そして、約束の翌日。記憶喪失のため学園を休んでいる私は、放課後にお見舞いにきたジークフリートとソファに並んで座っていた。
 琥珀色の髪が夕陽に輝き、焦茶色のつり目が私をじっと見つめている。私はドレスの裾をぎゅっと握り、ソファの端に身を寄せた。

「本当に記憶がないんだな」

 ジークフリートの低く落ち着いた声が、応接室に響く。私は目を丸くする。
 
(えっ、どういうこと……?)

「シャルは、二人きりになると俺の肩にもたれて恋人つなぎをねだってきたんだ」
「えっ!?」

(いやいや、そんなこと一度もしたことないです!)

 ジークフリートの予想外な言葉に動揺していると、懐から折り畳まれた紙を取り出し、テーブルの上に置く。
 
「大丈夫だ、シャル。俺が練習メニューを考えてきた」
「ひっ! な、なにこれ!?」

 私は恐る恐る紙を手に取り、広げて悲鳴を上げた。そこには、びっしりと整った文字で書かれたリスト。握手、恋人つなぎ、肩に寄りかかる、膝の上に座る、腕を組む、抱きしめる、頬にキス──! リストはまだ続くけど、読み進める勇気がなくて紙をパタンと閉じた。
 
(何!? この恐ろしいメニュー!? キツネの罠!? 最後なんてキスって書いてあったけど、絶対無理!)
 
 私は息を呑み、紙をテーブルに叩きつけるように置く。心臓がバクバクうるさい。
 
「シャル、怖がらなくていい。全部やっていたことだ」

(そ、そんなわけない……! キツネとキスしてたなんて、ありえない! た、たすけて!)
 
「今日は一番簡単な握手をやってみよう。俺と手を繋ぐのが好きだったシャルなら絶対できるよ」
「そ、そんなこと……!」
 
 私は反論しようとするけど、ジークフリートはすでに右手をテーブルの上に差し出している。彼の手は、思っていたよりも大きくて、私の小さな手と全然違うのに驚いた。

「顔を見ると緊張するなら俺が目を閉じるから、触ってみて」
「触る!? 殿下の手を!?」
「ジークだよ」
「え?」
「二人の時は、ジークとシャルと愛称で呼んでいたんだ。呼び方を戻せば記憶が戻りやすくなるかも……シャル、呼んでみて?」

(嘘つき! そんなこと一度だってないのに!)
 
 文句のひとつでも言いたいけど、こちらも嘘つきなので言い返すこともできない。

「ジ、ジーク……?」
「ああ! シャル、かわいい。今すぐ抱きしめたい」
「ひゃ! そ、それは困ります!」
「かわいいシャル、早く思い出せるように頑張ろうな」

 私が目を白黒させている内に、ジークフリートは目を閉じ、静かに待っている。確かに、キツネの鋭い視線がない分、ちょっとだけ安心……かも? いや、安心じゃない!

(うう、これ、やらないと終わらないよね?)

「わ、わかりました……やってみます……」
 
 深呼吸して、覚悟を決めた。ジークフリートの手がテーブルの上で待っている。震える手をそーっと伸ばすと指先が近づく。ジークフリートの指がピクッと震え、思わず引っ込める。
 
「ゆっくりでいいよ、シャル。怖くない」
 
 ジークフリートの穏やかな声に促され、もう一度そろりと指を伸ばす。ちょん、と指先がジークフリートの手に触れた。心臓がバクバクするけど、なんとか指を動かさず触れている。できた、できたよ!
 
「上手だね。今日は握手ができるまで練習しようか」
「う、……はい」
 
 恐る恐る指を動かす。手のひらや指の関節まで、そっと触れる。勇気を振り絞ってジークフリートの手をぎゅっと握った。彼の体温がじんわり伝わってくる。
 
「できた!」
 
 思わず叫ぶ。握手ができた達成感に胸が膨らむ。思わずジークフリートを見上げると、まっすぐに見つめられていた。心臓がバクバクして怖さがこみ上げるけど、なぜか目を逸らせない。
 
「大好きだよ、シャル」

 あまりに優しい囁きに驚いていたら、ジークフリートは細い目をさらに細め、私の手の甲に口づけを落とす。柔らかな感触と処理しきれない状況に、頭が真っ白になり、私はそのまま気を失った──。
 

 ❉ ❉ ❉


(やっぱりキツネなんて信用できない! 二度と練習なんてしない!)

