈帆はひそかに好きだった。

帰り道、少しだけ勇気を出してみた。

「……ねえ、玲音くん」

「ん?」

「奈帆ね……今日、ちょっとだけ頑張ったんだ」

「うん、わかる。すっごくがんばってるの、伝わってるよ」

玲音くんは、やさしく笑った。
その笑顔が、あったかくて、胸がきゅんってなる。

「……奈帆ね、玲音くんのこと、いっぱい好きだよ」

それはまだ、「好きです」って言えるほどの勇気じゃなかったけど、
でも奈帆にとっては、精一杯の言葉だった。

玲音くんは、少しびっくりした顔をして——そして、ほわっと笑った。

「……ありがとう。俺も……奈帆のこと、いっぱい好きだよ」

その瞬間、空がきらきらして見えた。

——手もつながなかったし、名前も呼び捨てじゃないけど。
でも、たしかに今日のこれは、奈帆にとっての「はじめてのデート」だった。

そしてきっと、はじめての、両想いだった。



第八話:好きな人、って呼ばれた(琴葉 side)

秋の空は高くて、どこまでも透き通っていた。
今日は、待ちに待った運動会。

クラスみんなで作った応援旗、真っ赤なハチマキ、
いつもは静かなグラウンドが、今日だけはお祭りみたいににぎやかだった。

琴葉は白組。緊張しながら、かけっこや団体競技をこなしていく。

「琴葉〜! 最後の借り物競争、出番だよ!」

友達の美結に背中を押されて、列の最後尾に並ぶ。

(借り物競争かぁ……誰か借りに来てくれるかな)

ちょっとだけ期待していた。
でもすぐに打ち消す。

(……だって、わたしなんか……)

◇ ◇ ◇

競技が始まる。
ひとり、またひとりとお題を引いて、校庭を駆けていく。

「ぬいぐるみ!」「赤いもの!」「おじいちゃん先生〜!」

そして——
「……“好きな人”?」

アナウンスが読んだその言葉に、会場中が「えぇー!?」とどよめいた。

(誰……? 誰がそれ引いたの!?)

ハチマキを頭に結んだその男子生徒は——
まぎれもなく、楠原里音だった。

(えっ、うそ……)

琴葉の心臓が、思い切り跳ねる。
そして、彼はゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。

——真っ直ぐに。

まるで、ためらいも、迷いもないように。
目が合った瞬間、琴葉の身体は固まった。

「……琴葉」

「えっ……あ、わたし……!?」

「うん。借りるよ」

恥ずかしそうに、でもしっかりと目を見て、そう言った。

——“借りる”って、なんなの……
でも、嬉しすぎて、足が勝手に動いてた。

一緒に手をつないで走り出す。
グラウンドを駆ける時間は、たったの数秒だったけど。

「……なんで、私?」

ゴールしたあと、はずかしさとドキドキをごまかすように聞いた。

「……理由、言わなきゃダメ?」

「え……」

「“好きな人”ってお題だったから。だから、琴葉がいちばんに浮かんだんだ」

その言葉に、全身の血が逆流するような衝撃。
ドキドキが止まらない。顔もきっと真っ赤。

「……ずるいよ、それ……」

「俺だって、ずるいって思ってる。でも、ずっと言いたかった」

「……!」

「好き、琴葉」

——言葉にならなかった。
返事もできなかった。

でも。
手をつないだまま、離さなかった。
それが、わたしなりの答えだった。

◇ ◇ ◇

その日、風は少し強かったけど、空はとても青かった。

——“好きな人”って呼ばれた。
それだけで、世界がきらきら光って見えた。


第九話:わたし、お姉ちゃんみたいになれるかな(奈帆 side)

運動会の帰り道、夕暮れの空がオレンジに染まっていた。
手にはもらった参加賞のお菓子、心の中にはずっと残ってる——“あのシーン”。

(……お姉ちゃん、かっこよかったなぁ)

「好きな人ってお題だったから。だから、琴葉がいちばんに浮かんだんだ」
里音くんのあの言葉は、奈帆の胸にもずっしり響いていた。

——なんか、映画みたいだった。

(いいなぁ、お姉ちゃん。ちゃんと“好き”って言われて……)

