その邸には数代に渡った古びた影があった。澱と言い換えてもいいし、歴史と感じることもあるかもしれない。

 それを肌着のように身につけて育った私には、いつか影が消えるなど思いもよらなかった。邸とそれは一体で不可分のものなのだから。

 しかしいきなり変化は訪れた。邸の持ち主が代わり、吹くことのない風が邸内の舞い込んだ。新たな主人は廊下の肖像画を取り払わせた。それで高みからの陰気な某夫人の眼差しが消えた。

 「丁重に。このお方には別な場所を見張っていただくことにする」

 腕を組みダニエル・クリフォード伯爵は言う。まるで同意を求めるかのようにこちらに視線が流れたことを私は長く忘れられないだろう。

 差し込む光にその姿が煌めいたことも長く目に焼きついていた…………。



 『廃宮殿の侍女』 J・サンド

 

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 さらが帰りに利用する電車は混むことがなかった。

 乗車口に近いいつもの席に腰を下ろした。膝にバッグを置いてすぐ長い吐息がもれる。ため息かもしれない。頭の中で少し前の記憶が再生されていく。

 (今日も嫌だったな、理事長)

 自宅から三駅離れた幼稚園で保育士として働いて三年目になる。子供達が帰った後は経営者の指示のもと仕事が割り振られ、定時を過ぎるまで忙しく働く。行事の準備や掃除、他書類仕事もあった。そのことに不満はない。

 しかし、ふと投げられる理事長の叱責は別だ。すでにさらの人格否定にまで達しつつある。

 「黒須先生はだらしない印象があるから、保護者会では目立たないように」。

 「頭が悪い分要領くらいよくないと」。

 こんな言葉のムチはほぼ毎日だ。

 (頭は悪いかもしれないけど)

 さらは前園長のつてで今の幼稚園に就職が決まった。体制が変わり、人望のあった前園長がコネでで雇い入れた彼女が気に入らない。はっきりとそう言葉にされたこともある。堪らずに反論したことで事態がより悪化したようだ。

 職場環境に他の不満はない。他の職員は同情を寄せてくれるが、それ止まりだった。待遇のいい園でもあり、ワンマンな経営者に意見はしにくい。

 (毎日はしんどいなあ)

 やりがいでカバーしてきたが、理事長からのいじめがボディーブローのように効いてきているのも事実だ。

 「次は『かげろう』。かげろうに止まります」

 車内のアナウンスが流れた。さらの降りる一つ前の駅だった。

 ほどなく静かに電車が止まる。扉が開き、数人の人々がホームに降り立った。また扉が閉まり車体が動き出した。ふと車内の明かりがチラついた。車窓の外はすでに暗い。何気なくさらはスマホの時刻を見た。七時ちょうどだった。

 明日は土曜で行事のない園は休みだ。仕事のない休みには、必ず伯父の家に顔を出すことがここ七年ほどルールになっていた。そのために気持ちが上向かない。

 (行かないと伯父さんうるさいから)

 さっきとは違ったため息がもれた。

 今の園には伯父のコネで就職できた恩もある。行って何をするのでもない。伯母を手伝って軽い家事をして週にあったことを差し障りなく話すだけ。しかし、愚痴っぽいことは厳禁だ。それは伯父批判に受け取られ、長い説教につながってしまうから。

 だから、土日とある休みの日曜にしか実質自由はない。さらはその日曜のことを考えた。

 (ゆっくり寝て……。カフェでも行きたいな)

 そんな中異変に気づいた。車窓が暗過ぎること。窓を通して何も映らない。闇ばかり。そして『かげろう』からさらの降りる次の駅の『白妙』までの区間にしては、ひどく長い。

 またスマホを見た。時計はちょうど七時のままだ。

 (嘘! そんな訳ない)

 慌てて周囲を見回す。車両には彼女の他サラリーマン風の姿が数人あるばかり。彼らはいずれもこっくりとのんきに居眠りをしていた。

 停車のアナウンスもなく、突然電車が止まった。停車駅であるかのように扉が開いた。さらは開いた扉を凝視した。向こうには駅のホームが見える。

 (運転室で不都合があったとか……)

 これまでこんなことはなかった。

 彼女はバッグを手に立ち上がり扉に近づいた。『かげろう』の次の停車駅なら『白妙』で間違いない。ホームへ一歩踏み出す。スニーカーのつま先がアスファルトに触れた。

 不意に白い光が全身を包んだ。少しの先ものぞけない真っ白闇だ。

 「え」

 感じるよりも考えるよりも早く、そこでさらの意識は途切れた。