翌朝。
廊下にひそやかな足音が響く。
「おはよう、京、鈴」
律さんが姿を現した。
その穏やかな声に、鈴は真っ先に駆け寄る。
「おはようございます、律さん!」
瞳を輝かせる鈴を見て、律さんはやわらかく微笑んだ。
「元気そうで何よりね」
一方で、京の胸は重く縮んでいた。
息を詰め、律さんに視線を合わせる。
律さんの目が、一瞬、鋭く細まった。
「京。昨夜はよく眠れた?」
鈴の時とは違う声音。
表面上は同じ笑みを浮かべながらも、底に潜む鋭さが京の心を射抜く。
まるで“分かっているのだろう”とでも言うように。
京は喉を鳴らし、笑みを作った。
「……はい。特に、何も」
律さんはしばし京を見つめ、それから何事もなかったように鈴の髪を撫でた。
「外には出ちゃだめよ。あそこは、危ないから」
その言葉に、鈴は素直に頷いた。
「はい、律さん!」
──違う。
京は悟る。
律さんが鈴に言い聞かせる言葉と自分に向けられた眼差しは違った。
あれは“見抜かれた”のだ。
まだ、自分がこの屋敷に完全には染まっていないことを。
律さんの支配に従いきれていない火種が、胸の奥に残っていることを。
京は拳を握った。
これ以上、気取られてはいけない──そう思うほど、心臓の音は大きくなっていった。
朝の食卓。
律さんはいつもと変わらぬ笑顔で、穏やかに話していた。けれど、その笑顔の奥にあるものを京は敏感に感じ取っていた。背筋が固くなり、息が浅くなる。
隣では鈴が無邪気にパンを齧っている。
何も空気の重さに気づいていない。
そのとき、不意に慎が口を開いた。
「なぁ京。俺さ──今朝の見てたんだよ」
京はぎくりと振り返る。慎の視線はどこか愉快そうで、からかいを含んでいた。
「律ちゃんとお前のやり取りさ。顔に全部出てんじゃん。
正直、見てて笑えるくらいだった」
食卓に冷たい沈黙が走る。鈴がぽかんと慎を見た。
律さんは微笑んだまま、ほんの少し首を傾げる。
「慎、それはどういうことかしら?」
その声音は、柔らかく響くのに、刃のような鋭さを帯びていた。
京の心臓が強く打つ。
慎は肩をすくめ、悪びれもせずに言った。
「いやぁ、深い意味はないっすよ。ただ、京の顔が面白かったってだけで」
律さんの笑みは崩れなかった。けれど、その目の奥に潜むものを京は見逃さなかった。
──標的は自分だ。
そう悟った瞬間、律さんの視線は慎へと移った。
「慎。あなた、今朝の掃除を忘れていたわね?」
「え、ああ……そうでしたっけ?」
慎は肩をすくめ、曖昧に笑った。
「忘れていたのなら仕方ないわ。でも、今日は一日中、玄関の石畳を磨いてちょうだい。外に出た者が最初に目にする場所だもの、きれいでなくてはね」
律さんは優しく告げる。
命じられた内容は重罰でもなんでもなかった。
ただの「お手伝い」の延長にすぎない。
けれど、その柔らかい声の裏に、明確な「序列」が刻まれているのを京は感じ取っていた。
慎は「へいへい」と笑って受け流し、面白がっているようにすら見えた。
鈴は「律さん、やっぱりちゃんと見てるんだね」と楽しげに頷いている。
だが、京だけは違った。
──律さんの関心は、本当に慎に向いているのではない。
慎への罰は、ただの目くらまし。
本当に測られているのは自分だ。
胸の奥が冷たくなる。呼吸が浅くなり、背筋に汗が伝った。
慎は軽い調子で「じゃ、行ってきまーす」と言って、桶と布を抱えて玄関の方へ向かっていった。
背中を見送りながら、京の胸のざわめきは強くなるばかりだった。
律さんはにこやかに席へ戻り、まるで何事もなかったかのように湯を注ぎ足してくれる。
鈴はその様子に安心したのか、まるで注意されたのが自分ではないことを喜ぶ子どものように、頬を緩ませていた。
「鈴。あなたは今日は部屋で本を読んでいなさい。昨日みたいに余計なことを考えてはいけませんよ」
「はーい」
鈴は素直に頷き、律さんの言葉をそのまま「愛情のしるし」と受け取っているらしかった。
京の胸には奇妙な違和感が膨らんでいく。
なぜ鈴は、あの言葉をただの優しさとして受け止められるのか。
なぜ慎は、玄関を磨くという形だけの罰を冗談のように受け流せるのか。
──自分だけが、律さんの言葉の底に隠されたものを感じ取っている。