玄関を開けると、琴葉はリビングで水を飲んでいた。

「あ、奈帆。おかえり」

「うん……あのさ、お姉ちゃん。ちょっとだけ、話したいことあるんだけど」

「え? なになに、まじめ?」

「まじめ……というか、ちょっと恥ずかしいかも……」

琴葉が笑いながら、こっちにおいでってソファをぽんぽん叩いた。
奈帆はそっとそこに腰を下ろして、モジモジしながら話し始めた。

「……ねぇ、お姉ちゃんって、最初から里音くんのこと、好きだったの?」

「え?」

琴葉は少し驚いた顔をしたけど、すぐにふんわり笑った。

「うーん、いつからって、よくわかんないんだけど……気づいたら、目で追ってたって感じかな」

「……そっか。奈帆もね、そんな感じなの。玲音くんのこと」

「玲音くんのこと、好きなんだね」

「うん。大好き。でも……なんか最近、ちゃんと目を見て話せないの。前はもっと普通におしゃべりできたのに、今は話そうとするとドキドキして、言葉が出なくなっちゃう」

琴葉は優しくうなずいて、奈帆の頭をなでた。

「それって、ちゃんと恋してるってことだよ。……奈帆、すごいね」

「……すごくないよ」

奈帆は、少しだけ口をとがらせて下を向いた。

「お姉ちゃんは、ちゃんと“好き”って言ってもらえたし、選んでもらえた。……奈帆はまだ、何も言えてないし、何も伝えてないよ」

その言葉に、琴葉は少し真剣な顔になった。

「ねぇ、奈帆」

「うん?」

「わたしね、里音くんに“好き”って言われて、すっごくうれしかった。でもね、もし自分の気持ちを伝えてなかったら、その言葉を信じられなかったと思う」

「……え?」

「自分の気持ち、ちゃんと自分でわかってて、それを伝える覚悟があったから、“好き”って言葉がまっすぐに届いたんだと思う。だから、奈帆も……あせらなくていい。でも、自分の気持ち、大切にしてあげてね」

「……うん」

涙が出そうだった。
お姉ちゃんって、やっぱりすごい。
強くて、優しくて、かっこよくて、ちょっぴり照れ屋で……でも、大好きな人の前では、まっすぐになれる人。

(……わたし、いつかお姉ちゃんみたいになれるかな)

ソファに座って、二人でぼーっと天井を見ていたら、ふと琴葉が言った。

「奈帆、もし玲音くんに“好き”って伝えたくなったら、背中押してあげるよ」

「ほんと?」

「うん。姉妹だからね」

その言葉が、なによりも嬉しかった。

「……うん、ありがと、お姉ちゃん」

——きっと、恋ってまだまだ難しい。
でも、わたしもがんばってみるよ。
大好きな人に、ちゃんと届くように。


第十話:君の涙が落ちる前に(里音 side)

あの日の空は、なぜかやけに青かった。

夕焼けも雲もなかった。
風も吹いていなかった。
ただ、世界だけが、音もなく崩れていった。

「……お父さんとお母さんは……もう、戻ってこないんだって」

警察官の静かな声が、まるで誰かの夢の中みたいに遠くて、現実味がなかった。
でも隣で震えている玲音の手が、そのすべてが現実だと教えてくれた。

同じ日、琴葉と奈帆のご両親も……

人を恨んだのは、初めてだった。

こんなにもあたたかくて、優しい人たちが、どうして——

(なんで……こんなことに)

