翌朝。
律は扉の前で立ち止まった。
あの夜、冷水を浴びせ、施錠し放置したことを思い出し、胸の奥にわずかなざらつきが残っていた。
「少し、やり過ぎたかもしれない……」
その呟きは誰に聞かせるでもなく、静かな廊下に消えた。

意を決して戸を開けた目に飛びこんできたのは、冷え切った畳に横たわる京の姿だった。
頬は青白く、唇は紫にかさつき、胸の上下はかすかにしか確認できない。

「京!」
律は慌てて駆け寄り、その小さな体を抱き上げた。
手は冷たく、衣はまだ湿っていた。
脈を取ろうと手首を握ると、弱く途切れ途切れにしか鼓動を感じられない。

動揺を隠す余裕もなく、律さんは布団を敷き直し、体を拭き、着替えを整えた。
口元へ水を運ぼうとしても、京は力なく喉を詰まらせるばかりだった。

「お願い……京、私を置いていかないで」
普段の威厳を失った声が漏れる。
その響きに自分でも驚いた。

それからの日々、京は目を覚まさなかった。
浅い呼吸が続き、時折小さく呻くような声をあげるだけ。

律はほとんどの時間を京の傍らで過ごした。
冷えないよう毛布を掛け、額に浮かぶ汗を拭い、口に水を含ませる。
眠ることも忘れ、ただ京の呼吸の音を数え続けた。

鈴や慎の顔が思い浮かぶ。
あの子たちは無邪気で、従順だ。
疑うこともなく、私に向けられる眼差しは純粋そのもの。
決まりを守る限り、彼らに不満はないのだ。
 
ーーしかし、そこに温もりはない。

けれど京は違った。
律を「母」として仰ぐだけではなく、時折、対等に
一人の心を持つ存在として気遣ってくれていた。
疲れを隠したときにはその目が追ってきた。
苛立ちを隠そうとしたときには、その沈黙を受け止めようとしてくれた。
誰も気づかぬ細やかな仕草に、京だけが触れていた。

私はようやく理解する。
京は規則を破ることで害をなそうとする子ではなく、ただ心を大切にしようとする子だったのだと。
律の定めた規律からすれば、その自由な思考は危うく、反抗の芽にもなりうる。
だからこそ――これまで警戒し、追い詰めた。

だが、こうして弱々しく横たわる姿を前にすると、心の底から後悔が湧き上がった。
「どうして……どうしてあのとき、もっと大切にできなかったのだろう」

京の存在は律にとって特別だった。
恐怖も反発も含めて、真正面から私を見てくれていた。
決まりを超え、私を一人の人間として扱ってくれた。
そのことがどれほど愛おしく、どれほど救いであったのか――今さらながら身に沁みていく。

「私には……京しかいない」

掠れた声でそう呟きながら、律さんは京の冷たい指を握り締めた。
そのぬくもりがわずかに戻ることを祈りながら。

京がようやく目を覚ましたのは、数日が経ったある日のことだった。
微かに瞬く睫毛を見た瞬間、律さんの胸は強く締めつけられる。

「京……!」

呼びかける声は震えていた。
乾いた唇に少しずつ水を含ませ、体を起こす手を支える。
京はまだ弱々しく、声も出ないほどだったが、その瞳には確かな生気が灯っていた。

律はその日から、京の体力を取り戻すことに全てを注いだ。
食事を工夫し、薬草を煎じ、眠る間も惜しんで看病を続ける。
一刻でも早く、この子の力を取り戻してやりたい――そんな一心で。

やがて鈴と慎も、京の様子を見に訪れた。
けれど、かつてのように三人で笑い合う姿はどこにもなかった。
鈴は気まずそうに笑って数言を交わすだけ、慎は「元気になれよ」と短く言い残して去っていった。
以前は兄弟のようで、家族そのものだった三人。
だが今では、互いに関心がなく、距離を置く姿は他人のように見えた。

――私が壊してしまったのだ。

律は痛感する。
規則で縛り、心を追い詰め、恐怖で繋ぎとめようとした自分が、この絆を引き裂いたのだと。
京だけでなく、鈴も慎も、皆が以前の姿を失ってしまった。
後悔は日を追うごとに膨らみ、心の奥でじわじわと広がっていく。

そんな折、律はふと思い出す。
かつて京が――恐る恐る口にした願いを。

「外に……行ってみたい」

あのときは決まりを破ろうとする危うい言葉としてしか受け取らなかった。
けれど今思えば、それは心からの願いであり、この屋敷の中では決して得られない望みだったのかもしれない。

律の胸に、ずっと燻っていた痛みが再びじわりと広がった。