最高潮に盛り上がっていた会場から一転、生徒会室はシン…と静まり返っていた。

片足を踏み入れたと同時に訪れた海の底のような深い静寂に、脳内に纏わりついていた雑音がピタリと止む。

張り巡っていた全身の緊張を解くように、来客用の長椅子へと身を投げた。


(あー…やっと一息つける…)


はあ…と息を吐きながら体重を椅子に預け、ゆっくりと瞼を閉じる。真っ黒に彩られた瞼の裏に映るのは、つい先ほどまでの景色だった。

生徒たちの盛大な拍手と歓声。
憎しみや恨みで象られた役員の顔。
そしてそんな自分に向けられた表情とはまるで対照的な、…転校生に浮かべたなによりも優しく慈愛に満ち溢れた笑顔。




(…昔はよく見せてくれたな)



俺の好きだった、見るだけで安心できたあの笑顔を。



――きっと二度と俺に向けられることはないのだろう。


だからどうしようもなく腹が立ってしまうのだ。俺が失ってしまった、精一杯手を伸ばしたってもう掴むことの出来ないであろうあいつらの心からの笑みを、つい最近ふらりとやってきただけの奴がこうも容易くその権利を得て。
…あいつらの笑顔を一点に注がれる転校生が許せなくて悔しくて。それ以上に羨ましかった。


つまりどうしようもなく妬いてしまったのだ、あの転校生に。



(我ながら、吐き気がするほど重いな……)


自分の中に、こんなに傲慢な思いがあったなんて知らなかった。あまりの救えなさに思わず自嘲の笑みが零れた。



はあぁ……

逃げていく幸せに後ろ髪を引かれることなく、二度目の深い溜め息を吐いたころ。
唐突に、まったく別の出来事が頭をよぎる。



(さっきの…)


興奮の色を浮かべた生徒たちでごった返していたあの場で、自然と耳に飛び込んできたその言葉。

あまりの脈絡のなさに上手く聞き取れなかったが……


(…会長はあんちだかなんだか……だったか?)



予想すらしていなかった反応に正直狼狽えた。というかそもそもこの俺に対しての感想が好意でも讃美でも、…敵対でもなんでもなくて。あろうことか意外な発見しましたとでもいうようなそいつの言葉に、気になるなって言う方が無理だ。


本当になんなんだ、訳がわからねえ…。


こんなに俺の脳内を掻き乱せられるのは、精々生徒会の奴らくらいかと思っていたが……。
一瞥、部屋の右隅へと掛けられている時計へと視線を投げかける。針が指しているのは、11と8。
誰ひとりこの場へ訪れる気配がないことから察するに、今も尚、あいつらは転校生と共に甘い時間を共有しているのだろう。それが、その軽はずみな行動こそが、親衛隊は疎か一般生徒から批判を買うというのに。


そのことに関しては不満が込み上げる。


でも、


誰もいない、微かな話し声すらしない廊下に、扉を思い切り開ける盛大な音が響き渡った。


それを合図に、弾かれたように生徒会室から飛び出していく。



(うじうじ考え込むなんてらしくねえ……っ!)



品定めするような発言をされるのは慣れている。
ただ他の奴らと一線違っただけ。
そこまで勘考しなくたって支障はないだろうし、元より深い意味合いはないのかもしれない。


(わかってる、んなことくらい)


それでも、確証なんて存在しない賭けへと出る、動き続ける足は、もう俺の意志ではコントロールできなくて。


だからもう、あーだこーだと難しいことを考えんのは止めだ。
気になるのなら自分で確かめにいけばいい。
初めて耳にした、異色すぎるその言葉に感じた何か。嫌悪とも落胆とも違う、それ以上に隠されていた意味。