◇ ◇ ◇

それから数日後、俺たちは同じ屋根の下で暮らすことになった。
大人たちはいろいろ話し合ってくれたらしいけど、最終的に、琴葉が俺に言ってくれた。

「……里音くんたちと、一緒にいたい。……離れたくないから」

その一言に、どれだけ救われたか、言葉にできなかった。

——俺も、琴葉たちと一緒にいたかった。

だから今、俺たちは四人で暮らしてる。

◇ ◇ ◇

「ねぇ、今日のご飯、カレーでいい?」

キッチンでエプロン姿の琴葉がふり返って言う。

「うん、奈帆も手伝う〜!」

玲音はご飯を炊く準備をしていて、俺はサラダを盛り付けていた。

「こうやって暮らすの、なんか……不思議だよな」

「うん……でも、家族みたいだよね」

琴葉の言葉に、胸があたたかくなる。

夕食を囲む四人。
笑ったり、泣いたり、ケンカしたり。
それでも、心だけは離れないように寄り添っている。

……でも夜になると、胸の奥にぽっかりと穴が空く。

◇ ◇ ◇

その夜、俺はひとりリビングでソファにもたれていた。
ふと、両親の笑顔が脳裏に浮かんだ。

「……母さん……父さん……」

涙は出なかった。
でも、心のどこかがずっと泣いているようだった。

そのとき、誰かの小さな足音が聞こえた。

「……里音くん」

振り返ると、琴葉が立っていた。
ゆっくりと俺の隣に座り、黙って肩を寄せてくる。

「……泣いてもいいんだよ」

その声を聞いた瞬間、張りつめていたものがぷつんと切れた。

「琴葉……ごめん……俺……強くなりたかったのに……」

「……ううん、強くなくても、弱くなっていいんだよ。わたしも、強くないから……」

琴葉の肩に顔をうずめると、彼女の手が優しく背中をなでてくれた。
そのぬくもりが、どれだけ救いだったか。

そして数日後——

琴葉がひとり、洗濯物を干しているときだった。
今度は、彼女が背中を震わせて泣いていた。

「……っ、お母さん……っ、会いたいよぉ……」

すぐに俺は走って行って、彼女の手を取った。

「泣いていいよ。今度は俺が、そばにいる番だ。」

彼女は何も言わずに、ぎゅっと俺の服を握りしめた。

お互いに、完全には癒せない傷がある。
でも、それでも。

——君が泣くときは、俺が支える。
そして俺がつらいときは、君がそばにいてくれる。

それだけで、きっと前を向いていける。

◇ ◇ ◇

夜、四人でおそろいの湯呑みにお茶を入れながら、玲音がぽつりと言った。

「……にいちゃん、琴葉ちゃんと奈帆がいてくれて、よかったね」

「……うん。ほんとに」

「わたしも、里音くんがいてくれて、うれしいよ」

奈帆が照れくさそうに言って、琴葉も微笑んだ。

——この家族は、血がつながっていないけど、
心がつながってる。

そんな、静かで、でも確かな絆が、ここにはある。


第十一話・第十二話:心の奥に、君がいる(里音 side)

あれは、ほんの些細なことだった。
ただの言葉の行き違い。……のはずだった。

「……何度も言ってるだろ、それは俺がやるって」

「にいちゃんがいっつも抱え込むからだよ!」

夕食後のキッチンで、声がぶつかりあった。

「家のことも、学校のことも……なんでも一人でやろうとしないでよ!」

「だったらお前がちゃんとやればいいだろ!」

その一言に、玲音の目が見開かれた。

「……そうやって、すぐ責任押しつけるんだ。にいちゃん、前も冷たかったけど、前よりずっと冷たくなった」

ぐさっと、胸の奥に何かが突き刺さった。

「…っ…勝手に言ってろよ!」

そのまま俺は自室のドアを乱暴に閉めた。

(違う、そんなつもりじゃなかったのに……)

でも、言葉は一度こぼれたら戻らない。
あのあと、玲音とは一言も話していない。

◇ ◇ ◇

それから一週間——俺は、部屋にこもった。
食事も琴葉が運んでくれ、最低限の会話も、琴葉たちにすらまともにできなかった。

ドアの外からは、奈帆の笑い声や、琴葉が料理する音が聞こえてくる。

……なのに、俺は、何も返せない。

(俺なんか、いないほうがいいんじゃないか)

何度もそう思って、ベッドに顔をうずめた。

そんなある日。夜。
静まり返った部屋の外から、そっとノックの音がした。

「里音くん……少しだけ、いい?」

声は琴葉だった。

返事ができなかった。けど、ドアはゆっくり開いた。

「……玲音くん、毎日すごく反省してるよ」

「……」

「それに……奈帆も、里音くんのこと、ずっと心配してる。わたしも……すごく」

そう言って、琴葉は俺の隣に座った。

「……ごめん。全部、俺のせいだ」

「……ちがうよ。喧嘩なんて、家族ならする。
でもね、忘れちゃダメなの。
家族っていうのは、何があっても、また歩み寄れるってこと」

琴葉の手が、俺の手の上に重なった。
そのぬくもりが、あたたかくて、苦しくて、涙がこぼれた。

「……俺、弱いよ。こんなことで逃げて。最低な兄貴で……最低な男で」

「最低なんかじゃない。だって、わたしが……里音くんが、好きだから」

——え?

