「美音さんっ!」
背中からピリッとした声が聞こえて、思わずビクッとしてしまう。
ちょうど、窓の掃除をしていたところ。
(あぁ、きっと汚れが落ちてなかったんだ。また怒られる。私はなんてダメなんだろう……)
汚れた雑巾を持つ手をぎゅっと握りしめて、恐る恐る振りかえる。
「返事をしなさい」
ギロリ、と私の顔を見おろしているのは、メイド長の小田さん。
このお屋敷の使用人の中でも一番の古株で、とにかく厳しいんだ。
「……はい」
申し訳ありません。
そういって、頭を下げようとしたとき、小田さんの口から出できたのは、思いがけない言葉だった。
「旦那様がお呼びです。すぐにお部屋に向かうように」
「えっ……」
旦那様が? どうして?
頭の中が「?」でいっぱいで、ぽかんと小田さんの顔を見つめてしまう。
すると、
「早く!!!」
小田さんの、有無を言わせない迫力のある声。
「は、はいっ……!」
雑巾を持ったまま、急ぎ足で廊下を進もうとすると。
「待って、旦那様に会うのですよ。身だしなみを整えていらっしゃい」
「はいっ!」
回れ右。
私は、くるりと方向転換して、屋敷の一番奥の階段をかけ上り、屋根裏にある小さな部屋の扉を開ける。
(身だしなみって……髪をとかすとか、そういうことでいいのかな?)
文庫本くらいの小さな窓が一つあるだけの、薄暗くて狭い部屋。
小さなベッドと、古びた学習机。
学習机の上の鏡と写真立て。
ハンガーラックに、使用人の制服が数着とわずかな普段着。
これが、私の部屋。今の私のすべて。
学習机の前に座って、鏡を見ながら髪をとかす。
(旦那様の用事って、なんだろう……)
不安な気持ちになって、すがるように写真立てに目を移す。
そこに映っているのは、若い夫婦と幼稚園くらいの2人の女の子。
夫婦は私のお父さんとお母さん。
女の子は、私と、私の1つ年上のいとこ。
みんな、とても楽しそうに幸せそうに笑っている。
私の、大好きな大好きな3人。
あの時の私は本当に幸せだった。
そう、あの事故が起きるまでは。
私の名前は朝比奈美音。13歳。
中学1年生の年だけど、学校には行っていない。
ここ、朝比奈家のお屋敷で住み込みの使用人として働いている。
ほんとうなら、私のお父さんが、おじいちゃんのあとを継いでこの朝比奈家の跡を継ぐはずだった。
だけど、あの日すべてが一変した。
お父さんとお母さんと私、それから従妹のまりあちゃんとでバレエを見に行った帰り道。
運転手さんが運転する車の中で、その日の舞台のことを楽しく振りかえっていたそのとき。
大きなトラックが正面からやってきて、私たちが乗っていた車に追突した。
いっしゅん、なにが起こったのかわからなくて。
気づいたときには、もう病院のベッドの上だった。
頭を強く打っていたそうで、目覚めたのは奇跡だといわれた。
だけど、私は声をあげて泣いた。
目を覚ました私に、まりあちゃんのお父さんである次郎おじさまが冷たい声で告げたのだ。
あの車に乗っていた人間は、私以外みんな助からなかった、と。
(いけない、いそがなきゃ。お父さま、お母さま、まりあちゃん、見守っていてね)
写真をそっと撫でて、私は急いで部屋を出て階段をかけ下りた。
②
(旦那様が、いったい私になんの用だろう……)
旦那様、つまりこの家の主の顔を思い浮かべると、胃の辺りがキリリと痛む。
お父さまが亡くなったあと、すぐにおじい様も亡くなって、朝比奈家の当主はありすちゃんのお父さんの次郎おじさまになった。
とても優しかった次郎おじさまは、あの事故のあと……変わってしまった。
無理もない。
大事な娘を失ってしまったのだから。
今はもう、私たちはただの主人と使用人。
だから、「次郎おじさま」ではなく、「旦那様」ってよんでいる。
そして、旦那様にはもう一人娘がいる。
まりあちゃんの妹のアリスちゃん。
少し体が弱くて、今は学校には行かずにお屋敷の中で過ごしているけれど、まりあちゃんにそっくりなお顔の、可愛らしい女の子だ。
旦那様の後は、アリスちゃんがこの朝比奈家の当主になることがもう決まっている。
私はもう、朝比奈家の人間ではない。
ただ、旦那様の最後の温情でここに置いてもらっているだけ。
だから、とにかく、目立たず、息をひそめて、旦那様の目に触れないように気をつけて生活している。
それなのに。
(旦那様が私に話なんて。いい話、ではないよね、ぜったい)
廊下の先の階段を3階、2階と下りて、また長い廊下を進み、旦那様の書斎の扉の前で息を整える。
怖い。けど、遅くなったらよけいに叱られてしまう。
(……よし)
とんとんとん。意を決して3回ノックすると、「入れ」という低い声が聞こえてきた。
「……失礼いたします」
重たい木の扉を開けて中に入ると、予想通り、正面のデスクに旦那様がいて、そしてその横に立っていたのは……。
「お、奥さまっ……」
メイド長より、旦那様より、ずっとずっと恐ろしいその人を見つけて、思わず逃げ出しそうになりながら、その気持ちをなんとか抑えてぺこりと頭を下げる。
モデルさんのように美しいその人は、旦那様の奥様で、まりあちゃんとアリスちゃんのお母さん。
きっと、この世で一番私のことを嫌っている人。
だから、普段はぜったいに顔を合わせないように避けているのに。
「ふんっっ。相変わらず可愛げのない子ねっ」
「も、申し訳ありません……」
「あーーーー、イライラするっ」
なにもいえなくて、私は目を伏せる。
これ以上、奥様を怒らせてはいけない。
使用人としてでも、この屋敷に置いてもらわなければ、私には他に行くところなんてない。
早く。どうか早くこの時間が過ぎますように……!
