王家に神託が降り『第三王子の運命の相手はラポーム伯爵家の娘』と予言したことで、私、シャルロッテ・ラポーム、七歳の婚約が決まった。
 
「はじめまして、シャルロッテ・ラポームです」
「…………ジークフリート・クラウトだ」

 
 私は、目の前の男の子を見て心臓が跳ねた。ジークフリート・クラウト──クラウト王国の第三王子、八歳。琥珀色の髪が風に揺れ、焦茶色のつり目がキラリと光る。まるでキツネみたいな顔に心臓が跳ねた。

(どうしてキツネがここに!? また(・・)私を食べようとしているの? えっ? また……?)
 
「ちっとも可愛くない! こんな子と結婚なんてイヤだ!」
 
 ジークフリートの叫びに、私はぷるぷる震えてお母様のスカートにしがみついた。その瞬間、前世の記憶が鮮やかに蘇った。
 
 ベージュのふわふわな毛、くりくりした桃色の瞳、ぺたんと垂れた耳。ウサギだった私は、草原で草をもぐもぐ食べていた。そこへキツネが現れ、舌なめずりしながら牙をむいた。その顔が、私の最後の記憶──前世の私は、キツネに食べられて死んだ。
 
 神託により、望まない婚約が成立してしまった。ラポーム伯爵家は特に目立った特徴がない家柄だから、名誉ある縁談に大いに喜んでいる。でも、私はキツネ顔のジークフリートと婚約なんて嫌! もう、絶対にキツネに食べられたくない!

 
 ❉ ❉ ❉


 私たちの最悪な出会いから十年経っても親交は深まらず、王立学園での日々を過ごしていた。

 学園の卒業と同時にジークフリートと結婚が決まっている。何度もお父様に婚約解消を頼んでいるが『神託を無視することはできない。殿下と向き合ってみなさい』と言われていた。でも、話し合うもなにも、私たちは顔を見合わせるたびに喧嘩ばかり……。

「シャルロッテ、今日も遅刻ギリギリか」
 
 ジークフリートの冷ややかな声が、学園の廊下に響く。焦茶色のつり目が私を鋭く射抜く。相変わらずキツネのような顔に、心臓が縮こまる。

(ひゃ! 会いたくないからギリギリに登校してるのに! どうしてわざわざ違う学年の教室まで来るのよ……!)
 
 十八歳のジークフリートは、鋭い眼差しがクールな美青年で、令嬢たちから憧れの視線を集める。剣術と学業に優れ、第三王子として王立学園の生徒会長を務める圧倒的な存在だ。
 周囲の令嬢たちからの嫉妬も、もはや日常茶飯事。今だって好奇の目に晒されている。ジークフリートだって、私との婚約を嫌がっているのだから放っておいてくれたらいいのに。

「第三王子の婚約者が毎日遅刻ギリギリではよくない噂になってしまう。仕方ない……俺が明日から迎えに行ってやる」
「えっ?」

(やだやだ……絶対にやだ……!)

 脅すような声に身体がぷるぷる震える。二人きりで馬車に乗るなんて、絶対に無理。必死で首を振る。怖いけど、断らないと明日からジークフリートが我が家にやってきてしまう。それだけは絶対に阻止しなくちゃ。

「本当に大丈夫です! 遅刻しないように明日からちゃんと早く登校します! 殿下は生徒会のお仕事もあるでしょうし、煩わせるなんてとんでもないです……っ!」

 両手を組んで懇願する。ジークフリートは背が高くて、見上げると首が痛いけど我慢。
 
「…………次、遅刻しそうになったら迎えに行く」
「はい! 殿下、お仕事頑張ってください!」
「………………かわいい」
「? 殿下、今、なにか言いましたか?」
「ち、遅刻するなよ……っ!」

 彼は一瞬、鋭い目で私を睨みつけた後、去っていった。顔が紅潮するくらい怒っていたみたいだけど、なんとかピンチを切り抜けたらしい。

(た、たすかった〜)

 ジークフリートと二人きりなんて、本当に無理! 絶対に遅刻しないと心に誓った。
 

 ❉ ❉ ❉
 

 翌日、私は早起きし、いつもより早く学園に向かった。

 王都の石畳の道を進む馬車は、賑やかな街中を通る。朝の喧騒が窓の外から聞こえ、馬車の揺れが心地よいリズムを刻む。一人馬車に揺られながら、どうにかして卒業までに婚約を解消する方法はないだろうかと考えていた時だった──
 
「ヒヒーン!」

 突然、馬が激しく嘶き、馬車が大きく傾いた。
 
「きゃっ! な、なに!?」

 馬車が急加速し、街角の石壁に激突する音が響く。頭を強く打ち、視界がぐらりと歪む。そこで、私の意識は途切れた──。
 
 

