私はわざとらしく首をかしげ、彼女のほうへ一歩進み出る。

「違うよ。私はハルじゃない」
「ハルの中の人です、って言いたいの?」

 Vチューバーの中の人バレというのはご法度だ。
 こういう特殊なケースでも、とぼけられるならとぼけるべきだと私は思う。
 かなくん呼びも特徴的すぎるから封印しておこう。

「さあ、どうでしょう」
「やっぱVチューバーモードとオフモードで声音ちゃんと変えてるのね、えらいえらい」

 話を聞かず私がハルだという前提で彼女は話を進める。

「けど、おたくの防音カスすぎてオンオフ両方の声が丸聞こえだから『ハル』イコール『晴香』なとこまで簡単にわかるわよ」

 顔には出さないけど、え? と思った。
 ――まさか防音材を買わなかったことがここに繋がるなんて!

「ま、家にめちゃくちゃ近づいて張り付いてたあたしがおかしいといえばまあそうなんでしょうけど。あたしストーカーやるの得意だし、耳もいいし」

 うん、買わなかった私も悪いけどアンチさんも悪いね?

 ……あ、まずい、向こうのペースに乗せられてる。
 私は主導権を握りたくて、口を開いた。

「私がここに来た理由は、あなたが絵画教室で叶方さんの絵を塗りつぶした人かもしれないって聞いたから。――実際のところ、どうなの?」
「さん付けなのが気に食わないけど、そうね」
「ほんと!? だったらね、ちょっと話したくて」
「……なによ」

 露骨に不機嫌そうに腕を組む彼女。

「叶方さんって、なんでも初めからできるじゃん」
「完全に同意するわ、さん付け以外は」

 あ、ちょっと声のトーンが上がった。素直だ(?)
 私は意を決して、彼女に質問を投げかける。

「叶方さんが赤に塗りつぶされたカンバスで新たに絵を完成させたとき、あなたが狂乱状態になったのは、
 塗りつぶす前の絵も、あとの絵も、あなたの絵より上手かったから。――違う?」

 叶方さんという言い方がやっぱり気にくわないみたいで、すごく嫌な顔をされた。

「ええ、そうよ、叶方さまは、教室に数年通った私より上手い絵を描いた。その上手さによって、教室の最悪な空気に耐えて通ってたあたしの人生は無駄だったと叩きつけたの。あれほど無力感を感じたのは人生であの時だけよ」

 開き直りと静かな怒りとが混じった、震え声だった。

「赤で塗りつぶせってほかの生徒たちに言われたとき、ダメでしょって理性もなくはなかったけど、それ以上に、あの絵を、絵に費やした時間を台無しにして、あたしと同じ無力感を味わって欲しい欲求があった――どーせ叶方さまならなんとかしちゃうんだろって昏い期待もあった。やってから気付いたわ。塗ってしまったものはもう元には戻らない。自ら他人の作品を喪失させた、それは一生償えない罪だって」

 そう語る彼女は、不気味なほどに、にっこり笑っていた。

「責めて欲しかった。けれど叶方さまはあたしを責めず、淡々と赤を下地に絵を描き上げた。その絵ですらも、私より遥かに上手かった!」

 理解したくはないけど、「責めて欲しかった」という気持ちだけはちょっとわかる気がした。

 ちょっと違う例だけど、万引きをしたのに褒められたりしたら、逆に罪悪感が数倍にも膨れ上がると思う。