彼は悪魔

 ケンが部屋に来ることが私には苦痛になっていった。

 ケンは外出したがらず、私の部屋にばかり来たがった。

 自分の下宿に来いとは言わない。

 私もあんな不潔な部屋に行きたくなかった。

 シンクの水に浸かった青や赤カビの生えた食器を思い出すと、ゾッとする。

 ケンは一度来ると翌日まで泊まることが多くなった。

 しかもそんな日は一晩中、私の部屋でホラーを流し続けた。

 部屋の灯りを消し、自分はガーガーとイビキをかいている。

 私はグロテスクなシーンを見たくなくて、床に寝そべっているケンの手からリモコンを取り上げた。

 すると薄目を開けて様子をうかがっていたケンが、ガバっと起き上がる。

 「消すなよ、何やってんだよ?」

 「だって、見ていないでしょ!?」

 「お前が見るの!消すな!」

 ケンはケラケラ笑いながら、私の手を押さえつけて無理矢理ホラーを流し続ける。

 ホラー映画が好きならともかく、怖がりな私には拷問と同じだ。

 「こんな迷惑なこと、いつまで続くのかしら?」

 私は次第にケンへの気持ちが冷めていった。

 「マンションにいるといつ来るかわからないから」

 私はケンを避けたくて、講義のない日はなるべく外出するようにした。

 バイトやショッピング、卒論の資料集めのための図書館通いも始めた。3回生の秋になると就職活動の準備も始まる。

 するとスマホにケンからのメッセージが頻繁に送られて来るようになった。

 マンションに来る時はいくら連絡してからきてと頼んでも、面倒くさがっていきなりやって来る。

 そのくせ、私が部屋にいないとどこにいるのか、いつ帰るのかとうるさい。

 最初こそは、『コンビニ』とか『本屋』とか生真面目に返信していたが、段々馬鹿らしくなった。

 既読になると面倒なのでスマホに通知がきても無視した。

 するとケンは毎日のように私を自転車でつけ回し始めたのだ。

 朝洗濯物を干すためにベランダに出ると、ポン!ポン!と何かが弾けるような音がした。

 何だろうと3階から下を覗くと、ケンがマンション前の路上に立っていた。

 そしていきなり歌い出す。

 「ラリポップ!ラリポップ!ボボン!ボンボン!」

 そこまで歌うと自分の口に人差し指で入れて、『ポン!』と音を鳴らした。

 「お~い!俺だよ俺!この曲、知ってるかぁ~?」

 と、ニコニコしながら両手を振る。

 「汚いなあ」

 と、私は素直に思った。ケンは何度も口の中に指を入れて音を鳴らしていたが、早朝で人通りが少ないとはいえ、恥ずかしくないのか?

 ケンはよほどこの動作が気に入ったのか、私の部屋に来る時にはポン!ポン!と口を鳴らすようになった。

 ケンは朝早くから私のマンションの周囲を自転車でぐるぐる回る。

 たまに外で私を見つけると、ノロノロと自転車を蛇行運転しながらぴったり私の後ろをつけてきた。

 「山崎さん、いい加減にしてくれませんか?監視されているみたいで気持ち悪いから!」

 「へっへーん!」

 笑い声をセリフで言う、漫画みたいな人って本当にいるんだ。

 私は軽蔑してケンを睨んだ。

 「あら?怒ったぁ~?」

 ケンは小バカにしたように首をねじって、私の顔を下からのぞき込む。

 「別に……。それより先輩、こんなことしてないで、講義に出て単位取った方がいいですよ。私も就職活動があるし、先輩も来年は卒業しないと困るんじゃないですか?」

 私は言いにくいことだったが、やんわりとケンに私の部屋に来ないでくれと言ったつもりだった。

 「俺、はるたんのヒモになろっかなぁ?」

 「え?」

 「就活やめて、水商売に雇ってもらえよ」

 「水商売って!男性から体を触られたりもするんですよ!?」

 「俺も嫌だけど。その方が手っ取り早いし」

 ケンはゆらゆらと相変わらず蛇行運転しながら、真顔で答えた。

 「この人のこの顔、本気だ」

 私はこの時はっきりと、ケンが私を愛していないことを確信した。

 ケンは講義にも出ず、待ち伏せをする日々が続いた。

 「部屋にいるとポンポンと嫌な音を立ててやって来るけど、ここなら大丈夫よね」

 私は大学近くの本屋で立ち読みしていた。

 大学のそばなので、キャンパスで見かける友人たちの顔もチラホラ見える。

 大学のそばの店内なら、ケンも口に指をくわえては入って来ないだろう。

 私はお気に入りの文庫本を2冊選んでレジに向かった。

 するとケンが無表情でレジのそばに立っていた。

 また、つけてきたのかしらこの人?

 「お先にどうぞ」

 私は鬱陶しく思いながらも、ケンも本を買うのかとレジを譲る。

 するとケンは首を横に振り、私の手元をジッと見つめた。

 「変な人……」

 私はケンを放って置いて、会計を済ませようとカウンターに本を置いた。

 すると突然、ケンが私めがけて叫んだ。

 「本を2冊も買いやがって!」

 一瞬、店内が静まり返る。

 レジを打とうとしていた男性店員も、呆然とケンを見つめる。

 「どこか別の場所に行けや!嫌だろう?いると思っていた所にそいつがいたら!」

 それなら、私を探さなければいいではないか?

