夜になり、屋敷の廊下は薄暗い灯りに包まれていた。
朝の律さんとのやり取りがまだ胸に残っていて、京はどうにも眠れそうになかった。
広い屋敷の中はしんと静まり返り、時折どこかの板がきしむ音だけが耳に触れる。

「……京」
不意に襖の隙間から顔を覗かせたのは、鈴だった。
今朝と同じ無邪気な笑みを浮かべながら、ためらいもなく部屋に入ってくる。

「昨日の話さ」
鈴は畳に腰を下ろすと、枕を抱えるみたいにして身を丸めた。
「京が言ってたじゃない、私が何も分かってないって」

京は言葉を詰まらせた。
軽く言ったつもりの一言が、案外鈴の胸には残っていたらしい。

「確かにそうなのかもって」
鈴はけらけらと笑う。まるでそれを恥じる気配もなく、楽しんでいるようだった。
「でもね、面白いことを思いついたの」

その笑みは今朝以上に無邪気で、危うかった。
京の心臓が不安げに脈を打つ。
鈴の「思いついたこと」がろくでもないことなのは、これまでの付き合いでよく分かっている。

「ねえ京、屋根に上って星を見ようよ」

京はすぐに顔をしかめた。
「……律さんに言われただろ。部屋で静かにしてろって」
「だって、退屈なんだもん。本なんてもう飽きちゃった」

鈴はふくれっ面をして、子どものように両腕を組んだ。
「屋敷の外に出るわけじゃないよ? ただ屋根に上ってみるだけ。屋敷の中ならいいでしょ?」

「屋根は部屋じゃない」
京は冷たく言い放った。
昨日の一件をまだ引きずっているのだ。鈴の軽率さに巻き込まれて、どれほど冷や汗をかいたか。二度と同じ轍は踏みたくなかった。

「……京ってば、ほんとつまんない」
「一人でだってできるもん」
鈴は膨れたまま部屋を飛び出していった。

京は胸がざわめいた。
最初は見て見ぬふりをしようと思ったが、頭の中に鈴の無邪気な笑顔と、危うい足取りが浮かぶ。
(……危ないに決まってる)
気付けば、京の足も廊下を走っていた。

屋根に出ると、それに気付いた鈴が、月明かりの下でこちらに手を振った。
「京! 星、すっごく綺麗だよ!」
その笑顔の瞬間、鈴の身体がふらりと傾いた。

「鈴!」
京は咄嗟に駆け寄り、腕を掴んだ。
鈴の軽い身体がぐらりと揺れ、瓦がかすかに音を立てた。
必死で引き上げると、鈴は胸を押さえながら笑ってみせた。
「ありがと……ちょっとびっくりした」

安堵の息をついた京の耳に、軒下でくぐもった声が届いた。
「へえ、面白いもん見ちゃったな」

振り返ると、薄暗がりに慎の姿があった。
どこまで見ていたのか――その目はからかうように細められていた。

***

その日のうちに、京と鈴は律さんの前に並ばされた。
「屋根に上ったそうね」

低い声に、京の背筋が凍りついた。

鈴は慌てて口を開く。
「わたしが勝手にやったんです! 京は、助けてくれただけで……それに、星がすごく綺麗で――」
その顔には叱られているものではなく、むしろ星を見れた喜びに染まっていた。

律さんはしばらく鈴を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「……そう」
その目は、無邪気さの中に嘘を見出せなかったのだろう。

だが京へと視線が移った瞬間、その眼差しは冷たく鋭く変わった。
「あなたは、どうなの」

京は何も言えなかった。
――助けただけ。確かにそうだ。
だが、昨日の門の一件も含め、律さんにはすでに見透かされている気がしてならなかった。

鈴は純粋に信じられている。
京は――疑われている。
その違いを、痛いほどに思い知らされた。

律さんの背が障子の向こうに消えた瞬間、張り詰めていた空気がほどけた。
鈴は胸をなで下ろし、ほっとしたように笑った。

「ねえ京、やっぱり綺麗だったよね。星、見てよかった」
その声には後悔の欠片もなく、ただ楽しい思い出を語る子どものような無邪気さがあった。

京は返事を飲み込んだ。喉元まで言葉がせり上がったのに、出せなかった。
「そうだな」などと軽く同意できるほど気楽ではない。
むしろ律さんの視線がまだ背中に突き刺さっているようで、全身が冷えていた。

「なあ」
横から声を差し挟んだのは慎だった。
「俺さ、朝から見てたんだぜ。お前ら、ほんっと面白いな」

茶化すような笑いが耳障りで、京は眉を寄せた。
「……お前、わざわざ律さんに言わなくてもよかっただろ」
「いやいや、見て見ぬふりは性に合わなくてな。何か起きると楽しいじゃん」

軽い調子で言い放つ慎に、京は言葉を失った。
楽しむ? 今のやり取りが?
胸の奥がざらつき、言いようのない不快感が広がる。

その横で、鈴は首を傾げながら慎を見上げた。
「でも慎、ちょっと怖かったよ。京がいなかったら、本当に落ちてたかもしれないし」
「そうそう。その必死な顔、俺には最高の見ものだったな」

慎の笑みが月光を受けて浮かんだとき、京はぞくりと背を震わせた。
律さんの冷たい眼差しとは別の種類の居心地の悪さ。
――どちらも、京にとっては逃げ場を失わせるものだった。

「……もう寝る」
京はそれだけ言い捨てて立ち上がった。
鈴の楽しげな顔も、慎の無責任な笑みも、今はまともに見ることができなかった。