こちらヒロイン2人がラスボスの魔王と龍になります。

「予感はありました。アリバさんから手紙が来る前に東の方角からなにかが届いたのだろうか、夜に目覚めどうしてか涙が流れました。俺にはどうもそういう不思議な勘が働くということが以前もありましてね。虫の知らせというのでしょう、その時というのが分かってしまう。あなたと見えた時も俺は驚きはしましたが、すぐにそうなのかと気が鎮まりましたがそれでも内心は荒れ狂っていた。違うのではないか? とか。あるいは――が使命を果たせずに帰ってきたという知らせなのか? はたまた偽者なのか? 思いが乱れてしまいあのような態度となってしまい、大恩あるあなたに対しお恥ずかしい次第であります。申し訳ない」

 頭を下げるツィロに対しハイネも頭を下げる。

「立場というものもありましょう。こちらこそ御歓迎下さり感謝いたします」

 山の中腹にある休憩所からアリバとハイネは村へと案内され、ここツィロたちの村、彼らの村へと辿り着いた。

 村へと入る際にハイネはまず匂いを感じ取った。彼の、匂いがすると。

 それはたまにその身体から漂って来た匂いであった。奥深いところから、その根底にあるなにかから漂ってくる匂い。

 これがそれであり、その懐かしさを思い出しながらハイネは深呼吸をする。あの人はまだここにいる。

 村は収穫祭の前夜祭のために誰もが慌ただしく動いておりこちらの来訪者に構ってなどいられなかった。

 ツィロの傍にいた男達も準備だということで駆け出していきアリバもまた手伝いに引っ張られていく。

「そうそうここの串焼きはな別格なんだぞ! 焼き上がる寸前になったら呼びに行くから待っていてくれ。いいかい? 呼び出したらすぐに来るように頼むぞ!」

 アリバはハイネに強く強くそう告げて遠くに行った。そうして今いるのがここ村長の家の客室。

 外がほの暗くなってくる時刻、夕陽が来る寸前の時の時。まだ翳りゆく前の部屋。

 頬に疼きがあり、これはここが自分のものへと帰ってきていることを意味する痛みだとハイネは思う。疼きと痛みもまた癒しということなのか?

「あなたにだけ打ち明ける話がありましたのでこちらにご案内いたしました。他のものは祭りの準備で忙しいのも好都合です。実は――は印を受け取ったという話を村の者たちは皆知りません。旅立ったのは先代のジーナということとなっております。あいつはいまだに村から追放された呪身という身なのです。知っているのはさっきの男達、彼らは村の責任者たちだが、その者たちと俺のみでしてね。これもまたこちらの恥ずかしい話で面目ないのですけど」

「そうですか。しかしこの収穫祭は彼の歓迎の意味もあるのではありませんか? そうでないとあまりにもタイミングが良すぎて」

 謝罪や照れ隠しの意味があるとしかハイネには思えず、窓から外の様子をその陽気さを眺めた。

 お祝い。印の帰還を祝して、龍を討ったことへの感謝。そのひとつひとつがそうとしか聞こえずにいた。

「偶然です。そう誤魔化してもよかったのですが、あなたに対してそういう嘘は吐きたくはなかったです。もっとも俺はあいつがこの祭りの時を狙ってどさくさ紛れで帰ってきたとも思っていましたがね。それで、ですハイネさん。この度の経緯につきまして」

「秘密にしてもらいたいというのなら、私はそれで構いませんが」

 ハイネが本音で返すとツィロは首を振った。

「いや逆です。この度の経緯を私は祭りの最中に村の者たち全員に伝えようと思います。あいつはいまだに呪身であり、汚名に塗れています。混乱はありましょうが、それでもやります」

「そうですか。私に出来ることがあるのなら仰ってください。協力致します」

 そうハイネが言うとツィロは不思議そうな顔をして首をひねる。ハイネも真似をして首をひねり思う。変な事でも言ったのかなと。

「いえ、不思議だと思いましてね。あなたは――の不名誉を返上するためにこちらに参ったと思ったのですが、どうも違うようで」

「ああ、そこですか。私は純粋に印を返しに来ただけです。他のことは特になにもありません」

「それだけなのですか」

 増々首のひねりを加え身体が傾き出しているツィロが重ねて尋ねる。

「はい。それだけです。何も無ければすぐに帰りますけど、お祭りがあるようなので参加できるのならしたいですね。あの食漢そうなアリバさんが張り切るぐらいですからそれはもう美味しい串焼きがあるのでしょうし」