 目覚めたベッドで深く反省したのに、気づいたらジークフリートにラポーム家の庭へと誘い出されていた。
 
 庭はぽかぽかな陽射しで心地よく、色とりどりの花が咲き乱れ、柔らかな風が頬を撫でる。メイドたちが準備したピクニックの場所には、大きなパラソルの下に白いテーブルクロスが敷かれ、サンドイッチ、紅茶のポットが並ぶ。

「シャルが好きなキャロットケーキを持ってきたよ」

(あ、あれは! 王家のキャロットケーキ……!)

 中央には、ジークフリートが持参した王家のシェフが作ったキャロットケーキ。絶品のそのケーキは、今までジークフリートに会う理由の半分を占めていたと言っても過言ではない。

「好物を食べたら記憶を思い出すかもしれない。さあ、座って」
 
 キャロットケーキからジークフリートに視線を移した瞬間、逃げ出したくなった。
 
(ジークフリートは嫌だけど、キャロットケーキは食べたい……! キャロットケーキを食べたら、すぐに部屋に戻るんだから……!)

 ジークフリートがシートを指差し、私はしぶしぶ腰を下ろす。目の前には美味しそうなキャロットケーキ。思わずゴクリと唾を吞むけど、隣に座るジークフリートが気になって、ケーキどころじゃない。
 
「はあ……やっぱり部屋に戻りたい……」
「シャル、この前はごめん! 勝手に触ったりしない。もう二度としないから」
「……次はないです」
「ありがとう、シャル!」

 嬉しそうに目を細めるジークフリートを見て、曖昧に微笑み返す。彼がケーキを食べさせようとしたのを無視して、自分でフォークを刺し、王家のキャロットケーキを口に運ぶ。
 ふわっとした生地と濃厚なクリームが口いっぱいに広がり、目を閉じて至福のひとときを味わう。やっぱりこのケーキは最高! でも、幸せな気分も束の間、ジークフリートが爆弾を投下してきた。

「じゃあ、今日の練習をしようか」
「え?」

(練習!? またあの恐ろしいリストの続きなんて、絶対嫌!)
 
 ジークフリートはパラソルの下でゆったりと座り、琥珀色の髪が風に揺れる。焦茶色のつり目が私をじっと見つめられると、身体がぷるぷる震えだす。

「今日は俺の肩にもたれてみような」
「ひゃ……っ!」
「シャルが肩にもたれると、俺の顔は見えないと思うんだ。どうだろう?」
「ど、どうだろう……?」

(見える見えないの問題じゃない! キツネの肩にもたれるなんて、ウサギがキツネの巣に飛び込むみたいなのに!)
 
 ジークフリートが自身の肩を軽く叩く。心臓がバクバク嫌な音を立てていく。
 
「い、いや、でも……! 肩にもたれるなんて、無理です!」
「怖かったらすぐ離れていいから。俺のことが愛おしくて仕方ないシャルに戻ってほしいんだ」
 
(うう……だから、誰なのよ、その人は! もう、ケーキの誘惑に負けた私がバカだった…!)

 でも、逃げてもまた明日来そうな気がする……。
 
「……ほ、本当に少しだけ触れるだけですよ!」
「ああ! シャル、ありがとう」

 私は恐る恐る彼の隣に近づき、目をギュッとつむって肩にそっと頭を寄せる。確かに、ジークフリートの顔が見えない分、心臓のバクバクがほんの少し収まる……気がする。彼の肩は思ったより固くて、温かい。

(頭が安定するから? ちょっと安心するような……いや、そんなわけない!)
 
