その女は心配そうな顔をしているためジーナはすぐに立ち上がった。

逃げなければ、この夕陽から、逃げなければ。

「いやいや大丈夫ですよ。ちょっとびっくりしたものでして。全然痛くはありません。ではちょっと急いでいるのでそちらに失礼」

 扉の中に行こうとするも眼の前の女はどかずに怪訝そうな顔でジーナを見つめていた。

 どいてくれ。

「急いでいるんですか?でもここは更衣室なのですけど」

 ジーナの背筋は冷えて身体が固まる

「あっ違うんだ。急いでいるのはその」

 女は真顔のまま答える。

「まぁ着替え終わるまでに行かないと無意味ですからそれは急ぎますよね。けど残念ですがここにいたのは私一人でしたからもう誰もいませんよ。それでもよければどうぞ。それとも戻って着替え直せとか?」

「だから違うんだ。その為に急いでいるんじゃなくて、その、わざと間違えるために」

 喋れば喋るほどにドツボに嵌っていく感覚に陥りながらジーナは思う。

 自分は何をやっているのか?

 そうしたら能面じみていた女が肩を振るうわせながらもはや耐え切れないのか笑い出した。

「それって自供ですよねって、フフッああもう駄目です。お話は分かりませんが、とりあえずあなたが不審者ではないことは分かっていますよ。だいたいこんな堂々とした不審者がいるはずありませんしね。それであなたは新しい龍の護衛の方ですよね。ルーゲン師から承りました」

 半ば弄られたと思いながらも解決してホッとするのも束の間、こうなると龍の部屋を教えられてしまうのではないかと心配すると、遅かった。

「私の仕事は終わりましたけど交代で今日はあなたが来ると聞きましてちょっとお待ちししておりました。迷ったり分からないところがあるかなと思って」

 余計なお世話ですという言葉を呑み込んでジーナは快活に答える。

「それも大丈夫です。迷ってもいませんし分からないところもありませんから」

「あっやっぱりそうだったんですね。ここが更衣室であることを承知の助で迷わず入ろうとしたわけでしたね。早く着替えといて良かったです」 

「そこは絶対に違う。ああ私はどうしてこの扉を開けてしまったのか……」

 ジーナは真剣に答えたが女はもはや彼が冗談を言い続けているとしか受け止められずまた笑う。

「おかしな人ですね。失礼ですが話と聞いた方と全然違うというかイメージが異なるのですけど、念のためお名前をよろしいでしょうか?偽者でしたら困りますし」

 偽者?

 それは違うと男は急いで名乗ろうとすると女が先に名乗った。

「あっ私はハイネと申します。出身はここソグではなく中央西です。それであなたのお名前をお教えください」

 男は改めて尋ねられ、答えた。

「……名前はジーナ。出身は西の砂漠の向うだが、これで合っているかなハイネさん」

 ハイネは声を立てずに口元と夕陽色に染まる瞳で笑みを現した。

「合致しましたよジーナさん。私の名前はキルシュからたまに出ませんか?」

「ええ出ます。あなたがそのハイネさんだったのですね」

「文句とかいっぱい言ってましょうね」

「……いやいやそんなことは」

「あっ間があったってことはそういうことですよね?別にいいんですよお互いさまで私達友達ですからフフッ」

 お喋りな女だ……こうなったら苦肉の策としてこのまま無駄話を繰り広げて大遅刻をしてはどうだろう?とジーナは思うもそれはすぐに砕かれる。

「おっと失礼いたしました。もうそろそろ行かないといけない時間ですよね。それでジーナさんは果たしていったいどこで迷って分からないのですか?」

 全く失礼じゃなかったよと思いながらジーナは言った。

「それはもちろん龍の部屋に行く扉がどれか分からなくてね」

「だから更衣室の扉に手をかけたのですね。ある意味で当たりを引いたわけで、大当たり」

 またハイネは笑い出しジーナは居た堪れなくなって広間の方を指差した。

「更衣室は置いといてだ、こんなにたくさん扉があったらどれがそうだか分からないじゃないですか?この広間の扉のことを教えられたのかもしれないが、私はちゃんと聞いていなかったので分からなかったのですよ」

「わからない?ふーん、わからない、ですか。あと扉のことは誰も教えるはずはないと思うのですよね」

 人を小馬鹿にした態度にジーナは軽い苛立ちと焦りを覚える。

 私は何か、間違えているのか?

