屋敷は静かだった。
壁も床も古びているのに、やけに整いすぎていて、乱すことが許されないような息苦しさがある。
京はそこでの生活に慣れていた。
何をしてよくて、何をしてはいけないのか。誰にも教えられたことはないのに、積み重ねられた経験から、自然と理解していた。
「これは駄目だ」という線引きが、肌の下に滲みついているのだ。
そんな空気を少しも気にしないのが、鈴だった。
彼女は窓辺に腰かけ、外の空を見ながら、退屈そうに脚をぶらつかせていた。
「ねえ、京。外に逃げちゃおっか」
軽く言った。
本当に天気の話でもするみたいに。
京は思わず振り向く。
「……逃げる?」
声が少し強ばっていた。
鈴はくすりと笑う。
「だって、こんなとこ退屈じゃん。外に出れば、もっと面白いことあるかもしれないでしょ?」
その無邪気な調子に、京の胸がひやりと冷たくなる。
屋敷の外。禁忌。触れてはいけない領域。
京は息を潜め、しばらく鈴を見つめた。
だが、鈴は悪びれもせず肩をすくめてみせる。
「……なーんてね。ほら、びっくりした? そういう顔すると思ったんだよね」
京はようやく理解する。
──ああ、本気じゃないんだ。
胸に張りつめていた糸が切れ、安堵が広がる。
鈴は何も考えていない。
「……鈴は、何も分かってないんだな」
小さく呟くと、鈴は「え? 何か言った?」と首をかしげる。
その無邪気な仕草が、京には余計に遠く感じられた。
鈴はしばらく黙っていたが、急に顔を上げて言った。
「ねえ、京。さっきの“何も分かってない”って言葉さ、ちょっと面白いよね」
京は眉をひそめる。
「……何が」
「分かってないなら、試してみればいいじゃん。屋敷の外って、どうなってるんだろう」
その言葉に、京の呼吸が止まった。
屋敷の敷地から出てはいけない──誰も口にしたことはないが、皆がそうしてきた。
それは“決まり”ではなく、空気のように染みついた当然だった。
「鈴、それは……」
止める声は震えていた。
けれど彼女は無邪気に京の袖をつかむ。
「大丈夫だって。ちょっと門を見に行くだけ。ほら、一緒に」
月明かりを背に、鈴は軽やかに歩き出す。
京は抗えず、その背中を追ってしまった。
庭を横切り、石畳を抜けると、重々しい門扉が夜の中に立っている。
普段なら近づくことすら避けていた場所。
鈴は嬉しそうに門に手をかけた。
「ほら、意外と普通じゃん」
その瞬間、風が止んだ。
夜気の中に、京の肌を刺すような冷たさが走る。
見えない何かにじっと見つめられているような感覚。
京は喉をひりつかせながら鈴の腕を引いた。
「戻るぞ、鈴!」
だが遅かった。
背中に重くのしかかる視線。
律さんに気づかれたのだ。
京は息を詰める。
──やはり自分はまだ、屋敷に染まりきれていない。
そしてその隙を、鈴があざけるように暴き出してしまった。
屋敷に戻った後も、京の胸はざわつき続けていた。
鈴は何事もなかったように笑う。
「ほらね、大丈夫だったでしょ」
その軽い声に、京は返事をする気にもなれなかった。
──本当に、大丈夫だったのか。
暗闇の中で目を閉じても、門の前で感じたあの冷たい気配がまとわりついて離れなかった。
壁も床も古びているのに、やけに整いすぎていて、乱すことが許されないような息苦しさがある。
京はそこでの生活に慣れていた。
何をしてよくて、何をしてはいけないのか。誰にも教えられたことはないのに、積み重ねられた経験から、自然と理解していた。
「これは駄目だ」という線引きが、肌の下に滲みついているのだ。
そんな空気を少しも気にしないのが、鈴だった。
彼女は窓辺に腰かけ、外の空を見ながら、退屈そうに脚をぶらつかせていた。
「ねえ、京。外に逃げちゃおっか」
軽く言った。
本当に天気の話でもするみたいに。
京は思わず振り向く。
「……逃げる?」
声が少し強ばっていた。
鈴はくすりと笑う。
「だって、こんなとこ退屈じゃん。外に出れば、もっと面白いことあるかもしれないでしょ?」
その無邪気な調子に、京の胸がひやりと冷たくなる。
屋敷の外。禁忌。触れてはいけない領域。
京は息を潜め、しばらく鈴を見つめた。
だが、鈴は悪びれもせず肩をすくめてみせる。
「……なーんてね。ほら、びっくりした? そういう顔すると思ったんだよね」
京はようやく理解する。
──ああ、本気じゃないんだ。
胸に張りつめていた糸が切れ、安堵が広がる。
鈴は何も考えていない。
「……鈴は、何も分かってないんだな」
小さく呟くと、鈴は「え? 何か言った?」と首をかしげる。
その無邪気な仕草が、京には余計に遠く感じられた。
鈴はしばらく黙っていたが、急に顔を上げて言った。
「ねえ、京。さっきの“何も分かってない”って言葉さ、ちょっと面白いよね」
京は眉をひそめる。
「……何が」
「分かってないなら、試してみればいいじゃん。屋敷の外って、どうなってるんだろう」
その言葉に、京の呼吸が止まった。
屋敷の敷地から出てはいけない──誰も口にしたことはないが、皆がそうしてきた。
それは“決まり”ではなく、空気のように染みついた当然だった。
「鈴、それは……」
止める声は震えていた。
けれど彼女は無邪気に京の袖をつかむ。
「大丈夫だって。ちょっと門を見に行くだけ。ほら、一緒に」
月明かりを背に、鈴は軽やかに歩き出す。
京は抗えず、その背中を追ってしまった。
庭を横切り、石畳を抜けると、重々しい門扉が夜の中に立っている。
普段なら近づくことすら避けていた場所。
鈴は嬉しそうに門に手をかけた。
「ほら、意外と普通じゃん」
その瞬間、風が止んだ。
夜気の中に、京の肌を刺すような冷たさが走る。
見えない何かにじっと見つめられているような感覚。
京は喉をひりつかせながら鈴の腕を引いた。
「戻るぞ、鈴!」
だが遅かった。
背中に重くのしかかる視線。
律さんに気づかれたのだ。
京は息を詰める。
──やはり自分はまだ、屋敷に染まりきれていない。
そしてその隙を、鈴があざけるように暴き出してしまった。
屋敷に戻った後も、京の胸はざわつき続けていた。
鈴は何事もなかったように笑う。
「ほらね、大丈夫だったでしょ」
その軽い声に、京は返事をする気にもなれなかった。
──本当に、大丈夫だったのか。
暗闇の中で目を閉じても、門の前で感じたあの冷たい気配がまとわりついて離れなかった。