 そう答えるとツィロの首は色々大きく傾き身体が頭の重さで傾きが増し、ハイネも一緒に首と身体を傾けていく。

 するとツィロが耐えきれず身体が椅子から落ちた。ハイネは椅子が傾くもバランスを取って倒れずに済み、元に戻した。

 ツィロは謝りながら再び着席するとなるほどこういう人かと、ハイネはツィロの人柄が分かったような気がした。

「その、ひとつお聞かせください」

「もちろんどうぞ。別にひとつだけでなくてもいいのですよ」

 微笑みながら聞くとツィロはまた首を振る。とても聞きにくいことを聞くのだなとハイネは構える。

「とても大切なことをひとつ聞きたいかと。聞かずにいたことの方がおかしいのですし、確認といっても変ですが……その、ハイネさんは――の結婚相手といったものですか?」

「いいえ。違いますよ」

 多分そんなところだろうなと予想通りの質問が来たので簡単に返すとツィロの表情は複雑となった。

「そうか。では……恋人同士であったと」

 だとしたら次はそう聞くのは当然よね、とハイネは頷きながら言う。

「それも違いますね」

 あっさりと言うとツィロの表情はますます難しく、複雑怪奇に遭遇したものの顔となってハイネは笑いを堪えた。

「だとしたら……そうだとしたら……ええっと」

 次の言葉は、ない? そんはずはないとハイネは問われる前に答えた。

「同僚という関係ですね。一応友達という関係だとも言えますが」

 これもこれで適切な言葉ではないなと思いながらそうハイネが言うとツィロの表情は真っ白になった。

 そう、こんがらがった糸の塊が解けたではなく切られたかのように。

 信じられないものを目にしむしろ自分がどこか間違えているのではないかと問うているように。

「そんなにおかしなことでしょうか?」

「……そこまでどうして」

 それは問いではなく、ただ驚きを言葉にしたものであった。

「どうしてってそれはもう……」

 それはもう、とハイネは口にし沈黙する。私はどうしてここまで、とハイネは問う。

 私はいつも自分に問い続けてきたのに、あの日から問うのをやめていることに気付いた。

 名を、聞いた時から。不思議だ、とハイネは思う。名前を聞いた瞬間から私はずっと考えない。

 頬に印を刻むことも砂漠を越えることも、そのあらゆる危うさを前にしても私は……やめようとはまるで思わなかった。

 これがもしも違う人だったら。シオン様やキルシュであったのなら私は全力で止めて身体を縛り付けてしまうだろう。

 そして何度も何度も説得をし続け考えを改めさせる。

 落ち着いて、冷静になって、考え直して、ほら、だって、もうあの人は……何かが落ちる音がしハイネは机の上を見下ろす。

 濡れている。また、濡れた。雨が降っている? ほら、また一滴、机の上を汚す。

 反射的に目尻に指をかけるとその先が濡れた。目が勝手に涙を流している。

「あっ申し訳ありません。机を汚してしまって」

「いえ、こちらこそ失礼なことをお聞きして申し訳ありませんでした」

 ハイネが机の上を拭きながら答える。

「いいえ。そこを聞くのも普通のことですからお構いなく。まぁそうですよね。常識的に考えましたら、代理として顔に印を刻むのを許可し砂漠越を決行するというのは、並々ならぬ関係でないと考えざるを得ませんよね。けど私達は長い付き合いの友達というよりかは同僚であったのが実際ですね。なら彼の過去の話を聞き続けた相談相手であったかというと、それも違いますしね。あなたもご存じでしょうが、彼は自分のことを人に語るのが好きではありません。ましてや異国の女になど。ここに来る直前に私は初めて彼から重大な過去の話を聞きました。名前に印、故郷に使命のことです。私は頼まれたのです。印をここまで届けて欲しいと……私に託したのです……私しかいなかったのです」

 そう、私だけ……けれどもどうして自分だったのだろう?