 目を開けると、頭に響く鈍い痛みに顔をしかめた。ぼやけた視界の先で、柔らかな光がカーテンの隙間から差し込んでいる。見慣れた光景。ここが自分の部屋だと気づいた。
 
「シャルロッテ! 気がついたの!」

 お母様の声に視線を向ける。泣き腫らした目で私の手を握り、隣にはお父様と白衣の医者が立っていた。馬車の事故の記憶が断片的に蘇る。石壁にぶつかった衝撃、頭を打った痛み……。
 
「よかった、シャルロッテ……! 馬車が事故に遭って、三日間眠っていたのよ……っ」

(……ああ、そうだ。学園に向かう途中で馬車が事故にあったんだった……)
 
 母の涙声を、まだぼんやりした頭で聞いた。医者がそんな私を見て口を開く。

「ラポーム嬢、意識が戻ったのは良い兆候です。しかし、頭部外傷の影響で記憶が混乱している可能性があります。自分の名前や、ここがどこか分かりますか?」
 
(記憶が混乱……? 名前も、自分の部屋なことも全部覚えているけど……?)

 訂正しようとした瞬間、ひらめいた。
 
(あれ? もしかして、これって婚約解消のチャンスなんじゃない……?)
 
 たとえ神託であっても記憶喪失になってしまえば、婚約を破棄できるかもしれない。学園の卒業まで、あと二年しかないのだ。

(お母様、お父様、心配かけてごめんなさい……でも、私、どうしてもジークフリートと結婚したくない!)

 わざと心細げに目を伏せ、シーツをぎゅっと握る。それから首を横にゆっくり振った。
 

 ❉ ❉ ❉


 記憶がないふりをしてから数日後、私はラポーム家の応接室でジークフリートと向き合っていた。

(どうしてこんな状況になったの……? お父様が婚約解消を願って終わりだと思っていたのに……!)

 テーブルの上に紅茶のティーセットと大好きなマカロンが置かれている。だけど、ジークフリートも私も無言のままティーカップはすっかり冷めてしまっていた。
 
「シャルロッテ、記憶がないというのは本当か?」
 
 私はソファに座ったまま、膝の上で手をぎゅっと握りしめて頷いた。心臓がドクドクと早鐘を打つ。記憶喪失を装う作戦は、神託から私たちの婚約を解消するため。

(ジークフリートだってこの縁談を嫌がっているから、婚約解消に同意してくれるはず!)
 
「はい……。自分の名前も、家族のことも、何も思い出せなくて……。婚約のことを聞いて驚きました……」
 
 わざと心細そうに声を震わせ、目を伏せる。嘘をつくことに罪悪感で胸が締め付けられるけど、幸せな未来のために引き下がるわけにはいかない。貴族としての務めを果たせない記憶を失った私は、王族の婚約者として相応しくないに決まっている。

 ジークフリートはしばらく黙っていた。彼の視線が私をじっと見つめているのを感じて、居心地が悪くなる。いつもなら鋭い言葉で切り返してくるのに、今日はどこか様子が違うから落ち着かない。
 
「……シャルロッテ」

 彼の声が低く、どこか重い。私は思わず顔を上げる。ジークフリートの焦茶色の瞳が、いつもより暗く揺れているように見えた。
 
「事故の後、医者から話を聞いた。馬車が横転して、頭を強く打ったって……。そのせいで記憶が混乱してるかもしれないって」
 
 彼の言葉に、胸がチクリと痛む。嘘をついているのは私なのに、ジークフリートは本気で心配しているみたいだ。
 
「でも、私は大丈夫です! ほ、ほら、かすり傷くらいで済んだし……」
 
 慌てて笑顔を作って手を振るけど、ジークフリートは眉を寄せたまま動かない。



 
「…………俺のせいだ」
「え?」
 
 ジークフリートの予想外の反応に目を見張る。

(どういう意味? ジークフリートのせいって、なに?)
 
 彼はソファの背に寄りかかり、目を閉じて眉間に深い皺を寄せた。

「俺がちゃんと迎えに行っていたら……お前はあの馬車に乗らず、事故に遭わなかった」
 
 ジークフリートの声が小さく震えている。いつも自信に満ちた彼が、こんな風に自分を責めるなんて想像もしていなかった。
 
「そんなこと……! 事故は偶然だったんです。殿下が責任感じることなんてないです……」
 
 思わず反論する。でも、ジークフリートは首を振って私の言葉を遮った。
 
「婚約者なのに、シャルロッテを守れなかった。それが……悔しいんだ」
 
 彼の声に込められた悔しさに、胸が締め付けられる。ジークフリートがこんな風に私のことを考えていたなんて、知らなかった。
 
(え……私の嘘のせいで、こんな気持ちにさせちゃってるの?)
 