そして、感じ取ってしまった以上、もう元には戻れない。
律さんがふと京を見つめる。
その笑みは柔らかいのに、背骨の奥まで突き刺さってくるようだった。
「京。あなたは……わかっていますね」
律さんの声音は甘く、問いかけというよりも確認の響きを帯びていた。
京は喉の奥が固まったように声を失い、ただ小さく頷くしかなかった。
その瞬間、鈴が何も知らない顔で「律さん、わたしもあとで玄関磨き手伝おっか?」と無邪気に口を挟む。
律さんは微笑み、優しく首を振った。
「いいのよ、鈴。あなたはそのままでいい」
そのやり取りを見ていた京の胸には、安堵と、そしてどうしようもない孤独が同時に押し寄せていた。
鈴は湯飲みを両手で包みながら、まだにこにことしていた。
律さんに「そのままでいい」と言われたことが、きっと褒め言葉にしか聞こえていないのだろう。
その表情を横目で見て、京は心の奥で大きく息を吐いた。
──ああ、やはり鈴は何も分かっていない。
もし鈴が律さんの言葉の裏に潜むものを理解していたなら、その笑顔は浮かべられなかったはずだ。
そう思うと、京は少しだけ安心した。
少なくとも鈴は「標的」ではない。鈴が笑っていられるのなら、それでいい、と。
だが同時に、どうしようもない落胆も込み上げてくる。
理解しないまま、ただ「そのままでいい」と言われる鈴。
それは守られているようで、同時に一生「外側」には出られないことの証でもあった。
京は口の中で言葉を転がしながら、結局声には出さなかった。
言ってしまえば、鈴を不安にさせるだけだ。
鈴は、ただの軽口からこの騒動を始めてしまった張本人であるにも関わらず、何も知らずに笑っている。
その無邪気さを守りたいのか、それとも揺さぶってしまいたいのか──京自身にもわからなかった。
律さんは二人の様子をしばし眺め、それから静かに席を立った。
「少し、用を見てきます。京、鈴。仲良くしていなさいね」
軽やかにそう言い残し、奥の部屋へと消えていった。
屋敷の一室に残された京と鈴。
窓から射し込む朝の光が、二人の沈黙を不釣り合いなほど明るく照らしていた。
廊下にひそやかな足音が響く。
「おはよう、京、鈴」
律さんが姿を現した。
その穏やかな声に、鈴は真っ先に駆け寄る。
「おはようございます、律さん!」
瞳を輝かせる鈴を見て、律さんはやわらかく微笑んだ。
「元気そうで何よりね」
一方で、京の胸は重く縮んでいた。
息を詰め、律さんに視線を合わせる。
律さんの目が、一瞬、鋭く細まった。
「京。昨夜はよく眠れた?」
鈴の時とは違う声音。
表面上は同じ笑みを浮かべながらも、底に潜む鋭さが京の心を射抜く。
まるで“分かっているのだろう”とでも言うように。
京は喉を鳴らし、笑みを作った。
「……はい。特に、何も」
律さんはしばし京を見つめ、それから何事もなかったように鈴の髪を撫でた。
「外には出ちゃだめよ。あそこは、危ないから」
その言葉に、鈴は素直に頷いた。
「はい、律さん!」
──違う。
京は悟る。
律さんが鈴に言い聞かせる言葉と自分に向けられた眼差しは違った。
あれは“見抜かれた”のだ。
まだ、自分がこの屋敷に完全には染まっていないことを。
律さんの支配に従いきれていない火種が、胸の奥に残っていることを。
京は拳を握った。
これ以上、気取られてはいけない──そう思うほど、心臓の音は大きくなっていった。
朝の食卓。
律さんはいつもと変わらぬ笑顔で、穏やかに話していた。けれど、その笑顔の奥にあるものを京は敏感に感じ取っていた。背筋が固くなり、息が浅くなる。
隣では鈴が無邪気にパンを齧っている。
何も空気の重さに気づいていない。
そのとき、不意に慎が口を開いた。
「なぁ京。俺さ──今朝の見てたんだよ」
京はぎくりと振り返る。慎の視線はどこか愉快そうで、からかいを含んでいた。
「律ちゃんとお前のやり取りさ。顔に全部出てんじゃん。
正直、見てて笑えるくらいだった」
食卓に冷たい沈黙が走る。鈴がぽかんと慎を見た。
律さんは微笑んだまま、ほんの少し首を傾げる。
「慎、それはどういうことかしら?」
その声音は、柔らかく響くのに、刃のような鋭さを帯びていた。
京の心臓が強く打つ。
慎は肩をすくめ、悪びれもせずに言った。