 ハイネは思い出す、あの日に開けた扉に何かが当たった時の手の感覚と音を。

 何かに当り引っ掛かり扉が十分に開かなずその隙間から見た光景を。はじめて出会った日の瞬間を……まだ名前すら知らなかったその人を。

 ツィロはいまだ神妙な顔をして話を聞いている。きっと意味が分からずまたうかつなことを言えないために些か緊張しているのだろう。

 理解できないか、とハイネは心中で苦笑いする。それはそうだ……自分にだって、分からないことだらけなのだから。

「そんなに特別なことではありません。私達にとって当然のことをしただけです」

 いや、特別だろうという声が聞こえた。ツィロはうむと言っただけだが、そう聞こえた。だからハイネは答えた。

「当然ですよ。彼だって印を頬に刻み砂漠を越えたじゃないですか。どうして私がそれをやるのが不思議なのですかね。彼が越えられたというのなら私にだって越えられます。彼の頬に印の痕があるのなら私にだってあっていい。傷をつけ血を流す……それはいつも私達がやっていたことです。その延長がこれであり、だから私はここにいるのです。たしかに同僚や友達……と言い難い関係でありますね。こう言えるのかもしれません。私達は傷つけあう関係であった。私達はお互いに苦しめ傷つけ血を分け合った仲……そう言えるのではないかといまは思います」

 そう憎しみあう仲。愛していたよりむしろ恨んでいた時の方が長いのではないか? とハイネは手を握る。

 出会っている時は確かにそこには愛があった。だが離れている時、傍らに存在しない時、私の中の心は……

「憎しみあう仲……」

 ハイネはツィロの呟きに我に返り、見る。ツィロの目からは涙が滲み出ていた。

「あなたになら言っても良いでしょう。ハイネさん。俺は――を憎んでいました。心の底から、です。でもあなたはあいつから俺への恨み言は一言も聞いていないでしょう。その上あいつは俺のことを憎んでいたことはないと思います。これは俺からだけの感情です。一方通行的な憎しみ。これを俺はずっとし続けてきた。実は……これを話していいのか……あなたに」

 意識に躓いたツィロの何かに気付いたのかハイネは身を乗り出し、その手を取った。

「私にはそれを聞く権利があるのではないですか?」

 捕えられた獣ような怯えた眼をしたツィロが瞼を閉じ頷きながら語りだした。

「ジーナとは……私の妻でした。もっと言えば――の妻となるものだったのです」

「だから、ですか」

 長年の胸のつかえ、その違和感が消えていくのをハイネは覚える。

「そういうことだったのですね」

 ツィロの手から離れハイネは姿勢を戻し椅子の背もたれに全体重をかけて息を吐く。

「ああ、そうでしたか」

 そして覚える胸のムカつきと不快感であった。自分がずっと戦い続けていた相手、敵とはそれであったのかと。

 自分の倒すべき相手は、それであると分かった。

「――が代理というのはそういうことです。あいつは妻になるものの願いを聞き、旅立ったということで」

「そうですか」

 ハイネは初めて机の上に出されていた菓子を口にしだし、感動する。

 むっこれは中央の焼き菓子に似ている、というよりも同じもの?

 かなり素朴というか昔風の味だが、これもまた中央から伝播したものではないのか?

 これは中央に帰った際に報告すべきことであり……

「元々――はジーナとなる予定のものでした。しかしそうはならなかった……そうであったら彼女は予定通りに妻となっていたでしょう。それどころか彼女の方がジーナとなることになってしまった」

「女のジーナというのは珍しいものなのですか?」

「はい。けれども初代のジーナは女であり、その後はずっと男が続き今回は久々に、と言っていいでしょう。始祖以来はじめての女になりました」

 もしもそうのままであったら私達は出会えず、私はここに来ていないかった、とハイネは妙な気持ちで話を聞いていた。

「その結果に――は山から下り、アリバ氏のもとで仕事しだしました」

 そこから先のことは知っている。アリバさんと何度も死線を超え生還したという物語を。

 だがその前にもそんな物語が、しかも一人の女を中心にしてか、とハイネは口中に苦味を感じ茶を口にした。

 けれども舌の上に苦さが残り茶では流れなかった。

「だけど彼はジーナに執着し続けたということですよね」

「そうです。あいつはその役目と使命を背負うことのみを人生としてきた男でした。昔からずっと……そのために生まれてきたような男で。それなのにどうしてこんなことになったのか? 何故あいつではなかったのかいまも不思議でならない。だがあいつが適任ではないと印がお決めになられたのです。我々はそれに逆らうことなどできはしません。逆らうものは呪われた身、呪身となる。実際にあいつはその運命を受け入れられず呪身となった。この村ではジーナを崇拝することでのみ人として生きることができると考えております。そのジーナに逆らい信じぬ不信仰者は、存在してはならないものであり、呪われた身。そして彼女は私と結ばれたのです。村長とジーナの結婚もまた始祖の時と同じようでして」

