朝餉の席に座った瞬間から、京は律さんの視線を感じ取っていた。
膝の上で手を組んでいても、湯気の立つ椀を持ち上げても、その冷ややかな目は揺らがない。
鈴はというと、いつもと変わらず明るかった。
「おはようございます、律さん。今日もいい天気ですね」
朗らかに挨拶をし、律さんに笑みを返されて、ほっと息を弾ませている。
まるで昨夜の一件がなかったかのように。
京は唇を結んだ。
鈴が純粋だから赦されたことは分かっていた。
けれど、自分に向けられる視線はあまりにも違っていた。
「わかっていて黙っていた」
「わかっていて助けた」
そのどちらも律さんにとっては同じ罪。
その眼差しが、そう告げていた。
慎は、膳の向こうで飄々とした顔をしていた。
「律さん、今日も俺が掃除手伝いますよ」
軽い調子でそう言うと、律さんは小さく頷いた。
彼に向けられる視線は、京に向けられるものとはまるで違っていた。
悪ふざけも罰を受けて済む存在。
だが京だけは、律さんにとってそうではない。
京は、熱い味噌汁を口に含みながら、喉の奥に刺さる棘を飲み下そうとした。
自分だけが、ここで試されている。
そう思うと、屋敷の空気がいっそう重たく感じられた。
食後、鈴が廊下を小走りで追いかけてきた。
「京、昨日はごめんね」
大きな瞳でこちらを覗き込み、まるで言葉だけを投げるようにそう告げる。
京は立ち止まり、少し肩を落とした。
「……気にしてない」
そう返すしかなかった。
鈴の謝罪が本気であるかどうか、もう分かっていたからだ。
鈴はただ、昨日の続きを夢のように抱えている。
星が綺麗だったこと、屋根の上で風が冷たかったこと――。
そこに危険や禁忌の影は一切含まれていない。
「また一緒に見ようね」
鈴は屈託なく笑い、駆け足で去っていった。
京は胸の奥に冷たい塊を残されたような気がした。
その日の昼、静かな廊下に律さんの声が響いた。
「京、こちらへいらっしゃい」
ただ自分だけが呼ばれた。
その一言で、胸が強く締めつけられる。
慎のふざけも鈴の無邪気も許されるのに、なぜ自分だけ。
答えは分かっていた。律さんが最も注意を払っているのが、自分だからだ。
畳の部屋に通されると、律さんは背筋を伸ばして座していた。
「京。あなたは、もう子どもではありませんね」
その声は優しくも厳しくもなく、ただ逃げ場を与えない響きを持っていた。
京は静かに頷いた。
律さんの瞳が、真っ直ぐに自分を射抜く。
「ならば、分かるはずです。この屋敷の外にあるものが、どれほど危ういか。
そして、ここで私に従って生きることが、あなたにとってどれほど大切か」
言葉は甘やかすようでいて、鋼のように硬かった。
依存させようとする律さんの手が、京の胸に届きかけている。
「京。あなたは特別だからこそ、心も体も私が導かねばならないのです」
その声は柔らかいのに、背筋を冷やす。
次の瞬間、律さんの手が京の肩を強く掴んだ。
細い指先なのに、鉄のように硬い。
「分かっていますね。昨日のことは、ただの軽率さでは済まされません」
京は唇を噛み、首を縦に振った。
肩に食い込む痛みに、言い訳の言葉も掻き消されてしまう。
律さんはさらに京を畳に押し伏せた。
腕に走る痺れるような痛み。
けれど声を上げれば、その瞬間に“従わない子”の烙印を押される――そんな恐怖が喉を塞ぐ。
「……良い子ですね」
律さんは囁き、ようやく力を緩めた。
けれどその手はすぐに京の顎を持ち上げる。
「覚えておきなさい。あなたは私なしでは生きられない。痛みさえ、私が与えて、私が取り除いてあげられる」
京はただ頷く。
頷くしかなかった。
胸の奥で何かが軋む。
それでも顔には、従順な微笑を浮かべてみせた。
律さんの目が細められた。
その瞬間、ほんの僅かに、満足げな色が宿ったように見えた。
京は律さんの言葉を胸に刻まされ、肩に残る鈍い痛みと共に、逆らうことの意味を嫌でも理解していた。
声を荒げなくとも、律さんは恐怖を与えられる。その優しげな微笑みが、何よりも冷たく感じられた。
それからの京は、律さんの前では従順に振る舞った。
「ええ、分かっています」
「もう二度としません」
そう繰り返すうちに、律さんの顔に確かに満足の色が浮かぶ。
けれど――。
庭で遊ぶ鈴を、書物をめくる慎を、京の視線はいつも追っていた。
声をかけることはなくても、気にかけてしまう。
それは律さんの目には隠しようもなく映っていた。
「……まだ、あの子たちが気になるのですね」
律さんの声音は穏やかだった。だが、その裏に沈殿している色を京は感じ取る。
「京。鈴も、慎も――忘れなさい」
言葉は命令ではなく、囁きのようだった。
しかし、その響きは、昨日の痛みよりも重く、鋭く京の胸を刺した。
京は頷いた。そうするしかなかった。
けれど心の奥底では、「忘れてはいけない」と小さな声が必死に叫んでいた。