「シャル、かわいい」
 
 ジークフリートの低音の声は耳に柔らかく響き、私は驚きで固まった。カチンと身じろぎできないでいると、彼の甘くていい香りが鼻をかすめる。動かない私にジークフリートが口をひらく。

「週末になにか予定はあるだろうか」
「な、何もないですけど……」
「よかった。シャルが好きな『ラパン・ドール』という店を見に行かないか?」
「えっ」
「ぬいぐるみ専門店なんだ。シャルがよく通っていた店に行けば記憶が戻るかもしれない」

『ラパン・ドール』は王都にあるぬいぐるみ専門店。私は前世がウサギだった影響なのか、ふわふわ、もふもふしたぬいぐるみが大好きで、部屋の中にお気に入りの子を飾っている。
 
(どうして私がラパン・ドールのぬいぐるみを集めていることを知ってるの?)
 
「いつも俺とラパン・ドールに行くときは、手を繋いでデートをしていた。週末は、恋人つなぎの練習をしよう」
「ええ!?」
「──シャル、今日はこのまま俺の膝の上に座るのも練習しようか?」
「ひゃああ! だ、ダメです! もう今日の練習はおしまいです!」
 
 その瞬間、身体が勝手に動いた。シートから飛び上がり、ドレスの裾を翻して脱兎のごとく一目散に屋敷へ駆け戻る。
 
「シャル、週末に迎えにくるから──」
 
 背後でジークフリートの声が響いた。


 ❉ ❉ ❉

 
 庭でのピクニックから数日後、我が家へ迎えに来てくれたジークフリートと馬車に揺られている。
 
 事故以来の馬車に少し不安があったけど、問題なく乗れて安心した。むしろ、彼と二人きりという状況のほうが、心臓にずっと大きな負担をかけている。

(早くラパン・ドールに着いてほしい……!)

 私の思いを知らないジークフリートが口を開いた。

「シャル、初めて会った日のことも覚えてない?」
「え……初めて? そうですね、記憶がないから……ごめんなさい……」

  記憶喪失のふりを貫くため、わざと目を伏せる。
 
「七歳のシャルと初めて出会った時、シャルが母上のスカートに隠れていて。その愛らしい様子が可愛くて目が離せなかった。俺は一目惚れだったんだよ」

(えっ、一目惚れ……? ジークが私に? あんなに冷たい言葉を言ったのに!? う、嘘に決まってる……!)

「そ、そんなこと急に言われても……! わ、私、覚えてないですから!」

 突然の告白に、顔がかあ、と熱くなる。赤い顔を見られたくなくて慌てて窓の外を見た。

 馬車が到着し、二人で降りる。王都の石畳の通りは週末の喧騒で賑わっていた。色とりどりの看板が目に飛び込み、活気ある雰囲気に心が躍る。でも、ジークフリートが私の隣に立つと、また緊張が戻ってきた。ちらりと窺うと、焦茶色のつり目が私を見つめてい心臓がぴょんと跳ねる。

(やっぱりキツネだ……! 流されちゃダメなんだから!)

「シャル、はぐれないように」
 
 ジークフリートが右手を差し出す。恋人つなぎ──指を絡めるなんて考えただけで、身体がぷるぷる震える。
 
「い、いや、はぐれないように気をつけますから! 手は……その……繋がなくてもいいんじゃない、かな……?」

(恋人つなぎなんて絶対に絶対に無理……!)
 
「シャルとデートするときは、いつも恋人繋ぎをしていたんだよ」
「そ、そうかもしれないですけど……」
「ねえシャル、今日はラパン・ドールの新作ぬいぐるみが発売されるから早く行かないと売り切れてしまうよ」
「ええっ!? 新作のぬいぐるみ!?」

 ジークフリートはくすくす笑う。それから大きな手を差し出した。

「記憶がないから、お店がどこにあるかわからないだろう? 案内するよ」
「そ、そうですね……」

(うう、これはラパン・ドールの新作のためなんだから!)

