「――じゃあ、俺、寝るから。オートロックだから、鍵とか気にしないでそのまま出てって大丈夫」
「あ、はい、分かりました! 東雲さん、お疲れ様でした!」
杏は斗馬が帰って三十分くらい時間をずらす為、部屋で待機していたところに、蒼士がやってきた。寝る為にスウェットに着替え、すっかりオフモードだ。
挨拶を交わし終わり、寝に行くと思ったのに、なぜか蒼士は、リビングのソファに座っている杏の隣に座った。そして、杏の目をじっと見つめる。
「ど、どうしたんですか、東雲さん?」
「それ」
「えっ?」
それ、が何を指しているのか分からないが、蒼士は明らかに不満そうな顔。自分の後ろに何かあるのかと振り返ったが、「そうじゃない」と言われてしまった。
「俺のこと、蒼士って呼んでって言ったじゃん。斗馬は『斗馬くん』で、なんで俺は『東雲さん』なの? 不公平」
「不公平って言われても……」
まただ。蒼士は杏と二人きりになると、こうしてからかってくる。
「『蒼士』――ほら、言ってごらん」
(言ってごらん、って言われても……)
こんな近くで、しかもイケメンボイスで言われ、杏はドキドキ、慌ててしまう。蒼士はそれを楽しんでいるみたいに感じる。
「……そ、蒼士さん」
「えー、『さん』付け? 呼び捨てでいいよ」
「む、無理です……!」
『さん』付けでも恐れ多いのに、呼び捨てなんて絶対無理。蒼士は呼び捨てで呼ばせようと暫く粘っていたが、杏が首を振り続けるのでやっと諦めてくれた。
「……じゃあ、仕方ないからいいよ、それで。その代わり、次のレッスンではオランジェットが食べたい」
「ええと、前も言いましたが、あれは作るのに凄く時間がかかるので、レッスンの時間内では作れないんです」
オランジェットの作り方はそれほど難しくないけど、何度も砂糖で煮て、冷まして、乾かして、と繰り返すから凄く時間がかかる。土曜日の午前中だけではとても時間が足らない。