 何か言おうとした瞬間、彼がソファから立ち上がり、テーブルの向こうで身を乗り出した。
 
「俺は、婚約解消しない」
「っ!?」
 
 その言葉に、頭が真っ白になる。

(待って、なんで!? ジークフリートはこの婚約を嫌がっていたはずなのに……? もしかして、責任感から!?)

「いえ、でも……! 私、自分の名前も家族も思い出せないんです。貴族としての務めも、社交のことも何も分からない……。こんな状態で婚約を続けるなんて、殿下に迷惑をかけてしまいます! もし責任を感じているのなら、私のことは気にしないで婚約を解消して──」
 
 必死で言葉を紡ぐ私の声を、ジークフリートが遮った。
 
「嫌だ」
 
 目を丸くする私に、ジークフリートは一瞬、目を細め、テーブルの向こうで身を乗り出した。琥珀色の髪が陽光にきらめき、鋭い視線が私を射抜く。私は思わずソファの背に身を押しつけた。

「絶対に婚約解消しない」
「ど、どうしてですか……?」
「それは──俺たちは想い合っていたからだ」
「えっ!?」
 
 その言葉に、心臓が一瞬止まりそうになる。

(想い合っていた!? 誰と誰が!?)

 ジークフリートの顔は真剣そのもので、冗談やからかいの雰囲気は微塵もない。
 
「ま、待って! そんな話、両親から聞いてないんですけど!」
 
 私は慌てて声を張り上げる。ジークフリートの眉が少し上がるけど、彼は冷静な声で続ける。
 
「君の両親は知らなくて当然だ。シャルは恥ずかしがりやだからな」
「は!?」
「二人きりの時、シャルは俺にべったり甘えてきていた」

(シャル!? 甘えてた!? 誰なの、それ?)

 頭がぐるぐるする。そんな記憶、まったくない! いや、だって記憶喪失のふりをしているだけで、記憶はまるっとそのままあるわけで、甘えてたなんてありえない! 私は必死で首を振る。
 
「で、でも、もし仮にそうだとしても……婚約を続けるのは、無理なんです!」
 
 ジークフリートの細い目が一瞬、驚いたように見開かれた。マカロンの皿がテーブルの上でカタリと鳴るほど、私の手が震えている。
 
「無理? なぜだ?」
「殿下の顔が……怖いんです……!」
「は?」
 
 彼の細い目がこれでもかと見開かれる。私は慌てて言葉を続けた。もう後には引けない。どうせなら全部話してしまおう。
 
「実は……私、事故の後、前世の記憶を思い出して……! 私、ウサギだったんです! 草原で草を食べていたら、キツネに襲われて……食べられて死にました! 殿下の顔が私を食べたキツネにそっくりで……! だから、怖くて……!」
 
 ジークフリートは再び呆然とした顔で私を見つめた。応接室に再び重い沈黙が落ちる。私は心の中で叫ぶ。
 
(信じるわけないよね!? こんな話、ありえないって! 頭がおかしいって婚約解消して……!)
 
 ジークフリートは突然ソファから立ち上がり、テーブルを回って私の隣に腰を下ろした。私は思わず身を引く。

(ひゃ……! な、な、なんで……!? 近い、近すぎる! キツネがすぐそこに! こ、怖い……っ)
 
「わかった」
 
 ジークフリートが静かに告げて、私は目を丸くする。
 
「わ、わかった……?」
「そうだ。シャルの思い出した前世の記憶が本当かどうかは分からないが……シャルがウサギのように可愛いのは間違いない」
「え?」

 驚いて目をぱちぱち瞬かせた。

「それに、シャルが俺を怖がってるのは本当なんだろう」
 
 ジークフリートの焦茶色の瞳が、私をじっと見つめる。その視線に、前世のウサギの恐怖から心臓がぴょんと跳ねた。
 
「大好きなシャルが俺を怖がるのは寂しい……。だから、シャルが俺に慣れる練習をしよう」
「え!?」
 
(慣れる練習!? どういうこと?)

 私の戸惑いなんて関係なしにジークフリートは真剣な顔で続ける。
 
「俺の顔を怖いなら、シャルが俺の顔に慣れるように練習すればいい。俺と一緒に過ごす時間を沢山作って、以前のようにシャルが俺に甘えられるように練習しよう」
 
 私は口をパクパクさせる。理解が追いつかない。ジークフリートは獲物をとらえたように口角を上げた。

(ひいっ、キツネそっくり……!)

「シャル、明日から練習をはじめよう」