 導くもの……とハイネはどうしてもそう連想せざるを得なかった。

 信仰と存在とどこからどこまでも中央の龍の件と繋がる。

 まるで表裏のように……もとがひとつのものであったものがふたつに別れたように。

「しばらくの時が経ち誰もが――の名を口にしなくなりました。あいつはいないものとして村の時が流れました。妻の口からもその名は聞かず触れられず、あの妻もまた忘れることにしたのだと思います。けれども俺だけはそれが無理でした。はっきりと言いますが、俺は忘れることはできなかった。なにせ俺はあいつが最も欲していた女を妻にした男となったからな。ハイネさん、俺たち三人はね、幼馴染であり素晴らしい関係だったと俺は今でも信じているんだ。ジーナとなる――にそのジーナの妻となるもの。その二人を後ろから見守り支援する俺。そういう一切隙の無い完璧な秩序が整った関係……ハハッ」

 ツィロが力なく笑い出した。自嘲的な痛みすら感じる笑い声を聞きハイネは聞き覚えのあるものだと感じた。

 よく聞いていたその笑い声の響き……いったいどこで聞いていたのか?

「でもこれはな、俺という存在の犠牲の上で成り立っているというものを、あなたはお分かりでしょう」

「ええ、分かります。ツィロ村長は自分の感情を押し殺していたことを。あなたもまたずっとその女のことを愛し続けていたことを。ずっとずっと諦め続け長年二人に良い顔をし続けていた。だがもうそうしなくて良い時が来たことを」

 ハイネが答えるとツィロの顔が硬直してから歪み、笑み、暗い陰が射し、それから曇り崩れ、苦痛に耐える男のものへと戻った。

 古い染みのような憑き物が落ちたかのように。

「幸せでしたよ俺は。夢というよりかは妄想が叶ったような状況でしたからね。印の儀式の後に彼女は私に告げたのです。彼は呪身となって山から下りたと。私が彼を呪身にしたのだと……これは死刑宣告のようなものです。そして私はわけがわからないほど無我夢中で動き出しました。ジーナが女である場合に結ばれる相手は村長もしくはその候補者のみであると始祖の文献を手に説得やらなにやらをです。こうして俺は望みは叶えました。あいつがいなくなってから、そう、逆なのですよ表と裏のようなもの。俺はあいつの犠牲の上でこの幸せを成り立たせたのです。ですから、そうなのです、俺だけがあいつのことを片時も忘れられないのは。いつの日に、あいつがここに戻ってきたら、どうなるのか? これが誤りであり間違いであることを証明されてしまうのではないか……俺はずっと間違えていたのではないかと。そう思い続ける毎日でしたが、ある時期から西から龍が出て来る頻度が高くなりまして、ジーナはその対処に追われる日々が続きました。例年と比べて異常なほどに出てきたことから武器の調達が急務になりまして、俺は山から下り街へと行きました。別に村は閉ざされた世界でも門外不出の世界でもありません。ただ単に双方に行く理由も来る理由もないに過ぎないことです」

「そうですね。こんなすごい山の中、わざわざ好んで来る人も苦労して降りる人もあまりいなそうですね」

「ハイネさんとアリバさんが今月に入ってはじめての来客となりますね。それで俺が街の中央通りを歩いていると、気づきました。あちらもすぐに気づいただろうが、確実に俺の方が先に気付きました。――がいました。だが俺でなかったらすぐには分からなかっただろう。砂漠の日に焼けて色黒くなり以前よりも痩せたあれに。俺であるからこそ、分かり、見た。そうするとあれが話しかけてきたが俺がほとんど会話を拒絶した。話すことなど、ない。だがあの怒りはなんの怒りだったのか? 呪身に対する村民の模範的態度? いいや、違う。己の疚しさに対する抵抗と言ったものでしょう。俺はたぶん俺自身の不正に対して怒りあいつに八つ当たりをしたんだ……実際にあれはこちらに対する怒りはなかった。それが余計にこちらの怒りを増幅させたかもしれない。もしもあれが俺に訴えでていたら、怒りをぶつけて来ていたら、それの方が心が安らいだかもしれなかった。しかし……あれはそういうことをしない男だ。してくれた方がどれほどこちらにとって救いと安らぎになるのかが分からないんだ」

