好きな匂いがした。青い果実のような、優しい花のような匂いだ。錆びついた鉄のような匂いの方がずっと濃いというのに、その匂いを一番近くに感じることができるだなんて、なんて幸せなことだろうか。

「──ルーチェ、目を開けてくれ」

 ぱたぱたと、水滴が降ってきた。それは秋霖のように終わることなく、いつまでも降り注いでくる。

「……いくな、ルーチェ」

 涙に濡れた声が、何度もルーチェの名を呼んでいる。

 光という意味が込められた、ひとりの少女の名を。

(──でも、わたしは……もう)

 ルーチェの瞼の上に、ぽたりと涙が落ちてきた。その重みに応えるようにこじ開けると、朧げな視界いっぱいにヴィルジールの顔がある。

 頬を流れる涙を拭ってあげたくて、手を伸ばそうとした。だけど手は動かなかった。指先も一つも動かず、凍りついたように動かない唇は何の音も奏でられない。

 もう、体がついていけない。限界も頂点に達しているのだと知った。

「諦めないでくれ。ルーチェ」

「────」

「たとえその瞳が何も映さなくなったとしても、俺の声が聞こえなくなったとしても、俺の名前を呼べなくなったとしても。手を握り返すことも、歩くことも出来なくなったとしても、代わりに俺が何だってしてやる。お前が息絶える瞬間に、幸せだったと想ってもらえるように。だから──」

 ふわりと。閉じた瞼の上に、柔らかい感触がした。

 それは熱を灯すように、降ってきた。

「……だから、そばにいてくれ」

 その熱が彼の唇だと気づいた時。

 霞む世界を、鮮烈な光が切り裂いた。