彼は悪魔

 ミチルと交際しているなら、今がチャンスだ。

 今なら私が別れると言っても、ケンが逆上することはない。

 私は部屋でシャワーを浴びると、自分を落ちつかせた。

 十分時間をかけて考えてから、連絡を取る準備をした。

 私はLINEやメールではなく、ケンに電話をかけた。

 固定電話からのコールに、10回目でやっと出た。

 「はぁ~い?もしもしぃ~?」

 午後2時だというのにケンの声は明らかに寝ぼけている。

 私は緊張して受話器を握りしめた。

 「山崎さん、私だけど……」

 「なんだ、お前ぇ~?俺の所しか電話かける所ないんやろ?惨めな奴!」

 ケンは目覚めた早々、嫌みを言って鼻で笑う。

 「もう別れましょう?お互いのために」

 私は煮えたぎる怒りをこらえて、やっと別れを告げた。

 私の言葉にケンは数秒間だけ、沈黙する。

 その時間が私にはとてつもなく長く感じられる。

 緊張で口の中がカラカラに渇いてたまらない。

 期待と恐怖が入り混じる中で、私はケンの返事をひたすら待った。

 「はるたんから言わせて、ごめんねぇ。なんか俺が無理やり言わせみたいで」

 ケンの台詞はどこか芝居じみていて、わざとらしい。

 やはり私から別れ話を切り出すように仕向けていたんだ。

 「ねぇ、今からお別れ記念キッス大会するぅ~?」

 何を言ってるのこの男!?

 自分はミチルと寝てるくせに!

 「しない!」

 「しないやろぉ~?」

 ケンはいかにも残念そうに、甘え声で語尾を伸ばした。

 気持ち悪い。

 どこまで図々しい男なのだ!

 「今から会いに行ってやってもいいんだけどさぁ、『山崎さん、は~い!』って言って、はるたんが裸にバスタオル巻いて出てきたらと思うと怖くって!俺、自制心もたないかも!?」

 ケンは電話口でケラケラと下品な笑い声を上げる。

 自分に都合の良い妄想ばかりの呆れ果てた男だ。

 そんなこと、私がするわけがない!

 「山崎さんに貸した本とCDは」

 ケンが私の部屋から盗んだ品物は、もういらない。

 私はそう言うつもりだったが、返却を催促されると思い込んだケンは先手を打ってきた。

 「お前の本どこにあるか、わかんないなぁ!自分で探せよ。あと、取りにくる前に電話してね。彼女と鉢合わせすると嫌だから」

 ケンは『お前といいミッチーといい、モテてるって、うるさいんだぜ!彼女、毎晩部屋に泊まりにきてさあ』とくだらない自慢話をし続けた。

 あんな汚い部屋に、よく泊まれるものだ。

 私は嫉妬よりも心底呆れた。

 あんな不潔な部屋で毎晩この男に抱かれるなんて、想像しただけでゾッとする。

 以前この男が言った、「お前のおかげで自信がついた」というのは『女にモテる自信がついた』という意味だったのだ。

 自信ってなに?

 私はケンに女に対する自信をつけさせるための道具なの!?