「その気持ちはよく分かります。彼はそういうところがありますよね。なんか、こう、逆のことをしてきて困らせるというか、まぁ人の感情に頼るということが、そもそも誤りなのでしょうが……難しいところで」

 ツィロは無言で頷きハイネは思う。そう、なんて難しいのだろう……と。私がずっと苦しんで来たのはきっとそこで……

「その夜に村は龍の大攻勢に会い危機に襲われました。空前絶後の出来事であり、おそらく東の地で何かが起こったためであると俺には思えます。その戦いの半ばに俺は情けないことに倒木によって足を挟まれ、今も完治できていないぐらいの障害を負ってしまってな。それはともかくそこに奴が帰って来てくれた。俺は正直複雑な気持ちだったが、もうそんな状況ではないので村長としてやつに助けを求めた。そしてあいつはそれを成し遂げてくれた……瀕死となったジーナを救助してくれたんだ」

 ここでツィロは初めて茶を口に含みしばし沈黙する。そうだ、この話はこの人の妻が亡くなったという話なのだとハイネは今更気が付いた。

 もう死んでしまった人の話……他人である私にとっては他人事、だがこの人にとっては自分のこと、または昔話ではなく今の話。

 けれども呼び名のことがずっと気になっていた。ジーナ……ジーナ……ジーナ……それは称号の名前のこと。

 だが私はかつてその名を一人の男の名として呼び続けてきた……そこにはある心も込めていた……

「火災や混乱が続く村では治療が困難であることから応急処置をした後にアリバ氏のもとで治療と療養をしてもらうこととなりました。それと……この状況でジーナが瀕死であることを村の者たちに知らせることを避けたかったのです。ジーナが龍に敗れ取り逃がし、重体になった。有り得ない事態であり恐慌状態に陥るでしょうしジーナ自身もその事を伏せて貰いたかったはずです。だからそういうことにしたのですが、後に聞いた話ではその龍は、毒を有するものだったとのことです。しかも今までにない猛毒で」

 毒? とハイネの身体は強張った。それはすぐに関連づけられたが、呑み込んだ。それはつまり……

「印の力と薬の効果もあって傷は塞がったとしても、中に入った毒を解毒することはできずジーナは日に日に衰え、死へと向かって行ったとのことです。しかし俺はそのことを知りませんでした。村の者たちにはジーナは龍を追跡しているとしか告げることができず村の復旧に全力で当たらねばならなかったのですから。でもこの心はいますぐにでもアリバ氏の家へと行きたい気持ちでいっぱいでした。だってジーナの傍らにはあいつが……あいつがいるんだから。アリバ氏には危険な状態になったら連絡をくれとだけ伝えていたが、ある日、手紙が届いたことから俺は痛む脚に鞭打ちながら山を下りたんだ。驚き止めようとする何も知らない村の者たちの手を振り切り、俺はアリバやジーナのいる街へと向かい、そして……」

 雨の音が、聞こえてきた。ハイネは窓に目を向けるが外はそのような雰囲気ではなかった。それでもハイネには小雨の音が聞こえる。

 まだ印の力が消えつつも残っているのだろう。だから聞こえる。まだ薄暗く陽と陰が混じり合いどちらともつかない光景の中の音色が。

「……雨が降っていませんでしたか?」

 聞かれたツィロの目は左右に泳いだ。思い出そうとしている。完全に覚えている強烈な記憶の中での忘れ物を。失った記憶を……

「そっそういえばそうだが、どうして分かったのです? まさかあいつが」

「彼からは聞いていません。ただ聞こえたのですよ、あなたの言葉から。こうやって瞼を閉じるとどうしてかもっと聞こえるのです。あっ大切な話なのに話の腰を折ってしまい申し訳ありません」

「いえ。そこも大切なところでした。その後の印象が強すぎて俺は忘れていましたよ。そうです地面に落ちたらすぐに消えてしまうほどの微かな雨が降っていましたが、俺は杖を突きながら走っていて熱くなっていましたから気付かなかったかもしれない。もう少しでアリバの家というところで、大きな影がこちらに向かってくるのが見えたんだ」

 小雨によって視界が見通しが多少悪くなっている、と想像上の光景をハイネは闇の奥で見ていた。

 ツィロは呆然としてその場で立ち止まってしまう。どうしてだろう?

