溜息と笑いの息が間をおかずにジーナの顔にかかった。

「ヘイム様にもそんな態度をとって怒らせているのでしょうね、最低ですねえ。以後そういった態度は私にだけにしてください。私は偉いからあなたの攻撃に耐えて見せますよ。そうしないと許しませんから。ああヘイム様、側近ハイネはこの無神経な乱暴者からあなた様をお守りいたします」

 宣言すると同時にハイネは両手を離し後ろに倒れ掛かるとジーナは急いで腕を伸ばしその身を支えた。

 しかし衝撃はなく軽く、羽あるものを支えたような感じであった。

「ちょっとハイネさん危ない」

「えっどこかです?」

 とぼけているのに、完全になにも分かっていない表情のようにハイネが言った。これも演技か? そうだとしてもこれはいったい?

「いまのこれだよこれ。私の腕が無かったらあなたはそのまま後頭部を強打して」

「していないからいいじゃないですか。あなたがこうして支えましたし」

「だから私が腕を伸ばさなかったらハイネさんはそのまま後ろに倒れて」

「ですからジーナさんが腕を伸ばすのは分かっていましたから後ろに倒れたのですよ。なにを言っているのですか? 私を馬鹿にしないでください」

 何が何やら分からなくなってジーナが絶句していると真剣な表情をしていたハイネが笑い出した。

「フフッどうです?今のジーナさん的構文です。どうです? イヤですよね?」

「私は絶対にそんなことを言っていない」

「こんな感じですよ。人を困らせるだけの論理展開。どうです楽しいですか?いつものあなたが私に仕掛けてくる、こういうやり口」

「楽しいはずがないだろうに。あと私はそんなやり口なんてやっていない。危なすぎるって。繰り返すが私が腕を出すタイミングが遅かったらハイネさんがどうなっていたか」

 呆れと怒りを込めてジーナがそう言うとハイネのふざけた表情が一瞬真面目になり、それからまた横顔を向け嘲りに似た眼で以て尋ねた。

「そんなに危ない危ないって必死になって。もしかして私のことが心配ですか? へぇ意外ですね」

 心配なんかじゃない、と言おうとするも口からその言葉が出ず沈黙が数秒続くその間にジーナはハイネのその眼を見続けていた。

 炎を思わせるその瞳の赤。今は炎は燃えずに火が燻るように黒い炎のように暗い赤を宿らせ続けていた。しかしその眼はなんだろう?

「それなりに心配だ。ほらいつもこうして茶を飲む仲だし」

「嫌な人と呑む茶は美味しくないし止めにしたいとか思ったりしません?」

 腕の中で寝返りをうちハイネは顔を正面に向ける。やはりまだ腕に重さは感じられ無い。

「止めたいのですかハイネさん」

「決めるのは私じゃなくてあなたですよ。あなたが、そう望むのなら、私は構いませんよ」

 突然何を言い出すのかジーナにはその意図は分からぬまま心の中でそれを問うても、答えは帰ってこず。

「そんなおかしなこと考えることもなかったからわからないし、別に望んではいないかと」

「またはっきりしませんね。まぁこのぐらいで勘弁してあげますね。心配するぐらいには思っていてくれているわけですから、それなりにということで」

 意味不明なことを呟いているなとジーナが思っているとハイネは正面からこちらに半身になり下から覗くように顔を向けた。

「ついでなので真面目に仕事の話をしましょうか。あなたのことについてです。これから話すのは私だけの考えでは無く、周りの多くの人からそういう声が聞こえてくるということ。こうやってわざわざ話すということを事前に理解して聞いて貰いたいのですが、よろしいですね?」

 回りくどい言いかたであるがジーナは素直に分かったと伝えるとハイネは少し緊張した面持ちで口を開いた。

「もしもソグ山への戦争となったらジーナさんの隊は最前線に配置されるのでしょうけれど、その真正面の真ん中って……ジーナさんですよね?」

「前回と同じならそうなるだろうな」

「そこです。あなたは前回のソグ山の龍戦で活躍をして地位と評判が上がったわけですが敵側としてもあなたの知名度は高くなっているわけです。次の戦いでもしもあなたが武運拙く討ち死にしたとなりましたら、味方の士気はもとより逆に敵側の士気は上がるということになりますよね? つまりはあなたは影響力が高くなったのです。いいですか? このことからあなたはもう好き勝手できる立場ではないのです。戦争は個人競技でない以上はよほどのことがない限りはあなたは後方にいるべきです。そうですよね?」

 そうではない、とジーナは思うも問いの圧と力を感じたじろぐと同時に違う感情も湧き、そちらに傾いた。

「心配してくれてありがとう。配置についてはバルツ様が決められるので私はそれに従うだけだ。こればかりは私の権限ではなくいつものようにわがままを言っても通ることはない。私は決定に服従し戦う身だ。けれどもしも今回も前線に配置されたとしても、状況から前回に比べれば危険は少ないとも思う。それにね、私の後ろには功成り名を遂げたい兵隊が多くいる。私がいくらやる気を出しても私以上の勇気とやる気のある兵隊がいたら私はその後ろになるから、異名と違って最前線とはならないかもしれない」