頭の中が真っ白になった。

「……前から、ずっと。でも、言えなかった。
今、少しでも里音くんの悲しみを軽くできるなら……って思って」

琴葉はうつむきながら、でもしっかりと言った。

「だから、わたしが、支えたい。
里音くんがつらいときは、わたしがそばにいる。
わたしがつらいときは、また……里音くんがそばにいてくれたら、それでいいの」

たくさんの言葉が胸に詰まって、呼吸が苦しくなった。

でも……やっと言えた。

「……俺も、琴葉が、好きだよ」

琴葉の目が見開いて、ぽろりと涙をこぼした。

「……ありがとう」

その夜、ふたりで静かに手をつないだ。
言葉はもう、いらなかった。

◇ ◇ ◇

次の日。朝、食卓に久しぶりの笑顔が戻った。

「……おはよ、玲音」

「……おはよう」

「……ごめんな」

「俺も、ごめん。……また、がんばろ」

それだけで、十分だった。

隣では、琴葉が優しく微笑んでいた。

(この手を、もう二度と離したくない)

——どんなに苦しくても、悲しくても、
心の奥には、いつも君がいてくれる。
それが、俺の、生きていく理由。


第十三話:もう一度、笑ってくれる日まで(琴葉 side)

朝の空は、どこまでも青く澄んでいた。
奈帆は、いつも通り元気に靴を履いて、「行ってきまーす!」と手を振った。

あのとき、「気をつけてね」と、もっとちゃんと言えばよかった。
ほんの些細な後悔が、心の奥で何度も何度も繰り返される。

その電話が鳴ったのは、午前十時すぎだった。

「おたくの妹さんが、交通事故に遭われまして……」

時間が止まった。

◇ ◇ ◇

病院の白い廊下。
走って、息を切らして、ようやくたどりついたとき。

奈帆は、ベッドの上で静かに眠っていた。

「……意識はあります。足に軽い打撲と擦り傷。検査のために眠らせていますが、大事には至りません」

先生の言葉に、安心するどころか、涙があふれた。
身体の力が抜けて、その場にしゃがみこんだ。

「……私が、もっと気をつけさせてれば……」

声にならないほどの罪悪感。
家族を失って、やっと見つけた"家族"だったのに。
守れなかった。

震える手を握ってくれたのは、里音だった。

「琴葉、大丈夫。奈帆は、ちゃんと戻ってくる。信じよう」

「でも……でも……!」

「……奈帆は、琴葉のこと、大好きだよ。
きっとまた、あの笑顔で“お姉ちゃん”って呼んでくれる。だから、泣かないで。俺が、ついてる」

あたたかい声。
あの時も、こうやって支えてくれた。
家族を亡くした夜も、心が壊れかけたあの夜も。

私が弱くなったとき、必ずそばにいてくれる。

「……ありがとう、里音くん」

声を震わせながら、涙をぬぐって笑った。
あの子の前では、泣いてばかりいられない。
……奈帆のためにも。

◇ ◇ ◇

二日後。

「……ただいま〜……」

奈帆が病院の廊下から顔を出した瞬間、琴葉は思わず抱きしめていた。

「もう、心配したんだから……!」

「うぅ、ちょっと痛いよぉ〜……でも……ごめんね、お姉ちゃん……」

涙を流しながら、笑ってくれた妹。
その笑顔を、絶対に二度と失いたくない。

隣では、玲音が奈帆の手をそっと握りながら照れていて、
里音はそっと琴葉の手を取り、あたたかく見守っていた。

◇ ◇ ◇

夜。

奈帆が無事に帰ってきたあとのリビングで、琴葉はふと、里音に聞いた。

「……怖かった?」

「正直、死ぬほど怖かった」

「わたしも……」

「でも、こうしてまた四人で過ごせるなら……これからも、全部守りたい」

静かにそう言ってくれた彼の言葉が、心の奥に灯をともした。

「わたしも……守る。
大切な人たちも、里音くんも」

ふたりの手が、もう一度重なった。
強く、やさしく、離れないように。

——どんなことがあっても、この手を信じていれば大丈夫。
そう思えた、あの夜だった。


第十四話:未来が、動き出す日(琴葉 side)

桜が咲いた。
あの日、制服を脱いで、私はひとつ、大人になった。

「卒業、おめでとうございます!」

講堂で鳴り響く拍手と、クラスメイトの泣き笑いの顔。
けれど、私は——不思議と涙が出なかった。

(もう、わたしの進む道は決めていたから)