確信はなかった、勘違いかもしれない。



だけど、もしかしたら、そいつならこの崩れ去ろうとしている今の学園を……















「会長様…!?ほほほ本物!?」


「きゃあ!なぜこんなところに会長様が!?」

「うわぁ…近くで見るとより男らしくてかっこいい…!」




歓迎会を終えたばかりのこの時間なら、まだ生徒たちは会場から教室のある棟まで移動している頃合だろうと踏んたが、どうやらその読みは当たったようだ。


案の定まばらな生徒の帰宅に、ほっと胸を撫で下ろす。
だがすぐに俺の姿を確認した新入生たちが黄色い歓声と共に俺を取り囲むように集まりだした。


高等部へと進級してからまだ数日という事実を忘れてしまうような熱気を帯びた支持は、恐らく俺がこの学園の生徒会長だという認識をしてくれたゆえのものなんだろう。

……それはすごい励みになるし、嬉しいとも思うが、



「……聞きたいことがある」






状況とは不釣り合いなやけに神妙がかった俺の表情と声色に、生徒たちがどよめく。



「変なことを聞くようだが、今年の新入生の中に外部から編入してきた者はいないか?」



――俺の推測はこうだった。
神宮聖に入学できるのは初等部からのみのため、中高と進級しても周りの環境と人間はそう大きく変わることはない。
そして高等部以上で選出を許される生徒会や風紀委員会は、大っぴらな選挙活動やお披露目会こそ高等部でだが、そういった役職につく面子は大抵以前から周りの生徒たちに絶大な人気を誇っている。

ーーきっと次は誰がなる。
ーーあの人になってほしい。
そんな憶測や願望は中等部ですでに囁かれているのだ。


かくいう俺も中等部から次期生徒会長最有力候補として注目を浴びていたため、その頃には俺の名前と顔は学園中に知れ渡っていた。


つまりそれがどんな意味を持つのか、答えは簡単だ。


あのとき、そいつは言った。

ここの会長はなんとかなんだと。


なんとなしに零していたその言葉には、再確認のようなニュアンスは含まれていなかった。
むしろ今ここで発見したかのような言い方をしていた。
それは俺の存在をその時…もしくは入学式の時に初めて把握したからではないか。


バラバラだった点と点が繋がり、一つの憶測が導き出される。


(おそらくあいつが理事長の言っていた、数年ぶりの特待生ってやつだな…)


思案に思案を巡らせて求めた推測は。


それこそ本当に定かではないし、所詮ただの憶測でしかないが


―――僅かな可能性でも一縷の光があるのなら、いくらだって賭けてやる…っ




見慣れた顔触れの中に新しい顔があれば、すぐに誰か特定できるかと考えていたが。生徒たちは近くの奴と顔を見合わたり小声を交わしたり。中には小首を傾げている生徒も少なくなくて。


まさかこれほど知っているやつが少ないとは。
確かに周りの人物や環境に大きな変化がないといえど、桁違いの生徒数を誇るこの学園上、認識してない同級生がいたっておかしくはない。


だがそれでも小耳に挟んだ生徒くらいはすぐに見つかると思っていた。
なんたって数年ぶりの特待生だ。
学年どころか学校中でそいつの話題が飛び交ってたっておかしくない。