 私は覚悟を決め、ジークフリートの手をそっと握る。指が絡まる恋人つなぎの感触に、鼓動がバクバク跳ね上がっていく。彼の手は温かくて、思ったよりずっと優しく握り返してくる。まるで私が逃げないように、でも怖がらせないように気遣っているみたい。

 王都の通りを進み、店に足を踏み入れると、ふわふわのぬいぐるみが並ぶ夢のような空間が広がっていて──すぐに目を奪われる。
 
 
「え……!? な、なにこれ!?」

 店の中央に、垂れ耳ウサギをテーマにした特設コーナーができていた。ふわふわのウサギのぬいぐるみ、ウサギのイラストが描かれたハンカチ、ウサギ柄のマグカップ──。

 今度は恐怖ではなく興奮でぴょんぴょん跳ねたくなった。特に、ベージュの毛並みでぺたんと垂れた耳、くりくりした桃色の瞳のウサギのぬいぐるみ……!
 
(これ……! 前世の私そっくり!)
 
「シャル、どうした?」

 ジークフリートが不思議そうに私を見る。私は思わず手をぎゅっと握りしめてしまう。
 
「ジ、ジーク! このウサギ……! こんな風に耳が垂れてて、色もこんな色の子だったんです! 前世の私にそっくり!」
 
 興奮のあまり、つい口走ってしまった。ジークフリートの細い目が丸く見開かれ、私はハッとして口を押さえる。
 
(前世の話、こんな風に話すつもりじゃなかったのに……)
 
「シャルは今も可愛いけど、前世もこんなに可愛いウサギだったのか」
「っ!」

(いきなり可愛いを連呼しないで! どうしたらいいのかわからないから!)
 
 顔がほてるのを見られたくなくて横を向くと、ジークフリートが別のぬいぐるみを垂れ耳ウサギのぬいぐるみにちょん、と当てた。

「俺もさ、こいつみたいにウサギ(シャル)と仲良くしたいんだけどな」
「ひゃ! キツネ……っ!」

 メガネをかけたデフォルメされたキツネのぬいぐるみだった。ポップには『ウサギのお友だち』と書いてある。
 
(なんて設定なの!? ウサギはキツネとは仲良くしません……!)

「シャル、このキツネも怖い?」 
「それはもちろん! 怖…………くないかも……?」
 
 小さな丸メガネをかけ、ふわっとした尻尾のぬいぐるみは、前世のあの鋭い牙のキツネとは全然違う。むしろ、ちょっと可愛いかも……? 私の前世はウサギだけど、今世は人間として生きてきたので、デフォルメされた可愛さが分かってしまった。

「シャル、このキツネはウサギに嫌なことをしない。優しくてウサギが大好きなキツネだよ」
「そう、なの……?」
「そう。俺もこのキツネと同じで、シャルが大好きで、嫌なことはしない」
 
 キツネのぬいぐるみをウサギのぬいぐるみの隣に並べて真剣に話すジークフリートに目をぱちぱちさせる。ぬいぐるみとジークフリートを見比べる。確かに、琥珀色の毛並みと焦茶色の瞳は似ているけど……。

「でも、ジークは眼鏡してない……」
「……確かに。シャル、もう少し付き合ってくれるかな」
「え?」

 ジークフリートに連れられ、向かった先は王都の裏通りにあるエルフが営む眼鏡屋だった。ガラスケースには色とりどりのフレームが並び、眼鏡妖精が賑やかに迎えてくれる。ジークフリートはケースを眺め、妖精が選んできたフレームを真剣に選んでいる。
 
「シャル、この眼鏡はどうだ?」

 彼が妖精に勧められたメガネをかけ、こちらを振り返る。琥珀色の髪に映えるメガネは、鋭い焦茶色のつり目を柔らかく見せる。

(あれ? いつもよりキツネっぽさが減ってる? じっと見ても怖くない、かも?)
 
 見つめた先のジークフリートがメガネ越しに目をうんと細めて笑う。
 
「シャルがじっと見てくれるなら、成功だな」
「うっ、その意地悪そうな笑い方、キツネっぽいです!」

 顔に熱が集まり、慌てて視線を逸らす。

(メガネ姿、ちょっと格好いいかもなんて思ってないから!)

