(……腹減った)


意識した途端、返事をするかのように腹の虫が鳴いた。

昨日凌汰と昼の約束をして、こうして仕事終わりに生徒会室で待っているのだが。

午前最後の講習終了を知らせるチャイムが鳴り終えて優に20分。
いくら待てど凌汰の訪れる気配はなかった。


あの馬鹿、まさか俺との約束忘れてるわけじゃないだろうな……
治まらない腹の虫は訴え続けていて。


いい加減腹が減った。凌汰は来ないし。
いらいら。
一体俺は何に対して苛立ってるのか。


……俺と昼飯食うっていう約束以上に、そっちが大事なのかよ

なんて、仕舞いには誰だかわかんない奴にまで嫉妬するもんだから呆れを通り越して自分が情けなくなる。


静かな部屋に、時計が進む音だけが響く。




(いや……待て、)


ふと考える。

付き合いが長い分、凌汰とは行動を共にしていた。
凌汰は常に俺を優先してくれていた。
だから今まで約束を破られたことなんて、一度たりとも——



ちく、たく、
針は変わらず時を刻む。


脳裏に過ぎるのは、

―――『結ちゃん』


優しく、柔らかく、花が綻ぶような凌汰の笑顔。


「っりょうた……ッ!!」


取り憑かれたように部屋を飛び出す。
向かう先は凌汰のクラスと迷ったが一縷の望みを託して食堂。

苛々が不安に変わる。
どうしようもないほど、俺は理由のわからない予感に焦っていた。


どうかその予感が外れているようにと。
誰でもいいから叶えてくれと、心の中で祈った。








「——どうやら、僕の勝ちですね」




「っ譲!?」



食堂の扉を力任せに開けた。
一日の中で最も食堂が生徒で溢れかえる今の時間。
急に登場した俺を、一般生徒たちが一斉に視界に捉えた。


その中心に、冷めた眼差しを向ける副会長――譲の姿があった。

……いや、譲だけではない。


「結局ユズっぱの一人勝ちかあ」


会計の博哉


「なんでー」

「なんだー」

「「つまんなーい」」


双子の書記、隆一と裕一


「……か、いちょ…こ、ない、…かと…おも、た……」


補佐の信朗



つまり、最悪なタイミングで生徒会役員が勢揃いしたわけだ。

そして、



「おい結来!会長なのに仕事さぼんなよ!」


「………!!」


声はあのうざい転校生独特の喚くようなそれと同じだが、容姿は以前と180度異なる転校生の姿。

身じろぐたびにサラサラと音が鳴りそうな金髪に、パッチリとした蜂蜜色の二重、そして薄く色づいた唇は。

この学園の生徒たちが何よりも好みそうな外見だった。


(……やっぱり、あのだっせえ丸眼鏡と天パはこいつなりの変装か何かだったわけか)


しかも豹変した転校生の格好を見ても周りは顔色一つ変えない辺り、すでに周知の事実らしい。



ああだからか。
いつもなら役員に近づいただけで転校生への非難と罵声の嵐だったはずが、今日はまだ一度すらそういった類の声は聞こえてこない。


むしろ、


「美衣様かわいいなあ……!」

「一回でいいから抱かせてくんねぇかな」

「ばっかじゃないの?美衣ちゃんがてめぇみたいなの相手にするわけないだろ」


明らかな好意を示す口々は、完全に手の平返して転校生にオチた証拠だ。



「てめぇは時計も読めないのか?今はあいにく昼休み中だ」


それに、仕事ならずっとやってる。
お前の親衛隊がやんない分も背負って。


転校生に構う時間も惜しく感じ始め、まだぎゃあぎゃあ喚く声を無視して当たりを見渡した。



(りょうた……凌汰、)


一刻も早く凌汰の姿を確認したいのに、覆い尽くすような人の数がそれを邪魔して。
押し上げる焦りで盛大に舌打ちを鳴らした。


「あれれーもしかして苛々してる?」

「これだから横暴は嫌だねー、ねー裕一」

「っ、隆一…、裕一…」

「「馴れ馴れしく名前で呼ばないで」」


双子だからか、憎むような眼差しも瓜二つだった。
針につつかれたような鋭い痛みが胸を襲う。




ここに凌汰はいない。
これ以上ここにいてはいけない。
誰かが脳内へそう囁いた。

一直線に向かってくる敵意から視線を外し、身を翻そうとした刹那、


「賭けてたんだー俺たち。今日ここに会長が来るかどうかの、ね」

「ッ!」


笑みは浮かべているものの、瞳は全く笑っていない博哉が俺の胸ぐらを掴みあげた。


きゃああぁ!!
辺り一面を黄色い歓声が包んだ。


「っは…なせ、!」


ありったけの怒りを込めて睨んだつもりなのに、
それを意にも介さないとでもいうようにいつもの緩やかな笑みを浮かべる博哉。

その温度差はあまりにも妙だった。


もう一度舌打ちをして、視線だけで当たりの景色を見渡せば



(なんだ……この違和感)



固唾を飲みながら事の成り行きを見守る一般生徒。
驚くべき豹変を遂げたものの中身は何一つ変わっていない転校生。
そして、俺の胸ぐらを掴む博哉を含めた生徒会の……


そこではっとする。
むしろ、今まで何故気づかなかったのかと後悔すら抱く。


違和感を感じた原因、それは生徒会役員の言動だった。


確かに転校生に惚れたその瞬間から、役員は俺に対しまるで親の敵を見るような嫌悪感を示してきた。だがそれは、あくまでも内部の際だけだ。
こいつらは流石に慣れ親しむことはしないものの、一般生徒の前でだけはあからさまな言動は自重していた。
それは自身の地位や環境を気にしてのことだろう。