 悔しい。私はこんな下劣な男の踏み台にされていたんだ。

 そう思った瞬間、私の口からするりと言葉が流れ出ていた。

 「――――もう、バカバカしいからあんたたち2人で勝手にやってよ」

 「バカバカしいって!?ちょっと!!」

 ケンは甲高い女のように裏返った声で、電話口でわめき散らした。

 よほど私の返事が意外だったのか、興奮した怒鳴声がうるさい。

 私が受話器を置くと、やかましいくらいにかけ直してくる。

 固定電話のモジュラージャックを外し、スマホの電源も落とす。

 「またやってきて、ドアを蹴り続けるだろうな」

 部屋の外に逃げても私が帰るまでドアの前で待ち構えているだろうし、私の友人のマンションはみんな知られている。

 どこにも逃げ場はないのだ。

 私はケンがくるのを待った。

 自分でも不思議なくらい冷静だった。

 「殺されても構わない。あの男とは、絶対に別れよう」

 今までビクビクと怯えていたのが、バカバカしく思えた。

 死を覚悟すれば何も怖くない。

 私は自分が殺された後で犯人がわかるように、ルーズリーフにケンの名前と事の顛末を走り書きした。

 その紙をタンスの一番下の引き出しに服を被せて隠す。

 その時、玄関ドアがノックされた。

 数回軽くノックした後ドアレバーをガチャガチャと回し、ドアの郵便受けに手を入れようとしていた。

 だが、私は内側から郵便受けの口をガムテープで塞いでおいた。

 しばらくすると、金属性の甲高いキィー!という音がした。

 ガタガタと郵便受けが揺れるような音がする。

 ケンはナイフを郵便受けの口に差し込んで無理やりこじ開けたのだ。

 ガタガタガチャガチャバンバンバンバン!!!と、ひどい騒音を立て続ける。

 けれど私は、絶対にドアを開けない。

 今までは何をされるかわからない恐怖で、音がすると慌ててドアを開けていた。

 ケンは決して、自分からは「開けろ」とは言わない。

 冷静になった今ならわかる。

 私が警察を呼んでも、「僕が何も言わなくても、彼女の方からドアを開けてくれた」と弁解するためだ。

 「何時間くらい頑張れるかしら?」

 私は冷めた視線で机の上の時計を見た。

 「1時間か12時間か……。明日の朝までやってればいいんだわ」

 今は午後2時過ぎ。
 平日のマンションは学生も単身者のサラリーマンもいない。

 ケンは今までは、そこまで計算してやりたい放題やってきた。

 夜には大騒ぎはやらない。

 マンションの住民から警察に通報されるからだ。

 警察は私が通報しても、『民事不介入』だとか、『お父さんに相談したら?』とか、いかにも仕事をしたくないという態度の若い巡査が1人でくるだけだった。

 第一、通報から30分もかかって巡査が来た頃には、ケンはとっくに逃げたあとだ。

 ケンは10分ほどドアを蹴り、バタバタガチャガチャと騒音を立てるとピタリとやめる。

 そしてドアに付いた、郵便受けの口を開け室内の様子をうかがう。

 「はるたん、ねぇ?生きてるぅ~?」

 ケンのくぐもった声がドアから響く。

 「宅配便でぇ~す!お届け物に来ましたぁ~!」

 この男はバカなのか!?

 私はケンの声が聞きたくなくて、テレビを点けた。

 途端に、ケンは待ってましたとばかりにガチャガチャバタバタと轟音を立て始めた。

 「テレビ、消した方がいいかしら?」

 私はローテーブルの上のリモコンに手を伸ばし、そこでハッと気づいた。

 「これじゃあ、今までと同じで何も変わらない。あんな男の機嫌ばかりとって!!」

 ケンは怖がらせさえすれば、私が何でもいうことを聞くと思っている。

 自分は私から惚れられていると本気でうぬぼれている。

 何でもいうことを聞く女だと思っているからバカにする。

 人間として尊重しない。

 「変なやつが来たじょ!」

 「バカが来たじょ!」

 「バカ女が来たじょ!」

 「あら?怒ったぁ~?」

 だからふざけたふりをして、人前で私の心を踏みにじってきた。

 テレビを点けたまま掃除機をかける。

 相変わらずケンはガチャガチャバタバタと騒音を立て続け、私の頭の方がどうにかなりそうだ。

 今までは隣近所に気兼ねしたり、早くドアを開けない私が悪いのかと、自分ばかり責めていた。

 だけで今は違う。

 あの男が異常なのだ。

 ケンはそれから1時間ほど騒音と猫なで声を繰り返していた。

 しかし私が掃除機を止め、テレビのボリュームを上げて一切返事をしないでいると、いつの間にか静かになっていた。

 「本当に帰ったのかしら……」

 テレビを消して耳を澄ませる。どくどくと心臓が早鐘を打つ。

 静かになった今の方が、自分が緊張しているのがよくわかる。

 冷や汗が全身から噴き出している。

 早く玄関まで駆け出して、確かめたい!

 なのに、私の体は金縛りにあったようにリビングから動けない。

 またすぐにケンが戻ってくるのではないか?

 ドアの外側で室内の様子をうかがい、ロックを外してドアをそっと開けようとした瞬間、いきなりドアの隙間に手を入れる。

 そして驚く私の顔を見ながら、「バーカ!バーカ!」と罵りながら大声で嘲笑し続けるのだ。

 いつものあの男のやり口だとわかっていても、私は確かめずにはいられなかった。

 足音を立てないように慎重に、玄関ドアに向かう。

 ドアの前に立ち息を殺して、外の気配を探る。

 ドアスコープを覗きたいが、ケンが外から覗き込んでいるかもしれない。

 あの男と目が合うと思うと、ゾッとする。

 私はドアガードをかけたまま、思い切ってドアを少しだけ開けてみた。

 すると、やはりケンはドアのすぐそばに立っていた。

 ケンはドアの隙間から顔を覗かせてこう言い放った。

 「僕と別れたからって、死なないでね」

 能面のような無表情な顔。

 男にしては色白で小柄な体を屈めるようにして玄関ドアの隙間から、私を見つめてくる。

 腫れぼったい目で私の表情をうかがうケンの顔が、今日ほど卑屈で嫌らしく見えたことはない。

 あまりの気味の悪るさに私は震えた。

 本当は、「異常なのはあんただ!」と叫びたかったのに!!

 「そんなことあるわけない」

 私は声が震えないように、わざと苦笑いを浮かべて片手を振った。

 ケンはジッと私の様子をうかがっていたが、やっとあきらめたのか面白くなさそうな顔をして自分からドアを閉めた。

 この男はこんな嫌がらせをしておいて、別れたくないと私が泣いてすがるのを本気で期待していたのだ。

 私はまたドアにロックをかけた。

 ケンがロック音を聞きつけて、またわめき散らさないように十分時間を空けた。

 そしてこの日を境に、ケンは二度と私に接触してくることはなかった。