 ジークフリートはご機嫌な様子でメガネを購入し、店を出る。帰り際、彼が紙袋を差し出してきた。
 
「シャル、……これ」
「なんですか?」
「開けてみて」

 中にはラパン・ドールで見た手のひらサイズのメガネをかけたキツネのぬいぐるみ。一番小さなぬいぐるみだったと思う。

「え……?」

(どうしてキツネのぬいぐるみ……?)
 
「俺に似てるって言ってたから、シャルの近くにいるのを許してほしい」
 
 メガネ越しのジークフリートに見つめられる。

「ウサギは俺が大事にする! シャルに会えない日は、ウサギを撫でて我慢するから」
「え、ええ!?」
 
(私の前世そっくりのウサギを…!? ジークフリートが部屋で撫でるの……?)
 
 想像したら、ちょっとだけおかしくて笑ってしまった。
 
「ジーク、ぬいぐるみをありがとうございます……」
「次はもっと慣れる練習をしような、シャル」

 ジークフリートの声は優しく、どこか意地悪く響く。キツネの策略かもしれないけど、メガネキツネのぬいぐるみを抱きながら、こくんと頷いた──。

 
 ❉ ❉ ❉

 
 メガネをかけたジークフリートとの『慣れる練習』は、少しずつ、でも確実に進んでいた。
 握手から始まり、恋人つなぎ、肩にもたれる練習──毎回、心臓がバクバクして逃げ出したくなるのに、ジークフリートの優しい声やメガネ越しの柔らかな視線に、なぜか少しずつ安心を感じ始めていた。キツネのような鋭い顔が、以前ほど怖くなくなっている自分に戸惑う。
 
(同じドキドキなのに、なんか違う感じがする……なんで?)
 
 ラパン・ドールのデート以降、ジークフリートはメガネを愛用し、その姿は手のひらサイズのキツネのぬいぐるみそっくりだ。琥珀色の髪に映えるメガネは、彼の焦茶色のつり目を柔らかく見せていて、前世の恐怖が和らいでいる。でも、時折見せる意地悪な笑顔や、揶揄うときは、やっぱりキツネみたいで逃げ出したくなってしまう。
 
(もう! このドキドキ、絶対おかしい! ウサギはキツネにドキドキしちゃダメなのに!)
 

 
 今日もジークフリートがラポーム家の応接室にやってきた。いつものようにキャロットケーキを持参し、ソファに座る。
 
 いつもならすぐに「練習をしよう」と切り出すジークフリートなのに、今日はどこか心ここにあらずといった様子。テーブルの上のティーカップとキャロットケーキは手つかずのまま、応接室に長い沈黙が流れる。私は居心地の悪さに耐えきれず、つい口を開いた。

「…………あの、今日は練習しないんですか?」
「する!」

 ジークフリートの返事が食い気味で、びっくりして目を丸くする。彼はメガネの奥の細い目をさらに細め、嬉しそうに笑う。その仕草がキツネっぽくて心臓がぴょこんと跳ねた。

「シャルから誘ってくれて嬉しい」
「ち、違います! 練習が終わらないとジークが帰らないからです!」
「それでも、嬉しいんだ」

(うっ、そんな幸せそうな顔されると困る……!)

 顔が熱くなり、慌てて顔を逸らす。ジークフリートの声が柔らかく響き、なぜか胸がきゅっと締め付けられる。ジークフリートの笑顔が嬉しいと思うなんて、本当にどうかしているのかもしれない。

「……今日は何をするんですか?」

 話を変えようと口をひらく。
 
「今日は、シャルの髪を撫でたい」
「ひゃ! 髪を撫でる!?」
「二人きりのときは、いつもしていたからな。昔からシャルは髪を撫でられるのが好きだった」
 
(もう! そのシャルは、どのシャルなの!? 昔も今も髪を撫でられたことなんて、一度もないのに!)
 
