三谷瀬幸乃 (みやせ ゆきの)
それがあの特待生の名前だ。

調べるまでもなかった。
先日理事長から送られてきた編入届けを再確認すれば、すぐに判明することだった。
一番上の項、それも一際大きく記入されてたし。



(三谷瀬幸乃、か…)


何度目かわからないその名前を、そっと頭の中で呟いた。
途端にどきどきと速まる脈も、これで一体、何度目だろうか。特待生の名前を知ったその瞬間から、飽きることなく俺の頭ん中はその5文字で占められていた。



……我ながら恋する乙女かと、ツッコミたくなるくらいだ。や、恋じゃないけど。


恋……ふとそのワードが頭に降ってきて身体が強張る。
っつか、え、え、意味わかんねえなに恋ってなんだよ恋って…!

誰が誰に……ってそもそも、何故俺は、この間から特待生の顔と名前ばっか考えてんだ。気色悪すぎだろ俺。

それもひたすら高揚に浮かされているその相手はあろうことか俺を嫌っているわけで。

近づくなって言われたし。

だけど最後に見せたあいつの表情


(俺の勘違いかもだけど……なんか)



「寂しそうだったな……」

「そーですよ!!咲谷会長ったら最近全然構ってくれなくて、俺、すっごーーい寂しかったんですからねっ!」


所詮はこの呟きも独り言で終わると疑いもしていなかった中、不意に後ろから聞こえてくるはずない他者からの声が返ってきて思い切り肩を跳ねさしてしまう。

現在の場所は生徒会室。
ちなみに他の役員は揃って不在。ここまでくればある意味尊敬する…はあ…。


「っ急に声をかけるな。それと部屋に入る時はノックしろ。それくらい常識だ、ばか」

「なに言ってんのー結ちゃん。ノックしたのに返事してくれなかったから、こうやって驚かせてるんでしょ」

「結ちゃん止めろ」

「で?一体何が寂しそうなんですか?結ちゃん」

「っだから下の名前で呼ぶなと何度言えば……いやもうなんでもない」


こいつが一度こうと決めたら決してその信念を曲げようとしないことくらい、とうの昔に把握済みだ。

振り返るついでに恨めがましい眼差しを送れば、「さっすが結ちゃん、物分かりのいい子だね〜」なんてほざきながら嬉しそうにはにかむそいつ。
背丈は小さめで華奢。ブラウンの髪に柔和な二重、可愛い容姿をした——杉井凌汰 (すぎい りょうた)のその顔に、俺は昔から滅法弱い。


まあだからといって、下の名前で呼ぶのは別の話だが。
嫌なんだよ自分の名前……女みたいで。



「凌汰には関係ない話だ。それにおまえも、俺に用件があるからここに来たんじゃないのか?」

「ご名答!まさにその通り!」


あははー、なんて頭に手を添えながら笑うこいつはアホなのかなんなのかきっとアホなんだな。


そしてポケットから何かを取り出し、俺に手渡す。


(もうそんな時期か…)


手の平にすんなり収まるUSBメモリ。
ちらっと凌汰に視線を戻せば、いつの間にか先程浮かべていた無邪気な笑顔は面影すらなくて。瞳に強い光を宿す、真剣な顔を浮かべていた。



(……ああやっぱり)



それを合図に、持ってきたパソコンにUSBを繋げる。
すぐデータが映し出された。


————“神宮聖学園生徒会長 咲谷結来・親衛隊隊員一覧表”


「つい先ほど、今年度の新規生が募り終わりました」


落ち着いた物腰でテキパキと用件を伝え始める凌汰のもう一つの顔。
凌汰は中等部から俺を支え続けてくれている、親衛隊隊長だ。

希望したのは凌汰から。
親衛隊隊長になればもっと結ちゃんの力になれる。俺が何よりも大好きな笑顔で、そう言われた。




「やっぱり歓迎会のときのスピーチが良かったんでしょうね。前年度と比べて倍の数です」



俺越しにマウスを動かしながら画面を覗きこむ凌汰は真剣そのもの。
それがいつものあのアホ面からかけ離れていて、思わずどきっとしてしまう。



(やっぱり凌汰を隊長にしてよかった)



変わらない関係を改めて実感できて、じんわりと胸が暖かくなった。



調子に乗るだろうから、ぜってぇ本人には言わないがな。





「じゃあ、俺は失礼します」



親衛隊について一通りの説明が終わり、凌汰が扉の外に一歩足を出した。


「ああ。何から何までほんとにありがとう」


本来なら親衛隊の運営管理は自分の下で行わなくてはならなかった。
だが他の役員が転校生に構い放しで仕事をしなくなって、その空いた穴を俺が補っている現状ではとてもじゃないが親衛隊の管理まで手が回らなくて。


隊長だからってそこまで凌汰が引き受けなくてもいいのに、自分を情けなく思いながら親衛隊の管理を頼んだあの日、「頼ってくれてうれしい」とたった一言だけ言った。

以降は温厚派と呼ばれる俺の親衛隊は事実上、凌汰が纏め上げてくれている。


何度感謝を伝えても、この溢れんばかりの想いは伝わらないだろう。



「珍しい。あの結ちゃんが素直に礼言うなんて」


前言撤回、伝わらなくて良し。


目の前のあほやろーは雨でも降るんじゃないかと心配そうに顎を手で支えていた。



「っこのアホ凌ーー」


ふわり。
踵を持ち上げた凌汰が、俺の頬へと優しく手を添えた。



あまりに自然なその動作に言葉を呑む。



「……隈、また酷くなってる」


「っ、こ、れは…」



笑った顔でも真剣な顔付きでもなく、時たま浮かべる辛そうに歪んだ顔。


そんな顔、凌汰にして欲しくないのに。



「言ったよね。これ以上結ちゃんの体が弱っていくなら、理事長にでも言って役員に処分を…」

「っやめろ……ッ!」


思わずでかい声が出て自分でも驚く。


凌汰は一瞬くしゃりと顔を歪ませた。
だがまたすぐにいつもの笑顔を浮かべる。


その痛々しい笑顔に、自業自得だというのに胸が締め付けられた。


「………そっか、」


手を離し、ゆっくりと離れていった凌汰の顔はひどく寂しそうで。
なぜか特待生の顔がチラついた。


「でもご飯と睡眠は最低限とんなくちゃダメだからね!」

「母親かお前は。…明日の昼は、久しぶりに食堂へ行こうと思ってる……」


だから、


「……ふふ。うん、ご一緒させて頂きます。会長」


俺の言い出せなかった言葉をスマイル付きで先に言われてしまい、恥ずかしさでそっぽを向いた。
後ろではまだクスクス笑っている。


「また明日ね!結ちゃん」

「……ああ」




去っていく凌汰の背中を視線に捉えて、なぜか無性に焦燥感に煽られた。



————これが、凌汰に会った最後だった。