それなのに、まさかこんなにも特待生の存在を認識していない奴がいるなんて思ってもみなかった。


よほど地味で目立たない奴か。それとも逆にそいつ自身が目立つのや騒がれるのが嫌なだけなのか。


まあどっちにしろ目立ちすぎてなんらかの不祥事を起こしてもらうよりかは全然いいが…


一体何者なんだ…その特待生とやらは。





「ぁ、あの…僕知ってます…っ!」



こっちから声を掛けたというのにすっかりと脱力している俺の前に、一人の生徒がおずおずと手を挙げた。


待ち望んでいたその答えに、つい期待に満ち溢れた視線を向けてしまう。


「っそいつは誰なんだ?どこでそいつの話を聞いた?今はどこにいる?」

「え…ぇえええっと!!!」

「っす、すまない……」

目に見えて困惑する生徒の姿に我に帰る。
先ほどまでの勢いを失い、しょん…となる俺に、生徒はくすりと笑い口を開いた。



話を聞けば、それは案外畏まっていたような内容ではなかった。


初聞きとでもいうような(まぁ実際そうなんだろうけど)周りの生徒たちが度々驚愕の声を漏らしていた中、律儀にすべての質問に一つずつ返してくれた男子生徒に礼を告げ輪の中をすり抜ける。
 背中越しに耳に入る生徒たちの名残惜しそうな口々も今だけは受け止める余裕なんてなくて。
 話しの中に出てきた場所へと身を翻した。






「あ、会長だ!」

「走っているお姿もなんて美しい……!滴る汗がまるで宝石のようだわっ……!!」



歓迎会からの帰路でピークを越えた廊下一杯に混雑する
新入生や同輩の奴らの人混みの隙間をうまいこと横切っていく。


まだまだ気温の低い早春とはいえ、尋常でない数の生徒たちの密度で室内の湿度は相当高くなっているのだろう。
ごった返した人の波に抗う度に、汗でワイシャツが肌に張り付く。


だが額に滲む汗すらも気にならないほど、俺の頭ん中で反芻していたのは先程の生徒の言葉だった。



――『たしか高等部に進級して、まだ日も浅かった頃かな…。僕の幼なじみに聞いたんです。俺のクラスに見たことない奴がいるって』


ほら、これだけこの学園にいればそれなりに周りは見知った顔じゃないですか。


『多分その人が編入生じゃないかって。クラスでも色々と噂になったみたいなんですけど。
ーああそういえば!幼なじみが言ってたんですけど、もう一つ皆の注目を惹いたのが、その編入生すっごい顔が良かったって……!』

美形ばかりが集結したこの学園でも格別に、それ以上に容姿が整っていて。

まだ話したことないから性格はわかんないけど、もしそいつが初等部からここにいれば間違いなく、親衛隊が出来るくらい…いや、もしかしたら生徒会にだって選出されてんじゃないかってくらいの顔と品格!!

まあとにかくっ!そいつの人を惹き付ける存在感…やばいなんてもんじゃなかった!


『――って、興奮しながら話してたんですけど…』

『けど、ならなんで?って僕は思ったんですよね…』


生徒会…、ってああいや…!!勿論会長様は除きますけど!なぜなら会長様より麗しく尚且つ男前な人間なんぞ存在しようがありませんからッ!!
っと、話しがずれましたね。会長様以外の役員の方たちと対等…いや、幼なじみいわくそれ以上かもしれない容姿と存在感を持ちながら、なぜ僕は知らなかったのか…


いいえ…僕以外の方もそうでした。拝見はおろか、そんなすごい方が編入してきたのすら知らなかったんです…。


『普通なら、学園中その方の話題で持ち切りになってもおかしくないのに…』


それも対象は、珍しすぎる特待生。



僕がきちんとこの目で見たわけではないので断言はできませんが、でもそれだけ綺麗な顔をしているのなら一目見ればああこの人か、ってなんとなくわかるんじゃないでしょうか?




ーー『あと会長様が聞きたいのは、その方のいまいる場所でしたよね…!』




やっと人集りを抜ければ、目の前に広がる一帯はすっかり人気のなくなった講堂と普通科の棟を繋ぐ渡り廊下。
つい先ほど全く同じ道筋を沿ったばかりなのに、その僅か数十分後、再度訪れる羽目になるとは…。本当に俺は何をしているんだか。


しかもガキみてぇに何も考えずただ一心不乱に行動起こすし。…つくづく最近の俺はらしくない。笑い話もいいところだ。


俺の変な探究心と期待だけでここまで事を大きくして。入学したばかりの新入生にまであんな余裕ない姿晒すし。

常に気高く学園のトップに君臨し、学園を統率していかなくてはならない立場なのに、一般生徒を騒がさせたのだ。それもあろうことか、生徒会長である俺一人の私情で。


(……生徒会の奴らにこんな姿見られでもしたら、また嘲笑と罵声の嵐だろうな)


