「お前たち、今日はふたりで稼働しろ」

青天の霹靂だった。

突如として降ってきた部長のひと言は、あまりにも簡単に俺を地獄の底へ突き落とした。

(っう、嘘だろ〜〜〜〜〜ッ!?)

──さかのぼること、数分前。

「え、先輩二社だけですか?」

「の、覗き込むなよ……っ!」

出社してすぐのこと。
今日の訪問計画表を立てていた俺の隣で、生意気な後輩・藤沢が悪態交じりに話しかけてきた。
“一社にどんだけ時間かける気だこの人”とでも言いたげなその呆れ顔にむっとしながらも、俺は反撃とばかりに藤沢の計画表を覗き返す。

……そして、絶句した。

「お前はどんだけ廻るつもりだよ……」

計画表は文字でびっしりと埋め尽くされていた。
ここでも俺と藤沢の差は歴然だ。

がっくり肩を落とす俺に、藤沢は「普通に回ればこんなもんっすよ」となんでもなさそうな顔で言い放った。

(バケモンか、こいつ……)

俺だって、それなりに詰めたつもりだったのに。
これじゃ差が縮まるどころか、さらに広がっていくばかりだよ……。

そう落ち込んだそのとき、フロアに響いたのは部長の声だった。

「江島、藤沢!」

びくりと椅子ごと肩を跳ねさせた俺とは対照的に、藤沢は「なんすかね」と余裕のある顔つきで立ち上がる。

ふたり並んで部長のもとへ向かうと、周囲の社員たちがざわめいた。

「えーどうしたんだろ」

(そんなの、俺が聞きたい……!)

何かやらかしたっけ!?
先月ノルマ未達だったこと?
でもそれなら藤沢と一緒に呼ばれるはずがない。
じゃあなんで……!?

まるで罪状を言い渡される囚人の気分だった。
横に立つ藤沢は、やっぱり堂々と背筋を伸ばしている。
俺より三つも下のくせに、ほんとムカつくくらい余裕だ。

そんな俺たちを見た部長は「コホン」と軽く咳払いをしてから、静かに口を開いた——

そして、冒頭に戻る。

……って、いやいやいやいや!!

(俺が藤沢に同行?こいつのほうが圧倒的に成績いいんだけど!?)

“同行”──営業用語で、誰かの営業に付き添い、動きやトークを観察・共有するもの。
育成の意味合いが強く、たいていは先輩が後輩につくことが多い。

けれど今の俺らふたりの成績差は一目瞭然。
壁に貼られた営業成績表を見れば明らかすぎるほど明らかだ。
藤沢はもうノルマ間近、俺はやっと一社分クリアしたところ。

この状況で俺がつく側……?

(どうして……なんで俺……?)

「——江島さんが、ボクにですか?」

「!」

(ナイス……藤沢!!)

言葉を失っていた俺の代わりに、藤沢が困ったような声を上げる。
「先輩に時間を取らせるのは…」と、遠慮する体でうまく断ろうとするその姿に心の中でガッツポーズをする。

……だが、部長は首を横に振った。

「逆だよ、逆」

「……は?逆……?」

その瞬間だった。
藤沢の顔に張り付いていた余裕の笑みが、ピキリと音を立てて凍りつく。

「キミが、江島くんに同行するんだ」

「………………」

「頼んだよ、藤沢くん」

そのひと言だけを残し、部長はさっさと仕事へ戻ってしまった。
これ以上の説明や抗議は受け付けないとでもいうように。

ぽかんと口を開ける俺と、珍しく固まった藤沢。
世界がじわじわと歪んでいくような感覚に、思わず目を瞬かせる。

(あ、終わった……)

──こうして俺の静かで平穏な一日は、確実に音を立てて崩れ始めた。



***


「うう、嫌だぁ……」

誰にも聞かれないように押し殺したその声は、情けなくも本音だった。

──午後イチで出ますんで。

面倒くさそうな声とともに、藤沢は女子社員たちからの昼飯の誘いを軽やかにかわし足早にオフィスを後にした。

(……まあ、そりゃ気まずいよな。先輩の同行とか、絶対やりづらいだろうし。
でもこっちだって情けなくて死にたくなるよ……)