ぎゅっと目をつぶって祈っていると、「美音」と旦那様の声が聞こえてくる。
「美音。お前に頼みがある」
「……はい」
頼み?
思いがけないことばに戸惑いながら、顔を上げて旦那様のほうを見ると、旦那様が小さくうなずく。
「そうだ。お前には、この春から、ルミナス学園に行ってほしい」
「ルミナス……?」
思わぬ単語が出てきて、ぽかんとしてしまう。
ルミナス学園。その名前はもちろん知っている。
日本中の裕福な家の子女が集まる、全寮制の中学・高校だ。
そして……、私の両親の母校でもある。
お父さんとお母さん、学校が大好きだったみたいで、「美音もいつかはルミナスの生徒になるのよ。ちょっと寂しいけれど」なぁんていってた。2人とも、もういないけど。
そのルミナス学園に、私が? どうして?
というか……私、学校に行けるの??
一瞬、きっと私はうれしそうな顔をしてしまったんだろう。
奥様がキッと目を吊り上げた。
「勘違いしないで! お前にルミナスの教育を受けさせたい、なんて、これっぽっちも思ってないわ!」
奥様が大きく声を張り上げたその横で、旦那様は机の上でゆっくりと指を組む。
「美音。お前のルミナスでの仕事は……、まぁ、いうなれば『探偵』だ」
「探偵……?」
「左様。わが娘、そしてこの家の次期当主であるアリスは今年11になる。2年後には、ルミナスに入学させる予定だ。その前に、確かめておかなければならないことがある」
旦那様の眉間がぐっと深くなる。
確かめておかなければならないこと……?
「裏切り者はだれか、ということだ」
するどい目と冷たい声にぞくっとする。
と、ちょうどそのとき、ノックの音がした。
「入れ」
「失礼いたします。美音様の制服をお持ちしました」
「ちょっと、その呼び方はやめて! この子はもうただの居候のメイドなのよっ」
部屋に入ってきた執事の伊藤さんを、奥様が叫ぶように𠮟責してにらみつける。
伊藤さんは、おじい様の代からこの家で働いている白髪のおじいさんで、未だに私のことを「美音様」って呼んで優しく接してくれるんだ。
「大変申し訳ございません。奥様」
伊藤さんは小さく頭を下げて、旦那様のほうを見る。
「それで旦那さま、お話はもうお済みですか」
「いや、まだだ。お前から説明しろ」
「はぁ、かしこまりました」
伊藤さんは私のほうをみてにこりとほほ笑む。
「美音さん。美音さんもご存じの通り、朝比奈家は明治から続く名家でございます。そしてルミナス学園には現在、朝比奈家と関係の深い4つの名家のご子息が在籍しております。旦那様はこの4人のうちのだれかを、アリス様の結婚相手としてお考えです」
「!」
「ところが、です。この4家の中に、裏切り者がいるのでは、という情報が入りました。その者は、わが朝比奈家を乗っ取ろうとしている、というのです。美音さんには、ルミナスで学園生活を送りながら、裏切り者がだれなのか見極めてほしい、というのが、旦那様のご要望です」
「そ、そんなこと、私に務まるのかどうか……」
「あら、心配はいらないわ。あなたが『朝比奈まりあ』として入学すれば、裏切り者はきっとあなたの命を狙ってくる」
「……っ!」
「朝比奈まりあ。そうよ。お前の両親が殺した私のかわいい娘よっ」
憎しみのこもった目を向けられて、足がガクッと震える。
違う。お父さまとお母さまがまりあちゃんを殺しただなんて、なんてひどいことをいうんだろう。
そういいたいけれど、いえない。
奥様は本気でそう思ってるんだ。
「あのとき、お前の両親がまりあを連れ出したから、事故にあった。まりあが死んだのは、お前の両親のせいだ」って。
コホンと小さく咳払いをして、伊藤さんが口を開く。
「奥様のご意向で、まりあお嬢様の死は世間には伏せておりました。まりあお嬢様・アリスお嬢様、お二人とも身体が弱いため、この屋敷の中で静養されている、ということにしていたのです」
シンと部屋が静まり返る。
「ですから今回は、美音様にまりあお嬢様として入学していただきます。そうすればきっと……裏切り者は、美音様をまりあお嬢様と思って、何らかの、その……」
いいにくそうに言葉をにごす執事さんの言葉をついで主はぴしゃりという。
「つまり、お前は、裏切り者を炙り出すためのおとりというわけだ」
おとり……。
「とまぁ、そういった話なのですが……、この話、受けて頂けますか?」
「は、はいっ」
「当たり前でしょ。断わるなんて、承知しないわよ。今、あなたがこうしていられるのも、ぜんぶ私たちのおかげなんだから……」
奥様がぐちぐちと私を罵る声が、どんどん遠くなっていく。
おとり? 危険な目に合うかもしれない?
そんなこと、どうでもいい。
執事さんがなにかを説明する声。大事な話かもしれないけれど、それももう聞こえない。
(私、学校に行ける……! 思いっきり勉強ができる……!!)
天にも昇る気持ちで、胸の前の手をぎゅっと握りしめた。