 鼓動がバクバク加速する。今までは私からの行為だったのに、ジークフリートからされるのは初めてで、やっぱり怖い。

「……駄目だろうか?」
「だめでは、ないですけど……」
「ありがとう」
 
 なぜか断れなくて。何度も練習しているジークフリートの肩にもたれかかる。彼の甘くていい香りに心がそわそわしてしまう。

「今から撫でて、いいだろうか?」
「は、はい……」
 
 ふわりと頭に手の感触が落ちる。身体がビクッと反応する。でも、ジークフリートは、私が落ち着くまで動かないで待っていてくれていた。私の力が抜けたのを見て、ゆっくり手が動き出す。
 優しく、まるで壊れ物を扱うように髪を撫でる感触に、心がふわふわしてくる。

(な、なにこれ!? 怖いはずなのに、なんか……変! 胸がきゅうってして、ドキドキする……!)
 
「シャルの髪、柔らかくてウサギの毛みたいだ」
「今はウサギじゃないです……!」

 ジークフリートの言葉に顔を上げると、メガネ越しの瞳がいたずらっぽく細まっている。意地悪な彼に、私は肩から飛びのいた。
 
「も、もう! 今日の練習は終わりです!」
「怒るシャルもかわいいな。……でも、ごめん。今日はもうひとつ大事な話があるんだ」

 ジークフリートが胸ポケットから豪華な封筒を取り出す。封蝋には見慣れた王家の紋章が押され、嫌な予感が胸をよぎる。
 
「シャル、これをレオナード兄上から預かってきた。王太子殿下の誕生日を祝うパーティーの招待状だ」
「え……!?」
 
(レオナード殿下の誕生日パーティー!? この国の王太子の大事な場に、記憶喪失のふりしてる私が参加するの……!?)
 
「シャルは記憶喪失だからと断ろうとしたんだが、兄上がどうしてもって。断りきれなくて、すまない」

 ジークフリートが珍しく申し訳なさそうにメガネを直す。その仕草に、なぜか胸がきゅっと締め付けられる。レオナード殿下はこの国の王太子だ。当然、断れるものではない。
 
「で、でも、ジーク! 私、全部忘れているのに……もしパーティーで失礼なことしたら……」

 必死で訴えると、ジークフリートのメガネの奥の瞳が優しく細まる。
 
「大丈夫だ、シャル。兄上は事情を知っているし、俺がそばにいるようにするから」

 反対したところで王太子の招待を断るなんて、ラポーム家に許されるはずがない。仕方なく、こくんと頷いた。
 
「……わかりました。一緒に行きます……」
「ありがとう! シャル、これからダンスの練習もしなくちゃな」
「えっ!?」

 ジークフリートが満足げに笑ったのを見て、やっぱりキツネは信用できないと思った。
 

 ❉ ❉ ❉
 

 王太子レオナード殿下の誕生日パーティーに備え、ジークフリートとダンスの練習を重ねる。最初は近すぎる距離に心臓が悲鳴を上げ、足がもつれた。

「シャル、俺にもっと体重を預けていいよ」

 メガネ越しの視線が私を優しく導くたび、怖さの中に不思議な安心が混じる。ぎこちないステップが、少しずつ滑らかになっていく。
 
(二人で踊るダンスが楽しいなんて……!? 気のせいに決まってる!)

「ジーク……やっぱりパーティーに私が行って大丈夫かな……?」
 
 ダンスは上達してきたが、記憶喪失のふりをしてる今、上手く立ち回る自信がない。過去、レオナード殿下に会ったことがあるけど、とても聡明な方で私の嘘なんてすぐに見破られてしまいそう……。
 ジークフリートがステップを止め、メガネを直しながら小さくため息をつく。

「シャルは気にしないで大丈夫。兄上は俺を揶揄いたいだけだから」
「え? 揶揄う?」

 私が目をぱちぱちさせると、彼は琥珀色の髪をかき上げ、ちょっと拗ねたように続ける。

「ああ。兄上が『シャルロッテ嬢の様子が気になる』ってしつこく言ってきたんだ。事故の後で体調が悪いって知ってるのに、『パーティーでひと目姿を見たい』だの何だの……言い出したら聞かないからな、兄上は。ただ俺を揶揄って楽しみたいだけだ」