里音くんは、制服の襟に小さな白い花をつけていた。
私と同じく、まっすぐ前を見つめていた。

卒業式が終わったあと、ふたりで桜並木の下を歩いた。

「琴葉、高校……行かなくて、本当にいいの?」

「うん。決めたの。奈帆と玲音くんを、ちゃんと支えてあげたいし、家のこと、もっとちゃんとやりたいから」

「……俺、ちゃんと高校行って、卒業して、バイトして、いっぱい稼いで……そのうちちゃんと……」

彼は言葉を切って、ふいに顔を赤くした。

「……ん?」

「……いや、なんでもない」

ふたりで顔を見合わせて笑った。

桜の花が、静かにふたりの肩に落ちてきた。

◇ ◇ ◇

春休みが終わり、玲音と奈帆は小学四年生に進級した。
まだまだ子どもだけど、どこか大人びた顔つきになっていて、
奈帆なんかは「もう高学年だもん!」と毎朝張り切って学校に行く。

玲音は玲音で、「習字クラブ入ろうかな」とか「理科の時間が楽しみ」とか、
夢を話す顔がどこか輝いていて、なんだか誇らしかった。

——この子たちが、ちゃんと生きていけるように。
私はここで支える。

夕方、エプロン姿でご飯を作りながら、ふと窓の外を見た。
そのとき、チャリの音とともに玄関のドアが開く。

「ただいまー。今日、バイト初日だった!」

「おかえり、里音くん! ……疲れた?」

「正直、疲れた。けど……すっごく、やりがいある」

制服から着替えた彼は、少し日に焼けた手で頭をかきながら笑った。

「琴葉の作ってくれるごはん、世界で一番うまいんだよなぁ……」

「ふふ、それはどうも」

里音くんは、いつの間にかたくましくなっていた。
でも私には、昔のまま、弱いところも見せてくれる。

夜、みんなが寝静まったあと。
リビングの電気を消そうとしたとき、彼の声がした。

「琴葉」

「ん?」

「……ありがとう。俺がここまで来れたの、全部……琴葉がいたからだよ」

「……わたしも、里音くんがいたから、ここにいられるよ」

ほんの数秒、静かな空気の中で見つめ合った。
言葉は少ない。でも、心はつながってる。

——私たちは、これからも一緒に進んでいく。
高校生と主婦。
普通じゃないかもしれないけど、私たちの“家族”のかたち。

それが、何よりも大切なもの。


第十五話:君と過ごす、あたりまえの時間(里音 side)

「いらっしゃいませー!」

元気な声が、まだ慣れない喉に少し響く。
高校が終わったあと、俺は駅前のカフェでバイトを始めた。

制服のシャツにエプロンを巻いて、注文を取り、食器を運び、レジに立つ。
最初はすべてが緊張の連続だったけど、少しずつ……楽しくなってきた。

「里音くん、これ、テーブル三ね」

「あ、はいっ!」

同じ高校の先輩で、バイト仲間の三島さんは、何かと俺を気にかけてくれる。
だけど──

「……彼女さん、すっごく可愛かったね。この前、お店の前まで迎えに来てた子。妹さん?」

「え? あぁ……琴葉、です。妹じゃなくて、……その、恋人、です」

「あら、そうなの? ふふ、応援してるわよ」

にっこり笑われて、ちょっと照れた。
でも、なんか、嬉しかった。

◇ ◇ ◇

バイトが終わって、帰り道。
自転車を漕ぎながら、空を見上げた。

(明日のお弁当、何がいいかな……)

琴葉は俺の分まで、毎日きっちり作ってくれる。
「栄養バランス大事!」とか言いながら、でもどこか楽しそうに。

(俺も、もっと支えたい)

少しずつでいいから、もっと彼女に楽をさせてあげたい。
——そのためにも、頑張らなきゃ。

◇ ◇ ◇

家に帰ると、奈帆と玲音の笑い声がリビングから聞こえてきた。

「こーら玲音! ノートにイラスト描きすぎ〜!」

「だってさ、理科の先生の顔がどうしても……」

「それ、私のノートに描かないで!」

宿題の途中、どうやら玲音がふざけたらしい。

「ただいまー……あれ? ケンカ?」

「にいちゃーんっ! 奈帆が理科のノート破壊しました!」

「してないっ!玲音が先にやったのー!奈帆は悪くないもん!」

ふたりが俺の腕にしがみついて、まるで小さな子どもたちのようだった。

「はいはい、ストップストップ。晩ごはんまでに仲直りしないと、デザート抜きな」

「えええええっ!!」

「おにいちゃんずるいぃぃ!」

そんなふたりのやりとりが、心の底から微笑ましかった。

◇ ◇ ◇

夜、風呂上がりの琴葉が、台所で麦茶を用意している姿を見て、
ふと、思った。

(この家は……俺にとって、世界で一番大切な場所なんだ)