だが今はどうだろうか。

こんなに大勢の生徒に見守られているというのに、自重するどころか今まで以上に敵意を向けている。

それはつまり


「俺はてっきり会長は親衛隊一人いなくなったところで何とも思わないって読んでたのにな~」


こいつらは完全な優位に立ち、何か行動をとろうとしているのだ。




「………なに言って」

「バカですね、博哉。だからいつまで経ってもチャラ男だのなんだの言われるんですよ」

「えぇ~なにそれ酷くない?ならなんでユズっぱは、来るに賭けたのさ」

不服そうに唇を尖らせる博哉の言葉にふふ、と笑みを零す譲。
次の言葉で俺は凍てつくことになる。


「会長が誰よりも心を許していた人物ですよ?……そして彼もまた、会長に親衛隊以上の想いを寄せていた」


それはもう、あの時ひっきりなしに会長の名を呼ぶくらいには。






ぐらん、目の前が歪む。
耳の後ろで鳴り続ける嫌な金属音。
途中からもう何も頭の中へ入ってこなかった。



———譲の言う、彼が誰を指すのか、考えなくてもすぐにわかることだった。






どうかどうか、あいつが無事にいるようにと。

いつもの阿呆面でひょっこりと出て来て、あの表情でこっちがむず痒くなるくらい優しい声で
結ちゃん、なんて俺の名前を呼んで。


それで、それだけで良かったのに。
安心できたのに。



何度周りを見たって、やっぱり…やっぱり…



凌汰はいない。




「………に、を……」

「ん~?なあに?」

わざとらしく顔を近づけられる。
距離が詰まるそのたびに首もとが締まって痛みが走った。



「あいつに……凌汰に、なにをした……ッッ!!!」



喉が枯れるくらい怒りを露わにした俺に、生徒の輪から悲鳴があがる。


だが構ってる余裕なんて微塵もない。
ただただ抑えきれない怒りを目の前の奴にぶつけるしかできなかった。
取り乱す俺の姿を捉えた瞬間、クツクツと笑い声をかみ殺す博哉。
そして愉快そうに口を開いた。


「ほら、俺らって今は美衣ちゃん一筋じゃん?だから最近はめっきり親衛隊の子と関わる機会がなくなっちゃったの。そしたらね、今までセフレとして仲良くしてた親衛隊の子がさぁ~…」


憂さ晴らしで会長んとこの隊長にちょっかい、出しちゃったみたい。






「きゃああぁあぁぁ!!!」


鈍い衝撃音と、一般生徒の叫び声。


「さっ最低だ!!!」

「「軽蔑しちゃうよー」」

「……かいちょ…きら、い……」


ここぞとばかりに罵声を放つ生徒会と転校生。



「ってて……やってくれたねぇ」


左頬を真っ赤に腫れさせながら下半身を床に寝かせている博哉の姿。



拳に纏わりつく、鈍い痛み。
自分が自分でなくなるような錯覚に陥る、憤怒。


「……ふ、ざけんな…」


全身が震える。
怒りで、憎悪で、そして大切なものを守れなかった自分への悔しさで。



「あいつが何をした……?」


あいつは確かにバカだしアホだし、人が良すぎるせいでいらない損ばっかするような奴だけど。


「……むかつくのは……消したいと思ってんのは俺だろ……?」


そんなの比にならないくらいいいところ、たくさんあるんだよ…っ


隊長の立場になったとき見せる真剣な顔。


人が困ってるとこ目にしたら、メリットなんて皆無なのに自分の出来る限りを尽くそうとするところ。

どんなときだって変わらない笑顔を見せてくれたあいつの温かさ。


救われていたのはいつだって俺で。
その存在がなくなったらだめになるのは、本当は俺の方だった。


「………っ、ざ…けんな……」


悔しくて、悔しくて。
遣り場のないこの感情はどうすればいい。


溜めて溜めて寸でで踏みとどまっていたはずの感情が堰を切ったように溢れ出す。

歪む景色、ぐっと拳に力を込めて熱を堪える。


ここで、こんな奴らの前で、泣くなんて醜態晒すわけにはいかない。
泣いたらそれは負けを認めたことになる。

俺は負けたくない。
凌汰の分も背負って、強くあり続けたい……っ!



「……ほんと気に入らない」


ゆっくりと立ち上がる博哉。
軽くふらつきながらも、覚束ない足取りで俺との距離を詰めてくる。
その頬は痛々しいほど染めあげていた。



「あんたのそのっ、何があっても光を失おうとしない、その瞳が……むかつくんだよ…っ!!」


思い切り拳を振り上げられる。
憎しみと怒りで歪んだその顔は、どこか苦しそうに見えた。

ひゅっ、と風の切り裂く音が聞こえてきて反射的に目を瞑った。


やられる……っ


そう覚悟した瞬間——




———バシャアア



「っひ……ひろや、さま……!!!」

「!なんで…」


暗闇の中聞こえてきたのは博哉の親衛隊だと思われる生徒たちの驚愕の声と、暴走していた苦しみを押さえ込んだような博哉の声。

そして


「あ、すいません。手がすべりました」


何度も何度も頭ん中で繰り返されてきた特待生——三谷瀬幸乃の声だった。