膝の上で手を組んでいても、湯気の立つ椀を持ち上げても、その冷ややかな目は揺らがない。
鈴はというと、いつもと変わらず明るかった。
「おはようございます、律さん。今日もいい天気ですね」
朗らかに挨拶をし、律さんに笑みを返されて、ほっと息を弾ませている。
まるで昨夜の一件がなかったかのように。
京は唇を結んだ。
鈴が純粋だから赦されたことは分かっていた。
けれど、自分に向けられる視線はあまりにも違っていた。
「わかっていて黙っていた」
「わかっていて助けた」
そのどちらも律さんにとっては同じ罪。
その眼差しが、そう告げていた。
慎は、膳の向こうで飄々とした顔をしていた。
「律さん、今日も俺が掃除手伝いますよ」
軽い調子でそう言うと、律さんは小さく頷いた。
彼に向けられる視線は、京に向けられるものとはまるで違っていた。
悪ふざけも罰を受けて済む存在。
だが京だけは、律さんにとってそうではない。
京は、熱い味噌汁を口に含みながら、喉の奥に刺さる棘を飲み下そうとした。
自分だけが、ここで試されている。
そう思うと、屋敷の空気がいっそう重たく感じられた。
食後、鈴が廊下を小走りで追いかけてきた。
「京、昨日はごめんね」
大きな瞳でこちらを覗き込み、まるで言葉だけを投げるようにそう告げる。
京は立ち止まり、少し肩を落とした。
「……気にしてない」
そう返すしかなかった。
鈴の謝罪が本気であるかどうか、もう分かっていたからだ。
鈴はただ、昨日の続きを夢のように抱えている。
星が綺麗だったこと、屋根の上で風が冷たかったこと――。
そこに危険や禁忌の影は一切含まれていない。
「また一緒に見ようね」
鈴は屈託なく笑い、駆け足で去っていった。
京は胸の奥に冷たい塊を残されたような気がした。
その日の昼、静かな廊下に律さんの声が響いた。
「京、こちらへいらっしゃい」
ただ自分だけが呼ばれた。
その一言で、胸が強く締めつけられる。
慎のふざけも鈴の無邪気も許されるのに、なぜ自分だけ。
答えは分かっていた。律さんが最も注意を払っているのが、自分だからだ。
畳の部屋に通されると、律さんは背筋を伸ばして座していた。
「京。あなたは、もう子どもではありませんね」
その声は優しくも厳しくもなく、ただ逃げ場を与えない響きを持っていた。
京は静かに頷いた。
律さんの瞳が、真っ直ぐに自分を射抜く。
「ならば、分かるはずです。この屋敷の外にあるものが、どれほど危ういか。
そして、ここで私に従って生きることが、あなたにとってどれほど大切か」
言葉は甘やかすようでいて、鋼のように硬かった。
依存させようとする律さんの手が、京の胸に届きかけている。
「京。あなたは特別だからこそ、心も体も私が導かねばならないのです」
その声は柔らかいのに、背筋を冷やす。
次の瞬間、律さんの手が京の肩を強く掴んだ。
細い指先なのに、鉄のように硬い。
「分かっていますね。昨日のことは、ただの軽率さでは済まされません」
京は唇を噛み、首を縦に振った。
肩に食い込む痛みに、言い訳の言葉も掻き消されてしまう。
律さんはさらに京を畳に押し伏せた。
腕に走る痺れるような痛み。
けれど声を上げれば、その瞬間に“従わない子”の烙印を押される――そんな恐怖が喉を塞ぐ。
「……良い子ですね」
律さんは囁き、ようやく力を緩めた。
けれどその手はすぐに京の顎を持ち上げる。
「覚えておきなさい。あなたは私なしでは生きられない。痛みさえ、私が与えて、私が取り除いてあげられる」
京はただ頷く。
頷くしかなかった。
胸の奥で何かが軋む。
それでも顔には、従順な微笑を浮かべてみせた。
律さんの目が細められた。
その瞬間、ほんの僅かに、満足げな色が宿ったように見えた。
京は律さんの言葉を胸に刻まされ、肩に残る鈍い痛みと共に、逆らうことの意味を嫌でも理解していた。
声を荒げなくとも、律さんは恐怖を与えられる。その優しげな微笑みが、何よりも冷たく感じられた。
それからの京は、律さんの前では従順に振る舞った。
「ええ、分かっています」
「もう二度としません」
そう繰り返すうちに、律さんの顔に確かに満足の色が浮かぶ。
けれど――。
庭で遊ぶ鈴を、書物をめくる慎を、京の視線はいつも追っていた。
声をかけることはなくても、気にかけてしまう。
それは律さんの目には隠しようもなく映っていた。
「……まだ、あの子たちが気になるのですね」
律さんの声音は穏やかだった。だが、その裏に沈殿している色を京は感じ取る。
「京。鈴も、慎も――忘れなさい」
言葉は命令ではなく、囁きのようだった。
しかし、その響きは、昨日の痛みよりも重く、鋭く京の胸を刺した。
京は頷いた。そうするしかなかった。
けれど心の奥底では、「忘れてはいけない」と小さな声が必死に叫んでいた。