守りたい、と思った。
この“あたりまえ”を、ずっと。

琴葉がこちらに気づいて、笑った。

「おかえり、今日もおつかれさま」

「……うん。ただいま。……琴葉」

「なに?」

「……明日、俺、お弁当作ってみようかなって思って」

「えっ?」

「……作っても、いい?」

「……うん、うれしい。すっごくうれしい」

その笑顔が、何よりのご褒美だった。

——あたりまえの毎日は、奇跡の積み重ね。
だからこそ、俺は今日も働いて、帰ってくる。
この場所に、この家族に、君に。


第十六話:はじめての気持ちと、家族の時間(里音 side)

休日の朝、まだ少し眠そうな妹の奈帆と弟の玲音がリビングに集まってくる。
俺はキッチンでエプロンをつけ、朝ごはんならぬ“お弁当”作りに挑戦していた。

「よし、今日は琴葉のために、気持ちを込めて作るぞ」

卵焼きを焼きながら火加減を誤り、ちょっと焦げてしまった。
冷凍唐揚げを温めて、ウインナーや野菜も詰め込む。
見た目はあまり良くないけど、心はこもっている。

「里音くん、なんかいい匂いするよ!」

奈帆が目を輝かせてキッチンにやってきた。玲音も興味津々で覗き込む。

「できたぞ!四人で食べるぞ!」

食卓に並べた弁当箱を見て、琴葉がにっこり笑う。

「里音くん、ありがとう。ちょっと焦げてるけど、すごくうれしいよ」

「はは…次はもっと上手く作るから!」

みんなで手を合わせて、「いただきます」をした。
わちゃわちゃしながらも、それぞれが笑顔だった。

◇ ◇ ◇

食後、奈帆と玲音が楽しそうに学校の話をしている。

「今日、学年行事で小さなトラブルがあってさ……」

「玲音がちょっと失敗したけど、奈帆が助けてあげたんだよ」

琴葉は優しくふたりの話を聞きながら、「よくがんばったね」と声をかける。

俺はそんな彼女たちの姿を見て、家族の絆が少しずつ強まっていることを感じた。

◇ ◇ ◇

日が暮れて、琴葉と俺は並んで洗い物をしながら話す。

「琴葉、学校行ってないけど寂しくない?」

「みんなに会えなくてさみしいときもあるけど、家でみんなのことを支えられるのが今の私の幸せ」

「俺も、家のことと学校、両方頑張っていくよ。みんなで支えあおう」

「うん、ありがとう」

夜風がそっと窓から吹き込む中、俺たちは手を握り合った。
小さな幸せが、確かにここにある。



第十七話:君のいない日々(里音 side)

あの日、すべてが一瞬で変わった。

放課後、バイトの帰り道。
いつも通りの自転車のペダルをこいでいた。
でも、前から急に飛び出してきた車に避けきれず──

「痛っ……!」

激しい衝撃と共に、俺は地面に叩きつけられた。

◇ ◇ ◇

気づくと、白い天井が目に入った。
病院のベッドだった。

「里音くん、目が覚めたね」

琴葉の声が遠くから聞こえる。
隣には奈帆と玲音の顔も見えた。

「……ごめん、心配かけて」

すると琴葉が震える声で言った。

「私のほうこそ……ごめん。守れなくて……」

痛みと悔しさ、何よりも家族に迷惑をかけてしまった自分を責めた。

◇ ◇ ◇

医師からは、「脚の骨折と軽い脳震盪。入院は約一か月」と告げられた。

「この期間は安静に。リハビリも必要です」

「俺……学校もバイトも……」

「無理しないで。今は治すことが一番大事」

琴葉は手を握りしめ、涙をこぼした。

「みんなで、待ってるから」

◇ ◇ ◇

入院生活は孤独で、不安だった。
窓の外の青空や、聞こえる家族の声が恋しくて、何度も泣いた。

でも、夜になると琴葉が必ず来てくれた。
奈帆や玲音も、病院のロビーで笑顔を見せてくれた。

その温もりに支えられながら、俺は少しずつ、回復への希望を取り戻していった。

——もうすぐ、またみんなで笑い合える日が来る。
それまで、俺は強くなる。


第十八話:待ちわびた日と、小さな勇気(琴葉 side)