 そう言うと緊張が解けたのか穏やかな表情へと戻るハイネを見てジーナは心のどこかが痛んだ。以前なら痛む必要などなかったというのに。

「それなら良かったです。けどこれはあなた個人のことをは心配しての良かったではありませんので。他の方々の心を代弁してのことですのでそこは間違えないようにしてくださいね」

「他の方々とはいったいどこの誰なんだろう。私のことを心配してくれるなんてよく分からないな」

「それはもうヘイム様……」

 その名を口にしたとたんにハイネの表情が凍り付き呼吸が止まっているように見えジーナは慌てて肩を揺さぶった。

「ハイネさん!?」

 虚ろな目を向けられジーナは焦った。

「言葉に詰まってどうしたんだ? ヘイム様のあとは誰?」

「あっはい! アハハッ」

 突然息を吹き返したハイネが誤魔化しのような笑顔となった。何なんだろうこの女は? 情緒不安定で自分がここにいなかったら危険だったので? とジーナはいつものしょうこりもない感想を抱いた。

「そうです! ヘイム様にシオン様にルーゲン師からバルツ様にキルシュと私とその他隊員たちの」

「ちょっと待った。それはただの知り合いの羅列では?」

「だって事実ですもの。あなたの知り合いってこれだけじゃないですか。つまりはそういうことですよ、そういうことでいいじゃないですか」

 言い切って安心したのかハイネはまた後ろに傾き倒れた。

「ハイネさん、それ以上は危ないから」

「だから大丈夫ですって」

「なにが大丈夫か分からないのだけど。危ないから少しは起き上がって」

「私重いですか?」

 空に向かっていうような変な言い方であったがジーナの耳は頭はそこの違いの機微など分かるはずが無かった。

「重いです」

 周囲の気圧が一気に堕ちハイネの眼の色が白炎模様となるがジーナは前を見ているために気づかずうろたえずだからすぐに次の言葉を繋げられた。

「けど今は軽いです。肩までハイネさんを支えていますが全然辛くないです。どうしていまだけこんなに軽いのか、分からないのですが」

 すぐさま気圧が上がりハイネの眼の色が白炎から茜色に変わった時にジーナは顔を覗き込み、その機嫌よさげな表情だけを見た。

「それはあなたの心次第とか考えません?」

「私の心とあなたの重さにどう関係します?」

「しますよ。そんなのあたり前じゃないですか」

「全然わからない。ハイネさんの重さはハイネさんの重さでしょうに。私に何の関係が」

「また出ましたねジーナさん的な構文。もーうんざりですよ」

 言うとハイネは腕のなかでまた自ら揺れて遊びだした。

「あなたが軽く感じている、それが真実であるのなら、もうそれでもういいじゃないですか。拒否してもきっとそこに変わりはありませんよ。ですから今はこうして私を支えていればいいのです」

 揺らし傾けたりと動き続けているというのに確かにジーナには重さどころか苦しさも疲れも感じられなかった。ハイネの肩の感触だけがその手にはっきりと掴みとり続けていた。

「あの、いつまでこうしているつもりですか」

「あなたが腕を離すまでですよ」

「そうしたら倒れますが」

「そうですね」

 二人は今日何度目かの視線を交わすが、ジーナはそのハイネの瞳に異常を見た。

「そうですね」

 繰り返し語る儚さを帯びたその言葉と今にも消えそうな光を放つ瞳を見たジーナは、肩にかけた手に力を入れ自らの方へ引き寄せた。

 するとハイネの微笑みが戻りジーナは心は安堵に満ち、告げる。

「とにかく、これをやめて離れる時はハイネさんの方から動いてくださいね」

「私から? どうしてです。これはそこそこに愉快なのでやめませんよ。止めたいのならあなたが手を引けばいいじゃないですか。今でもいいですよ、ほら、どうぞ」

 さらにその身を傾け腕によりかけるがジーナの腕は下がるどころか上がり、二人の距離はまた近くなり互いの息がかかるほどに。

「引いていいと再三言うのにむしろ寄せて来るとか」

 ハイネの手はジーナの右頬から頭を撫でに回る。

「あなたはいったい何をしたいのですか? 私はただ手を引いてとお願いしているのに。いま辛いですよね?」

「辛くはない」

「でもこの先きっと辛くなってもっと苦しくなりますからね。そうなったらいつでも手離してどうぞ」

「けどそのうちに私は手を引かざるを得なくなりますから、その時はハイネさんに引きますと言いますから身を起こして貰って……あの、なんでまた体重をかけるんですか、そこまで依存し過ぎると」

「そのうちに痛い目に合いますね。でもそれはこんなに依存しきったための罰であって、後ろに倒れて頭を打ち惨めな姿を晒したとしても、私は一人で自分の力で立ち上がりますから。あなたの手は借りずに。もっともその時のあなたは背中を向けてどっか遠くに行っているでしょうけれど」

 言った途端にハイネは視線を逸らし伏し目となるのを見たジーナはその心に一つの情景がよぎる。

 倒れたハイネが差し伸べる手を払い除け一人で立ち上がろうとする姿が見え、突然ジーナはまたハイネを引き寄せ抱き上げるように、立ち上がった。するとハイネの足は地につき自立する。

「これは反則ですよ」

 非難の言葉であるのにその嬉しそうな声のわけをジーナはによく分からないまま目を遠くに向ける。ここからでもはっきりとその頂きを見せるソグ山を。あそこに自分は……ジーナは息を呑んだ。