「いやぁ、深い意味はないっすよ。ただ、京の顔が面白かったってだけで」
律さんの笑みは崩れなかった。けれど、その目の奥に潜むものを京は見逃さなかった。
──標的は自分だ。
そう悟った瞬間、律さんの視線は慎へと移った。
「慎。あなた、今朝の掃除を忘れていたわね?」
「え、ああ……そうでしたっけ?」
慎は肩をすくめ、曖昧に笑った。
「忘れていたのなら仕方ないわ。でも、今日は一日中、玄関の石畳を磨いてちょうだい。外に出た者が最初に目にする場所だもの、きれいでなくてはね」
律さんは優しく告げる。
命じられた内容は重罰でもなんでもなかった。
ただの「お手伝い」の延長にすぎない。
けれど、その柔らかい声の裏に、明確な「序列」が刻まれているのを京は感じ取っていた。
慎は「へいへい」と笑って受け流し、面白がっているようにすら見えた。
鈴は「律さん、やっぱりちゃんと見てるんだね」と楽しげに頷いている。
だが、京だけは違った。
──律さんの関心は、本当に慎に向いているのではない。
慎への罰は、ただの目くらまし。
本当に測られているのは自分だ。
胸の奥が冷たくなる。呼吸が浅くなり、背筋に汗が伝った。
慎は軽い調子で「じゃ、行ってきまーす」と言って、桶と布を抱えて玄関の方へ向かっていった。
背中を見送りながら、京の胸のざわめきは強くなるばかりだった。
律さんはにこやかに席へ戻り、まるで何事もなかったかのように湯を注ぎ足してくれる。
鈴はその様子に安心したのか、まるで注意されたのが自分ではないことを喜ぶ子どものように、頬を緩ませていた。
「鈴。あなたは今日は部屋で本を読んでいなさい。昨日みたいに余計なことを考えてはいけませんよ」
「はーい」
鈴は素直に頷き、律さんの言葉をそのまま「愛情のしるし」と受け取っているらしかった。
京の胸には奇妙な違和感が膨らんでいく。
なぜ鈴は、あの言葉をただの優しさとして受け止められるのか。
なぜ慎は、玄関を磨くという形だけの罰を冗談のように受け流せるのか。
──自分だけが、律さんの言葉の底に隠されたものを感じ取っている。
そして、感じ取ってしまった以上、もう元には戻れない。
律さんがふと京を見つめる。
その笑みは柔らかいのに、背骨の奥まで突き刺さってくるようだった。
「京。あなたは……わかっていますね」
律さんの声音は甘く、問いかけというよりも確認の響きを帯びていた。
京は喉の奥が固まったように声を失い、ただ小さく頷くしかなかった。
その瞬間、鈴が何も知らない顔で「律さん、わたしもあとで玄関磨き手伝おっか?」と無邪気に口を挟む。
律さんは微笑み、優しく首を振った。
「いいのよ、鈴。あなたはそのままでいい」
そのやり取りを見ていた京の胸には、安堵と、そしてどうしようもない孤独が同時に押し寄せていた。
鈴は湯飲みを両手で包みながら、まだにこにことしていた。
律さんに「そのままでいい」と言われたことが、きっと褒め言葉にしか聞こえていないのだろう。
その表情を横目で見て、京は心の奥で大きく息を吐いた。
──ああ、やはり鈴は何も分かっていない。
もし鈴が律さんの言葉の裏に潜むものを理解していたなら、その笑顔は浮かべられなかったはずだ。
そう思うと、京は少しだけ安心した。
少なくとも鈴は「標的」ではない。鈴が笑っていられるのなら、それでいい、と。
だが同時に、どうしようもない落胆も込み上げてくる。
理解しないまま、ただ「そのままでいい」と言われる鈴。
それは守られているようで、同時に一生「外側」には出られないことの証でもあった。
京は口の中で言葉を転がしながら、結局声には出さなかった。
言ってしまえば、鈴を不安にさせるだけだ。
鈴は、ただの軽口からこの騒動を始めてしまった張本人であるにも関わらず、何も知らずに笑っている。
その無邪気さを守りたいのか、それとも揺さぶってしまいたいのか──京自身にもわからなかった。
律さんは二人の様子をしばし眺め、それから静かに席を立った。
「少し、用を見てきます。京、鈴。仲良くしていなさいね」
軽やかにそう言い残し、奥の部屋へと消えていった。
屋敷の一室に残された京と鈴。
窓から射し込む朝の光が、二人の沈黙を不釣り合いなほど明るく照らしていた。