 ケンは理不尽な理由で店内で怒鳴り散らとまた無表情に戻って、何事もなかったように本屋から出ていった。

 部屋にいれば泊まりに来るし、外に出ればつけ回す。

 仕方なく私は昼間部屋にいる時には、居留守を使うことにした。

 案の定、平日の正午きっかりにチャイムが鳴った。

 「真面目に大学に行けばいいのに」

 私はテレビも点けず、リビングの真ん中で物音を立てないようにして、ケンが帰るのを待った。

 最初は『ピンポン』と等間隔で普通にチャイムを鳴らしていたが、ケンは次第に苛立ってきたようだった。

 『ピンポンピンポンピンポン!!』と狂ったように連打し続ける。

 それでも私がドアを開けないと、足でガンガン蹴り始めた。

 「ちょっと……何?」

 私が戸惑っているとケンはますます行動をエスカレートさせる。

 ドアレバーをガチャガチャと回し、ドアの郵便受けに手を入れバタバタガチャガチャと絶え間なく騒音を立て始めた。

 「ドアスコープに影が映ったぞ!電気メーターも回ってるし、中にいるのはバレバレなんだよ!早く出てこい!バカ女!!」

 「ちょっと!なにしてるの!?」

 私はとうとう我慢できず、ドアガードをかけたままドアを開けて叫んだ。

 「さっさと開けないお前が悪いんだろう!?」

 色白なケンは真っ赤ではなく、顔を青ざめさせて怒鳴る。

 「ドアを蹴らないでよ!泥だらけになるでしょ!?」

 「俺の気持ちが分かったか!ざまあみろ!」

 話がまったく噛み合わない。

 もう、この男とは別れよう。

 私は決心してドアガードを外した。

 平日の昼間。誰もいないマンションの廊下とはいえ、別れ話をするには相応しくない。

 ケンは私を押しのけるようにして、デイパックを背負って玄関から上がり込んだ。

 乱暴に荷物を机の上に放り出すと、ズボンのポケットに右手を突っ込む。

 「おい、こっち向け。女」

 ケンはことさらドスの利いた声で私に凄む。

 リビングに入ってきた私に、ケンは取り出した折たたみナイフを突きつけたのだ。

 「ふざけんなよ、女」

 無表情で凄み続けるケンだったが、私はそれほど怖くない。

 この男がナイフを持っているのは、以前から知っていた。

 山登りが好きで、キャンプにはナイフがあると何かと便利だと言っていた。

 しかも、相手が多人数のケンカの場合、ナイフを見せれば相手が逃げ出すから持っているのだと自慢していた。

 「相手が逃げなかったらどうするんですか?」

 「その時は、俺が逃げる」

 ケン自身が付き合って間もない頃に教えてくれたからだ。

 ケンは警察を恐れている。だから自分から私を刺すことはない。

 「おい、笑うな!女!」

 私が無言でケンを見つめているととうとう根負けしたようだった。

 「もっと、怖がればいいのに」

 ケンはぼそっと呟くと、つまらなそうにナイフをポケットにしまう。

 「それで話なんですけど……」

 ほっとした私が別れ話を切り出そうとした、その時だった。

 ジジッ……!!


 「イヤ……ッ!やめて!!」

 「あっはっは!!おもしれー!お前のその顔!!」

 ケンは私の髪を左手で掴むと、右手でライターの火を付けたのだ。

 「冗談冗談!別に燃えてないだろ?あ、くっせぇ!お前の髪!」

 ケンは私を指さして、ゲラゲラと大笑いしている。

 部屋には髪が焼けた独特の不快な臭いが漂う。

 「何?この人、私を焼き殺そうとしたの!?」

 ガタガタと震えがくる。恐怖でドキドキと心臓が早鐘を打つ。


 「何だよその顔?最初から怖がらないお前が悪いんだろう?第一この部屋、刺激がないんだよなあ。俺が読むマンガもゲームもないし、こうするしかないだろう!?」

 ケンはそういうと上機嫌で私を床に押し倒した。

 季節は春になり、私は4回生になった。

 ケンの束縛と監視は続き、私は何をされるかわからない恐怖で別れられずにいた。

 思い切って警察にも相談したが、「暴力を受けたなら医師の診断書を持ってきて」などと埒があかない。

 両親に相談したかったが、厳格な父は男性とトラブルを起こしたと知っただけで激怒するし、母は「そらみたことか」と私を責め立てるだろう。

 「大学を卒業さえすれば、あの男と別れられる」

 ケンの行動は相変わらずだったが、さすがに今年卒業しなければ後がない。

 本人も自覚はあるらしく、昨年末くらいから単位を取るために講義にも出始めた。

 私の部屋にくる回数も減り、連日のように泊まりにくる日も少なくなった。

 それでも、私の心身に受けた傷はなかなか治らない。

 夜はわずかな物音ですぐに目が覚める。

 外出してもどこからかケンが現れるのではないかと、たまらなく不安になる。

 部屋のチャイムが鳴るたびにケンが来たのかと、怯えてしまう。

 チャイムの音が聞きたくなくて、電池を取り出した。

 それを知ったケンは、

 「お前、あんなふうになりそうやな?」

 と、テレビに映った精神病院のシーンを指さしてニヤニヤ笑う。

 すべてあんたのせいよ!

 そう叫びたかった。

 悔しくて、たまらない。

 なんで私は、こんな最低の男にバカにされなければならないの?

 ケンが帰るとほっとする。

 すぐにドアをロックし、ドアガードもかける。

 だけど次の瞬間。

 ドガガガガガガアアア!!!!

 「え!何!?」

 ドアを蹴破るような物凄いノック音に、私は恐怖から条件反射でドアを開けてしまう。

 「すぐにドアに鍵をかけるな!嫌だろう!?追い出されたみたいで!!」

 口から泡を飛ばしながらケンは小さな目を見開きわめき散らす。

 「すぐに鍵をかけるくらい常識なのに」

 この男には常識すらまともに通用しないのだ。

 私は卒業だけを希望に就職活動と卒論作成に全力を注いだ。

 そんなある日。