ため息と一緒に、弁当のフタをぱかりと開ける。

激務の営業マンはそのほとんどが外食派だ。
そんな中、俺が毎日弁当を作ってくる理由はひとつ。

節約だ。

営業成績がよろしくない俺は給料もよろしくないわけで。
入社してこのかた、マージンなんてもの超えたことない。もはやあれはツチノコ的存在なんじゃないかと思ってる。

……まあ、そんな生活にもだいぶ慣れてはいるけど。

自炊は嫌いじゃないし、節約にもなる。
何より好きなおかず詰められるし……

そんなことをぼんやり考えながら、箸で卵焼きを切り分けたそのとき——

「お、相変わらずうまそう」

頭上からふわりと落ちてきた声に、顔を上げる。

垂れ目に七三分けの黒髪、どこか人たらしな雰囲気をまとった優男。
目尻をさらに下げて笑うその顔は——

「三浦……!」

「おつかれさま、江島」

ふいに現れた同期の顔に、一瞬で張り詰めていた空気が緩むのを感じた。

「ひとくち食べる?」

「んー、魅力的な誘いだけどやめとく。すぐ出なきゃだし」

「帰ってきたばっかだろ?」

「まあね。でも、向こうからのアポだしさ…頑張んなきゃ」

そう言って、ひらりと手を振る三浦。
その柔らかさはいつも通りだった。

「…そっか」

「それに、今月こそ負けたくないんだ」

少しだけ笑ってから、営業成績表に視線を落とす。こいつが“誰に”負けたくないのか——聞かなくたってわかる。

三浦は、同期の中でも頭ひとつ抜けた存在だった。
入社からわずか数ヶ月で社内トップに並び、俺たちの希望だった。

——藤沢が入ってくるまでは。

気づいたら、俺は立ち上がっていた。

「三浦!」

「ん?」

その手をがしっと握る。
少し驚いたように三浦の眉がぴくりと動いた。

「俺は! あんなやつよりおまえ派だから!!」

「—————っ」

目が見開かれる。

三浦よ。
同期として近くで見てきた俺が胸を張って断言しよう。
お前はよくできた人間だ。

人としても、営業マンとしても。俺は本気でお前を尊敬してる。

だからこそ、言えないぶんだけ——
握ったこの手に全力を込める。

頼む、伝われ……!

一瞬だけ戸惑った三浦が、ふいに笑った。
ふわりと口元が緩んで、目元がわずかに揺れる。

(……あ、伝わった)

ほんの少しだけ誇らしい気持ちをかみしめた、そのときだった。

「誰より三浦さん派ですか?」

悪魔のささやきが真後ろから降ってきた。

ぎぎぎ……

まるで壊れかけのロボットのように首を動かす。

そこには昼食から戻った藤沢が腕を組みながら立っていた。


「お、藤沢もおつかれ」

「お疲れさまです、三浦さん。——で、何の話してたんですか、江島さん?」

(! ご、ごまかされない……!!)

三浦に向いた視線があっさり俺に戻ってくる。
ああこれはもう誤魔化しが効かないやつだ。

というか仮に誤魔化せたとしても、そんな咄嗟にうまいこと言える器用さ俺にあるわけなくて。
あったのなら今ごろ営業成績なんかもっとマシなはずで……
……う、なんだか言ってて悲しくなってきた。

けど、正直に“おまえはちょっと気に食わないし、三浦のほうが優しくていいやつだから推します”なんて言ったら、俺とこいつの関係は爆散待ったなしだ。

(な、なんて言えば……!)

焦る俺の隣で、三浦がふっと笑った。

「なんでもないよ。ただ俺が、同期の中で一番になりたいって話を江島にしたら応援してくれただけ」

「……その暑苦しい握手は?」

「ん?ただのエール」

「………」

にこやかに言い切る三浦の隣で、ほんとかこいつ?と言いたげな視線を藤沢がよこしてくる。

俺は慌てて、ぶんぶんぶんぶん!! と首を振った。

「……そうですか」

なんとも取ってつけたような返事をする藤沢だったが、それでも俺は心の中で全力で手を合わせた。

(ありがとう、三浦……! さすがは俺たち同期のホープだ……!!)



三浦が再び営業に出ていくと、俺は思わず身構えた。

(……来るよな)

藤沢は昼前、「午後イチで出ますんで」と言っていた。

慇懃無礼なこの後輩のことだ。
まだ半分残ってる弁当なんて目もくれず「じゃ、行きましょうか」なんて促してくる可能性は充分ある。

だから俺は——

(今言われたらかっ込んで出るしかない……)

腹をくくっていた。
……が。

藤沢は何事もなかったかのように席へ戻ると、カタカタとキーボードを叩き始めた。

その姿に、思わず拍子抜けする。

(なんだ……まだ仕事あるんだ…)

身構えて損した。
だったらのんびり食ってやろーと、俺はいつも通りのペースで食事を再開させた。


最後のひと口を飲み込んだ俺を、ちらりと横目で見た藤沢はすぐにパソコンを閉じて、鞄を手に立ち上がった。

「行きましょう」

「お、おう!」

慌てて弁当箱をしまいながら、(ナイスタイミング……!)と内心ホッとする。

藤沢の仕事が終わった瞬間に、俺の食事もぴたりと終わった。
偶然にしては上出来すぎて、ちょっとだけ得した気分だった。

「外回り行ってきます!」と部長に声をかけ、ふたりでオフィスを出る。

後ろから「藤沢さん……」と名残惜しげな女性社員の声。
けれど藤沢はそんな視線も気にするそぶりすら見せず、颯爽と歩いていく。

エレベーターを待つ間、少しの沈黙。
なんとなく気まずくて、俺は手持ち無沙汰に問いかけた。

「そういや、出る間際なんの仕事してたんだ?」

「……A社の立案っす」

「そっか」

何気なく頷いて——
ふと、違和感に気づく。

(……A社との商談って、今月末じゃなかったか?)

立案書をまとめるには少し早すぎる気がする。

そして、もう一つ気づいた。

——到着したエレベーター。

藤沢がボタンを押す横を通り過ぎるとき、ちらりと目に入った耳元。

「ッ!」

その瞬間、電流のように走った予感。


「ども」

小さく呟いて、エレベーターに乗る藤沢。

普段通り、むかつくくらい涼しい顔でそこに立っている。

(いやいや、そんなわけ——)

俺の胸に過ったひとつの憶測。

さすがにバカバカしいと思い直して、目の前の男を盗み見る。

藤沢は俺の視線に気づいたのか、ほんの少し首を傾げた。
……その仕草すら妙にサマになっていて、腹立たしくなる。

俺は小さくため息をついたあと、さっきの考えを静かに心の奥へ押し込んだ。

(ありえない。……まさかこいつが——俺が食べ終わるのを待ってたなんて)