けれど、それはなかなかに難しいことだった。俺にとって彼女は世界のすべてで、彼女なしでは世界がモノクロで霞んで見えた。数ヶ月前まではそれが日常だったのに、もうなにもかもが終わってしまったような感覚だった。

 心が折れかけて、何度か神楽に会いに行こうと彼女の所属する五組の教室の前まで足を運んだが、思いとどまった。今更どの面下げて、と彼女は思うだろうし、俺も思う。だからいつもギリギリのところで自分を抑えていた。

 彼女を忘れるにはなにかに没頭するしかないと思い、俺は勉強に励むことにした。父親から押し付けられ嫌々やっていたとはいえそのおかげで学内で成績はまあまあ良かったから、これしかないと思った。


 その日も放課後に教室でひとり勉強をしていて、部活をしている生徒たちが帰る頃になって、帰宅の準備を始めた。教室を出ようと席を立ち、廊下に出ようとしたとき、部活帰りと思われる女子二人組が廊下で話す声が聞こえた。

「福、さっき教室で泣いてた。なんて声かけていいかわからなかったよ……」
「仕方ないよ……今はそっとしておいてあげよう」

 ……どういうことだ? 泣いていた? 神楽が? なぜ? 彼女はよく笑う、強い女性だと思っていた。その神楽が、泣いていた? なにがあったんだ? どうして……。

 そう彼女たちに問い詰めたかったが、俺の意志が弱くできなかった。まだ教室にいるかもしれないと思って急いで行ってみたが、もう誰もいなかった。

 明日、会いに行ってみよう。

 そう決めたが、その「明日」は十二年間先延ばしになることを、そのときの俺は知らなかった。