 ジークフリートがむすっとした顔で言うけど、頬がほんのり赤い。いつもクールなのになんだか弟っぽくて、思わずくすっと笑ってしまう。

「ふふ、ジーク、レオナード殿下にそんな風に揶揄われるんだ」
「ああ、昔からそうなんだ。パーティーでも変なこと言い出すかもしれないけど、気にしなくていいから」

 ジークフリートが私の手をそっと取ると、ダンスを再開する。柔らかく包み込む手に、胸がふわりと温かくなる。メガネ越しの優しいまなざしと見合うたび、恐怖じゃないドキドキが胸の奥で何度も弾けた。



 パーティー当日、緊張で震える私を乗せた馬車が王宮へ向かう。
 ジークフリートから贈られたドレスは、淡い桃色に琥珀色の刺繍がされていた。隣のジークフリートは黒の正装に、私の瞳と同じ桃色のチーフ。チラリと見るたび、胸がくすぐったくなる。

(お揃いのものって、こんなに恥ずかしいの……? キツネの策略って怖い!)
 
「シャル、すごく似合ってる。可愛いよ」

 メガネ越しの視線に、顔がかあ、と熱くなる。

「そ、そういうこと急に言わないで! 心臓が飛び跳ねちゃうから!」
「……可愛すぎる」

 ジークフリートがくすくす笑い、恋人つなぎの手をぎゅっと握る。あたたかな感触に、胸がそわそわ落ち着かない。練習のたびに感じる彼の優しさが、キツネの怖さを少しずつ遠ざけていく。
 
(なんでキツネにドキドキしちゃうの……? 私はウサギだったはずなのに、こんなの変……!)
 
 馬車が王宮の門をくぐり、シャンデリアの輝く広間が見える。豪華な装飾、華やかな貴族たちの笑い声、楽団の調べが響く。広間の視線が私たちに集まり、緊張で足がすくむ。ジークフリートが耳元で優しく囁く。

「シャル、俺がそばにいる。怖がらなくていいよ」

 彼の手の温もりと優しい声に、胸がふわりと温かくなり、緊張がほぐれた。ダンスフロアで彼の手が私の腰を支えると、心臓が大きく跳ねる。でも、怖さじゃなくて──たぶん、ときめきが、そっと芽生えていた。

 
 広間の奥、玉座の前に王太子レオナード殿下が見える。気品ある微笑みで賓客を迎える彼に近づくにつれ、心臓の鼓動が加速する。ジークフリートが私の手を引き、堂々と歩みを進めた。
 
「ジークフリート、シャルロッテ嬢、よく来た!」

 レオナード殿下から朗らかに声をかけられ、ジークフリートと一緒に臣下の礼を取る。

「シャルロッテ嬢、元気そうで安心したよ! ジークがひどく心配してたから、様子を見たかったんだ」
「兄上、余計なことは言わないでください」

 ジークフリートが低く呻き、じとりとレオナード殿下を睨む。
 
「シャルはまだ体調が万全じゃないから、すぐに帰ります」
「はは、わかったよ! シャルロッテ嬢、こいつが口下手でも許してくれよ。七歳の時から『シャルロッテが可愛すぎて上手く話せない』ってずっと悩んでたんだ。弟の拗らせた初恋がようやく実ったと聞いて、兄貴としては、この目で見て、祝福したくてな!」
「え?」
 
 思わず声を上げ、ジークフリートを振り返る。彼の焦茶色の目が泳ぎ、頬が赤くなった。

(初恋!? 七歳からって、何!? 拗らせたってどういうこと!?)
 
「兄上、わざとですか。昔の話はいいでしょう」
「おっと、怒ったか! ジーク、シャルロッテ嬢にちゃんと気持ちを伝えろよ。兄貴として応援してるぞ! シャルロッテ嬢、こいつをよろしく頼むよ!」

 レオナード殿下が豪快に笑い、ジークフリートの肩を叩く。兄弟の軽快なやりとりに、私は完全に置いてけぼりだ。

(ジークの初恋が私ってこと……? でも、ジークは可愛くないって言ったのに……!? どういうこと!?)

