京の体はようやく持ち直し、歩くことも、会話もできるようになっていた。
その回復を見届けるように、律は三人を一つの卓へ呼び寄せた。
「今日は……皆で食卓を囲もう」
そう言って律が用意したのは、具材の浮かばない汁物と、三つの茶だった。
湯を沸かす手順を誤ったのだろう。二つはすっかり冷めており、残りひとつだけが熱を帯びて湯気を立てていた。
鈴は迷わず、冷めた茶を手に取る。
「こっちのほうが飲みやすいよ」と笑顔を浮かべ、慎もそれに倣って冷たい方を選んだ。
二人にとっては何の違和感もなく、むしろそれが自然なことのように。
京はというと、差し出された椀を前にしばらく黙っていた。
薄い香りの立たぬ汁物に視線を落とし、やがて熱の残る茶へと目を移す。
だが、手は伸びなかった。
「……今は、気分じゃない」
小さくそう言って、器には口をつけなかった。
鈴と慎は特に気にした様子もなく、淡々と汁を啜り、茶を飲んでいた。
卓を囲んでいるのに、かつてのような温もりはどこにもなかった。
律は静かに京を見ていた。
その拒絶が、ただの気まぐれではないことを悟ってしまう。
京の中には、まだ消えない「違和感」と「恐れ」が残っている――その事実を、冷めた椀よりも冷たく突きつけられるのだった。
食卓を離れた京は、そのまま自室へと戻った。
扉を閉めると、胸の奥に沈んだ重たい感情が波のように押し寄せてくる。
机の奥に隠していた地図を取り出し、手のひらで広げる。西の川沿いを南へ進めば、人の住む場所に辿り着ける――それは何度も頭の中で反芻してきた逃げ道だった。
「……もう、ここにいたら……」
言葉は途中で消えた。
代わりに、衣装棚から新品の服を取り出す。まだ一度も袖を通していなかった、皺のない布。
鏡の前でそれに着替えると、わずかに背筋が伸びる。
決意の重さに押されて、心臓が強く打った。
夜。
屋敷の廊下を音を立てないよう歩き、庭へ降り立つ。
空気は澄んで、遠く川の流れる音が耳に届く。
京は迷うことなくその方角へ足を進めた。
その姿を、律は窓辺に立ち、ただ見つめていた。
引き止めることも、呼びかけることもできない。
声をかければ戻せるかもしれない――それでも、声は出なかった。
胸の奥で張り裂けそうな想いがあった。
「行かないで」と叫びたかった。
「どうか私のそばにいて」と縋りたかった。
だが、唇は震えるばかりで、声にはならない。
ただ、夜気に溶けていく京の背を、律は最後まで目で追っていた。
別れの挨拶すらできぬままに。
その回復を見届けるように、律は三人を一つの卓へ呼び寄せた。
「今日は……皆で食卓を囲もう」
そう言って律が用意したのは、具材の浮かばない汁物と、三つの茶だった。
湯を沸かす手順を誤ったのだろう。二つはすっかり冷めており、残りひとつだけが熱を帯びて湯気を立てていた。
鈴は迷わず、冷めた茶を手に取る。
「こっちのほうが飲みやすいよ」と笑顔を浮かべ、慎もそれに倣って冷たい方を選んだ。
二人にとっては何の違和感もなく、むしろそれが自然なことのように。
京はというと、差し出された椀を前にしばらく黙っていた。
薄い香りの立たぬ汁物に視線を落とし、やがて熱の残る茶へと目を移す。
だが、手は伸びなかった。
「……今は、気分じゃない」
小さくそう言って、器には口をつけなかった。
鈴と慎は特に気にした様子もなく、淡々と汁を啜り、茶を飲んでいた。
卓を囲んでいるのに、かつてのような温もりはどこにもなかった。
律は静かに京を見ていた。
その拒絶が、ただの気まぐれではないことを悟ってしまう。
京の中には、まだ消えない「違和感」と「恐れ」が残っている――その事実を、冷めた椀よりも冷たく突きつけられるのだった。
食卓を離れた京は、そのまま自室へと戻った。
扉を閉めると、胸の奥に沈んだ重たい感情が波のように押し寄せてくる。
机の奥に隠していた地図を取り出し、手のひらで広げる。西の川沿いを南へ進めば、人の住む場所に辿り着ける――それは何度も頭の中で反芻してきた逃げ道だった。
「……もう、ここにいたら……」
言葉は途中で消えた。
代わりに、衣装棚から新品の服を取り出す。まだ一度も袖を通していなかった、皺のない布。
鏡の前でそれに着替えると、わずかに背筋が伸びる。
決意の重さに押されて、心臓が強く打った。
夜。
屋敷の廊下を音を立てないよう歩き、庭へ降り立つ。
空気は澄んで、遠く川の流れる音が耳に届く。
京は迷うことなくその方角へ足を進めた。
その姿を、律は窓辺に立ち、ただ見つめていた。
引き止めることも、呼びかけることもできない。
声をかければ戻せるかもしれない――それでも、声は出なかった。
胸の奥で張り裂けそうな想いがあった。
「行かないで」と叫びたかった。
「どうか私のそばにいて」と縋りたかった。
だが、唇は震えるばかりで、声にはならない。
ただ、夜気に溶けていく京の背を、律は最後まで目で追っていた。
別れの挨拶すらできぬままに。