 駆けよらないといけないのに、話をしないといけないのに、それを拒絶するように足が動かない。

 小雨で薄暗いとはいえ光が射しているのに影はまだその闇の濃度が薄まらない。

 近づいてきているのにそれが誰だか分かっているのに、依然として闇を纏いそれに支配されているものがいた。

 その姿は呪身という言葉に相応しく、私の知っている人がそこにいた。

「頬に印を刻んだ――でした。それを一目見た瞬間に全てを悟りました。そのことを受け入れようが受け入れまいが、そこには厳然なる事実があった。――はジーナを殺したのだとね」

 ハイネは何の感動もなくその言葉を聞き目をつぶったまま手元にある菓子を齧る。

 ごく素朴なつまらないといっていい味が口のなかで広がった。

「その時の俺の心を言葉にすることは、不可能です。それが儀式であったことは確かなんだ。龍によって殺されたものはジーナである資格を失う。ジーナの相棒という役目は龍と戦うことであると同時にジーナの名誉を護るということもある。瀕死のジーナを殺し印を継承する……極限状態ではそれが許される、唯一の手段だ。過去にそのような例はひとつもないものの始祖からの掟のひとつとして残され伝えられてきた。あの雨の中で見た――はその儀式を終えたものであったんだ。だがそれは俺にとっては見てはならないもの、あってはならないもの、その全てがそこにあり、俺はそれを否定しなければ生きていけないと思ったことだけは確かだ。そうだから――を罵倒し呪いをかけた。使命を果たせずにお前は砂漠の向こうで死ぬ。お前が死ねばよかったと心の底からあいつに告げた……俺は――を殺した」

「違います」

 ハイネは瞼を開き光のいまのこの世界に帰ってきた。

 ツィロが眼の前にいる。涙を流し悔恨する男。

「呪いなどなく、呪いがあったとしても私達はここに帰ってきたではありませんか。あなたにはそのような力はなく、そのように悔いる必要もありません。自分で自分に呪いをかける必要はないのです」

 ハイネの言葉にツィロは頭を下げた。

「申し訳ない……いや、ありがとう」

 その両の眼からは涙が引いて行き初めて会った時からその身体にまとわりついていた陰が、闇がどこか薄れていっているように見えた。

 それが呪いなのだろうか……呪い?

 呪い、といえば……不意の衝動でかハイネは頬の痕に手をやった。そこにいま鈍い痛みと微熱しかない。

 鏡はないがいまも刻一刻と印は消えているのだと触れれば分かる、私自身が治している……消しているのだ。

「印の文字……」

 呟きは内に入って音を立てて響いては消え、消える音が中で反響し続けている。

 あの人は私に、何を刻まなかったのか? 私に……何を与えたくなかったのか……何を伝えたかったのか?