「それはどういうことだ?だってあんなに扉があったら」

 言っている途中に右手に誰かの手が添えられ持ち上げられ見るとそれはハイネであり、まだ笑っていた。

「冗談が本当にお好きですね。どこがその扉が分からないだなんて、いままでそんなことを言う人いませんでしたよ。はい、人差し指を立てたままにしてください私が誘導しますから振り向いて、どうぞ。ほーら、あの真ん中の大きな扉、あそこが龍身の間へ向かう扉ですよ。見えますよね?迷う必要もなくとてもとても簡単で分かりやすいことです」

 ハイネに導かれたジーナの指先には龍の模様のある特徴的な扉があったというか、出現した。

「さっきはなかったのに」

 声が震えているもののハイネはまたふざけていると捉えそれに付き合った。

「ふーむそれは不思議ですね。となるとその可能性といえばジーナさんが無意識に見ないようしていたか、龍身様が不審者を警戒して扉を隠したか、または私が導いたから出現したか、そのどれかですね。どれだと思います?」

 にこやかな表情で楽しげに語るハイネとは対照的にジーナは扉を睨み付けていた。

「……その三つが重なり合ったからこうなったのでは?」

 ジーナは低い声で答えるもハイネはまた笑い声を混ぜて答える。

「なんです?ジーナさんは龍を怒らせるようなことでもしたのですか?だからこの役目を辞退したがったり、扉を無意識で見えなくしたり、挙句の果てには更衣室に侵入して不審者として捕まろうと自暴自棄的な行動を取ったのですね。もしもそれが本望ならそう報告してもよろしいのですが」

 我に返ったジーナは慌ててハイネの方を振り返った。

「更衣室の件は誤解なんだ。どうか信じてくれ」

「他のも否定していいのですけど。なにはともあれあの扉の先に廊下がありまして、その先に龍の部屋があります。どうぞお行き下さいな、あっ」

 ハイネの手がまた額に触れ表情を曇らせた。

「さっきの扉の一撃が……薄らと痣になっていますね。その、すみません」

「いや、こんなのどうってことないが」

「初日だというのにこんな目立つところに痕をつけてしまって……」

「痕だなんて。私の顔は痕だらけだから今更一つや二つ増えたって問題はない。こんな額のなんかよりこの頬の方に誰だって目が行くから」

 ジーナはこう言うとハイネの眼はその左頬の痕を凝視し首を軽く振った。

「その傷痕と私がつけた痕を同じものにすることはできません。その多くの痕は龍のために負った名誉あるものですよ。あなたをここに導いた栄えある勲章、そのはずです。しかし……どうすれば」

 龍のため?

 その言葉にジーナの心に黒いなにかが覆う。
 衝動的な感情が胸に集まるのを感じ、抑えるために手を強く握った。

 この手の勘違いはいつものことであり堪えられるものであるのに、どうしてかジーナは眼の前のハイネの表情に戸惑いと怒りを抱いた。

 違う、悲しむことは無い、あれにはそんな痛みをあなたの苦悩を捧げるような価値など無い、あれは……これは……

「これはそういうものではないんだ。この痕は戦場で負ったものではなくそれ以前のもので……なんというかそう、授かった印、ある意味で天啓といえるものかもしれないな。だからハイネさん。そういう解釈はしないでくれ。そういうことではないんだ。苦しまないでくれ」