病院の待合室で、時計の針がゆっくりと進んでいた。
里音が退院する日。
何度も深呼吸を繰り返しながら、私は心を落ち着けていた。

「琴葉さん、お待たせしました」

看護師さんの声に振り向くと、車椅子に乗った里音が微笑んでいた。
その顔は以前の弱々しさを脱ぎ捨てて、少しだけたくましく見えた。

「よかった……本当に、よかった」

涙がこぼれそうになりながら、私は彼の手をしっかりと握った。

「おかえり、里音」

「ただいま、琴葉」

久しぶりに家に帰り、四人が揃うリビングは明るく暖かかった。
奈帆も玲音も、元気いっぱいで私たちを迎えてくれた。

その日の夕食後、玲音が少し照れながら奈帆の前に立った。

「奈帆……ずっと好きだった。もしよかったら、俺と付き合ってください!」

奈帆は目を大きく見開き、一瞬の沈黙のあと、にっこり笑った。

「うん!わたしも玲音くんのこと、ずっと好きだったよ!」

みんなの笑顔がキラキラ輝いて、部屋いっぱいに幸せが満ちていった。

私はその様子を見て、心から思った。

「これからも、ずっと一緒にいよう。どんなことがあっても。」


第十九話:君と見た、最後の春(里音 side)

春の訪れは、いつもよりずっと切なく感じられた。

琴葉が微笑んだあの日から、どれほどの日々が過ぎただろう。
彼女はずっと頑張っていた。
家族のために、俺のために。
でも、病気は静かに、確かに進んでいた。

「琴葉……」

ベッドのそばで、俺は彼女の手を握りしめた。
彼女の目には、もう痛みも恐れもなく、ただ静かな愛が溢れていた。

「里音……ありがとう。あなたがいてくれて、本当に幸せだった」

「俺もだ。琴葉、ずっとそばにいるから」

けれど、その言葉は叶わなかった。

ピーーー―
永遠に鳴り続けるんじゃないかと思うくらいに長い機械音がなった。

琴葉は、穏やかな呼吸を最後に止めた。

俺の世界から、一番大切な光が消えた瞬間だった。

◇ ◇ ◇

葬儀の後、静かな家に戻ると、奈帆と玲音が揃って待っていた。
二人の瞳には、深い悲しみと、それでも強く生きようとする決意が宿っていた。

「お姉ちゃんは、ずっと私たちの心の中にいるよ」

奈帆が震える声で言う。

「うん。琴葉は俺たちの希望だ」

玲音も力強く頷いた。

俺はただ、静かに頷いた。
失ったものの大きさは計り知れないけれど、琴葉がくれた愛は永遠だ。

「これからも、みんなで支え合っていこう。琴葉の分も、笑って生きていこう」

窓の外、桜が風に舞う。
その花びらが、まるで琴葉の優しい声のように感じられた。

——ありがとう、琴葉。
君の笑顔は、俺たちの永遠の光だ。


エピローグ:君と紡ぐ、永遠の時間(里音 side)

あれから十年が過ぎた。

春の風は変わらず優しく、桜は今年も淡く咲き誇る。
俺たちは変わらず四人で暮らしている。
奈帆はもう大人になり、玲音も立派に成長した。

けれど、いちばん大切な人はもういない。

琴葉の姿はここにないけれど、
その笑顔も声も、ずっと俺たちの心に生き続けている。

「今日は琴葉の好きだった桜の下で、ご飯を食べようか」

奈帆が提案し、俺たちは毎年恒例の小さな集いを開く。

玲音が「お姉ちゃんに教わった料理、作ったよ」と誇らしげに言い、
奈帆も「一緒に作るの、楽しかったよね」と笑う。

その笑い声は、まるで琴葉がそこにいるかのように温かい。

俺はそっと空を見上げた。

「琴葉、俺たちはずっとここにいる。君がくれた愛と絆を、これからも守っていくよ」

風に舞う桜の花びらが、ひとひら、俺の肩にそっと触れた。

それはまるで、琴葉の「ありがとう」という声のように響いた。

涙は静かに頬を伝い、でも心は少しだけ軽くなった。

——ありがとう、琴葉。
永遠に、愛してる。