 頭が追いつかず、ただぽかんと口を開ける。ジークフリートが小さくため息をつく。私の手をそっと引き、広間の喧騒からベランダへ誘う。

「シャル、ちょっと外で話そう」
「は、はい……」

 王宮のベランダは、夜風が心地よく、星空が広がっている。ジークフリートは手すりに寄りかかり、メガネを軽く直す。琥珀色の髪が月光に輝き、焦茶色の目が私をじっと見つめる。その視線に、心臓がどきん、と大きくひとつ跳ねた。
 
「実は……シャルが記憶喪失になったと嘘をついてることに最初から気づいていた」
「え、ええ!?」
 
(バ、バレてた!? 記憶喪失のふりを最初から!?)

 穴があったら入りたい。いや、ウサギの前脚で掘ってでも隠れたい! 顔がカッと熱くなる。ジークフリートは目を細め、くすっと笑う。
 
「シャルは嘘つくとき、鼻がひくひく動くんだ。七歳の頃から変わらないよね。ずっと見てきたから。シャルのことは全部わかる」
「ええ!? 鼻!?」
 
(そんな癖、知らなかった! ずっと見てきたって……どういうこと!?)

 混乱で頭がぐるぐるする中、ジークフリートが静かに続ける。

「一目惚れしたのに、素直になれなくて嫌な態度ばかり取った。シャルに嫌われてるのも、婚約解消したいのも知ってた。だから、シャルの嘘を利用して、君に近づこうとした……俺、ずるいよな」

 彼の声が小さく震え、力無く微笑むその顔に、胸がきゅっと締め付けられた。いつも自信満々なキツネが、こんな切なそうな目をするなんて。
 
「軽蔑したよな」
「え……?」
「シャル、いや、シャルロッテ嬢、父上に頼んで婚約解消する。今まで本当にすまなかった」

 その言葉に、頭が真っ白になる。あれほど待ち望んでいたはずの婚約解消の申し出なのに、ちっとも嬉しくない。練習を重ねるたびに感じたぬくもり、甘い囁きも、一目惚れの話も──全部、ジークの本当の気持ちだったんだ。

 
「…………嫌」
「そうだよな。嫌だよな……悪かった」
「もう……っ! 違います……!」

 身体が勝手に動いた。ジークフリートの腕をぐいっと引っ張り、震える手で彼の頬に触れる。心臓がバクバク跳ねるけど、勇気を振り絞って、そっと頬にキスをした。頬が痛いくらい熱い。目を見開くジークフリートを、まっすぐ見つめた。

「婚約解消なんて嫌です! 私、キツネに食べられた記憶からジークのこと避けていたけど、練習している内に、ジークのこと……大好きになっちゃったみたいなんです。これからも責任を取って、ずっと練習してください!」
 
 ジークフリートの驚きで見開かれていた瞳が、キツネのように細められていく。
 
「ああ、シャルの願い通り、沢山練習しよう」
「はい……!」
「今日の練習は──キスしてもいいだろうか?」
「ひゃあ! お、おでこになら……?」
「シャル、大好きだ」

 星空の下、ジークフリートがそっと私の額にキスを落とす。やわらかな感触に心臓がキュンキュン飛び跳ねた。
 

 あれから私たちは会うたびに『慣れる練習』を繰り返す。握手、恋人つなぎ、肩にもたれること、髪を撫でられること──ジークフリートへの恐怖がなくなり、ときめきのドキドキだけが降り積もっていく。

(どうしてジークのこと怖いって思ったんだろう……? こんなに優しい瞳をしているのに……?)

 結婚式の日、メガネを外したジークフリートと向き合う。琥珀色の髪と焦茶色のつり目、キツネ顔の彼にまっすぐ見つめられる。

(キツネを好きになるなんて、思っていなかったな……)

「シャル、愛しているよ」
「私も愛しています」
 
 ゆっくりまぶたを閉じてジークを待つ。もう、キツネの彼を怖がる理由はどこにもない。近づくジークの気配がただ待ち遠しいだけ。
 祭壇の前で交わしたキツネからのキスに、ウサギの私は甘やかに食べられた──。



 おしまい