 まるではっきりとしないことを苦しげに説明するとハイネの表情は安心したのか若干和らいだ。

「だからあなたがつけた額のこれもある意味では天啓であるかもしれない。まぁそんなことだから心配は不必要だ。この顔は龍とは無関係な傷が沢山あるんだから」

「ならば私のは天啓というよりかは人啓といっても良いですかね。しかしそうなりますとあの御方のは龍啓と言えるかもしれませんねフフッ」

 我ながら上手いことを言ったと思っているのかハイネは一人で笑い出したが、ジーナは尋ねた。

「あの御方って、ヘイム様のことか?」

「ヘイム様?」

 ハイネの赤い瞳が左右に揺れた後、真ん中に戻った。なんだろうその反応は?

 昨日のルーゲン師のような反応で。

「ヘイム様、とあなたは龍身様をそう呼ばれるのですか?どうして?そのようなかつてのお名前を?」

「一身上の理由でちょっと」

「龍とトラブルがあったから?」

「あの、そういうのは」

「冗談です。宗教上の理由とかですね。ふーんヘイム様、か。ヘイム様ヘイム様……フフッ、フフフフッ」

 うつむき独り笑いをしだしてジーナはそのわけを聞こうとするとハイネは笑顔で見上げた。

「そう呼ぶのは、良いことだと思いますよ。私は賛成します。是非そうなさってください。私もあなたといる時はそう呼ぶことにしますね」

 何故?と聞くことをどうしてかジーナは躊躇った。まぁいい。

 どうせ今日一日だけの務めなのだし。

「では初日を頑張ってくださいね。龍のお部屋にはそのヘイム様とシオン様がいらしておりますので」

 聞き慣れない名前が出てきたためにジーナは記憶を探ってみると、あれはたしか……

「龍の騎士だっけな、そのシオン様というのは。どのような御方で?」

「どんなとは。これだから外部の人との会話は新鮮ですね。こっちはもう知り過ぎるほど知っているからそんな風に考えることすらありませんよ。うーんそうですね……はい、シオン様はとてもカッコいい御方であらせられますよ。見れば惚れ惚れしちゃうぐらいにです」

 ちっとも参考にならないことを聞くもジーナはそれを心に刻んだ。

 とてもカッコいい男である、と。

「では、行ってきますね」
「はい、いってらっしゃい」

 手を振るハイネを尻目にジーナは扉に向かって進む。

扉に入るふりをして違う扉へ……はもう無理だと観念した。

 背中に強い視線を感じる。

 これはハイネによるものだろう。ここで途中で引き返したら額の痣を気にしてといった意味として彼女は捉えてしまうかもしれない。

 私は口では違うと言っても行動がそれだと解釈するだろう。こうなったら、とジーナは腹を括り感情を押し殺しながら龍の扉に手をかけ、開く。

 不快な空気が中から流れ込んできたためジーナは顔を背けるとハイネと目が合った。

「私と仕事で重なる日は少ないでしょうから、次お会いできる日はいつかは分かりませんが、私のことを名前も含めて忘れないでくださいね。もっともあの最前線の英雄であるジーナさんに傷を負わせ膝をつかせたこの私のことは、忘れたくても忘れられない女になるでしょうけどね」

 微笑みながら軽口を言うハイネにジーナは息を吐く。

「ええ忘れませんよ。傷と一緒に覚えておきます」

「傷物にされたってことですか?ちょっと責任は取れませんね」

 何を言っているんだかとジーナは手を振り中へと入り扉を閉じた。

 眼前に広がるは長廊下。

この龍の道の果ての果てに扉があることを眼で確認したジーナは思う。

 これは自分の目が見せている抵抗感なのだろう、と。
 実際はもっと短いはずだ。今はその時ではない、そういうことだ。その時はまだ先であり、それは必ず訪れる約束の時。

 だとしたら……どうしていまここに私はいるのだろう?だが、行かなくてはならない。

 ジーナは矛盾した心のまま足を一歩前に出した。