……いや、いつもの嫌味ったらしい愚痴だけなら受け流せばいいんだけど。

そんなもの比にならないくらい、俺が最も恐れているもの。
それはもしあいつらが――…










「はあーー。歓迎会まじだるかった。っつかやることほぼ入学式と一緒じゃん。やる意味あった?」

「少なくとも俺にはあったよ。それもとびっきりのがね」

「どうせまた例のあれだろ?ったく…長い付き合いとはいえ、つくづくお前の趣味だけは理解できねぇな」



様々な蟠りで全思考を掻っ攫われていた中、不意にその唯一ともいえる思考までもが完全停止する。原因は単純だった。ふと耳に飛び込んできた話し声に釣られるように目線を合わせれば、




(―――――っ!)




―――『きっとその方ならまだ講堂を出たばかりだと思います』


人が捌けきった無人に近い渡り廊下の向こうからこちら側へ肩を並べ歩いてくる、二人組。

一人は欠伸を噛み殺しながらかったるそうに歩く、全国の男子校生のちょうど平均くらいの背丈と、整っているとも悪いとも言えない…こう言っちゃ悪いがまさに平凡な顔をした生徒。



そしてその隣を歩くのが……



「……と、くたいせい……、」


無意識に零れた声は自分のものとは信じられないほど、ひどく掠れていた。




不意に脳裏に過ぎったのはあの男子生徒の言葉。
人を惹き付ける圧倒的な存在感。一目見ればなんとなくわかるんじゃないか……


まさに、その通りだった。


すっとした切れ長の目は瞳孔の色が薄く澄んでいて、長めの睫が下を向くように微かに臥せる度に涼しげな印象を与えられる。
儚げな艶がありながら、整った眉とよく通った鼻筋は冷ややかで、クールという雰囲気にも取れた。180センチには満たないものの、確実に平均は優に越しているであろう背丈、華奢に見えながら、そうは思わせない何か風采があって。


……知らぬ間に息を呑むほど、俺はそいつに見惚れてしまっていた。
そして何よりも驚いたのは、息をするのも忘れ、たった一人の人物だけに全思考を奪われた自分にだった。


幼少の頃から俺の周りには、美しいや綺麗な分類へと振り分けられたものばかりが所狭しと埋め尽くしていた。
だがどんなに綺麗なものが目の前を煌めかせようが、美しいものが最高級の光りを放とうが、俺は一度すらそれらのものを美しいとは思えなかった。美的センスが人とズレているわけではないし、嫉妬故のひねくれた思考なわけでもなく、ただ単純に何の感想も抱かなかった。幻想的な輝きを見せられようが、ああそうなんですか、という思いしか湧けなかった。
それは冷たい無機質だろうが、温もりのある人間が対象だろうが、揺るぐことのない俺の中での定義。



だった。…はずだった。




驚愕したのは自分自身に。生まれてこの方、刹那すら綺麗という感情が見出せなかった俺が。
今、確かにたった今初めて目にしたそいつを…





(瞬きすんのも惜しいと思うほど…見惚れていた?)




気づいた瞬間、つーと背中に冷汗が流れた。
今にでも蹲りたい衝動に駆り立てられ頭が鈍痛を訴えてくる。



(…いや、違う、落ち着け…っ、)


これは一種の錯覚かもしれない。度重なった睡眠不足と疲労が引き金となった気の迷いという可能性もある。

確かに特待生(と思われる)は一流に整った容姿をしていて、醸し出す雰囲気は到底凡人には出せないような魅了される何かがある。

だがそれだけで、そんな身なりだけの理由で、俺が身を焦がすなんて、んなのあるわけ…ーー