「ツィロさん。私からもひとつだけどうか教えていただきたいことがあります。」

 そう、ツィロに聞きたいことがある。他の女のことなんかではなく、彼と私自身に関わる重大なところ。

 ハイネは頬に触れそこに指を当てなぞろうとする。そこにあるはずだった文字を、彼の頬に刻まれた一筋の文字列を。

 だがハイネの指は止まる。私は知っているはずなんだ、と記憶を辿ろうとする。幾千とも見た彼の左頬の印を。

 しかし指は動かずに代わりに口が動いた。

「……あなたも――の左頬の印は見ましたよね。覚えていますか?」

「もちろんです。俺達は印のことについてのことは忘れることはない。そういうものたちですよ」

 それなら、とハイネの心は緊張する。解決するのではないかと。その謎が。

「ここに帰った印なのですが、彼は私にひとつの何かを刻まなかったのです。それとは、なにでしょうか?」

 ツィロは頷き息を吐き、厳しく冷たく、寂しげな眼つきでハイネを見る。

「分かりません」

 ハイネの身体が傾いた。

「落ち着いて。それは封印のことですから当然のことなのです。封印とは代々受け継がれて来た印の他に現ジーナが後継者に対して唯一新しい何かを刻むものであり、それは刻んだものにしか分からないことなのです。それはそうです、刻まれた本人は封印されているのですからね。自分が何ができないのか、やれないから不明です。ハイネさんは思い出せないようですが、ごく普通のことです。次の後継者に刻まれたら以前にあった封印は誰にもわからなくなるのだから。何故ならその封印とは当事者にのみ意味するものであり、他のものには無関係のものです。この封印とはジーナとの間に共有されたものであり、我々のような村民にはまるで不明なものです。異郷の古代文字の筆記体のようであり始祖の記憶によって書かれるのでしょう。読めるはずがない。だけどそれを刻むという意味なら俺には分かるような気がする。ジーナとは龍を討つという使命を持ったものであり、人間を超えなければならない。人間であったらいけないのです。その封印とは龍を討つために必要な心の何かを封じるためのものだろう。俺は何人かのジーナに会ってきたが、劇的な変化はないものの人が少し変わってしまうと感じられた。村ではこれはごく当たり前のことだと受け入れている。ジーナは――になにかを封じ、禁じた。これは確実だ……俺はたまに思うんだ。最初から――がジーナになれなかった理由を。それはあいつがあまりにも人間的すぎたからかもしれない。山を下りた後のあいつはジーナに憑りつかれていた、いやなりたかった頃よりもずっとジーナに固執し続けた。そこにあいつの全てがあったのだろう。だからこそ、そんなものを後継者にするわけにはいかないと印は判断したのかもしれない。だが結局あいつは印を刻みジーナとして旅立った。印と封印を刻み……」

 言い切るとツィロは茶を一口すすり瞼を閉じ沈思する。

 その間ハイネは身動きできずに自分の手を見る。両の手はいつの間にか絡み合い結ばれひとつになっていた。

「俺は東に行った後の――を知らない。だからその封印がなんであったのか推測はできない。その疑問に対して何の力にもなれないがハイネさん。俺に聞くのではなく自分自身に問うてはどうでしょう? そこに答えがあります。ずっとあいつと共にいて、ここまで来たあなたなら、分からないはずはなく分かっているはずです。それに――はあなたの中にいる、そうですからきっと答えてくれるでしょう」

 ハイネは合掌となっていた手を解き広げ、微笑んだ。

「そんな、あんな大きい人が私の中にいたら破裂しちゃいますよ」

 ツィロも笑った。今日、はじめて歪みなく笑った。

「大丈夫。あなたはずっと大きい人だ。ずっとずっと……あんな大きな男を受け入れられるぐらいにね」

「大きいというかデカいという表現が合っていましょうね」

 すると外から大声が聞こえたので二人は窓を開けるとアリバが必死の形相でそこにいた。

「何をしておるんだ! もうすぐ肉が焼けるぞ! もうすぐにだ! ワシは二人を待って肉を犠牲にすることなどできんからな! 悪く思わんでくれよ!これが最後通牒だ!今すぐ来るんだ、じゃあな!」

 叫び終わるとアリバは走っていった。

「あの、行きますか?」

「そうだな。まっアリバ氏が慌てているということはまだ余裕があるということだ。ギリギリならあの男は肉を取るからな。それほど急がなくてもいいのだが」

「それなら、私はここで少し休んでから行きます。いいでしょうか」

「そうしてくれ。さぞかし疲れただろうし、一人にもなりたいでしょう。好きなだけ、お休みください」

 ツィロは席を立ち扉へと向かい出る前に振り向いて言った。

「ハイネさん、ありがとう。あなたのおかげだ。俺も――も助かりました。そして――はなんて……とね。ではまた」

 扉が閉まりハイネは席を立ち窓辺に立ち、夕陽を見て浴びる。赤光のなかでハイネは思う。

 あの時に思ったように謎なんて無かったのだと。自分はずっと知っていた。封印されたものがなにであるのかということを。

 封印というのは知らなかった私は幾度となく幾百となくそのことで苦しみ傷つけ、血を流していた……ハイネは頬に痛みを覚え指先で触れ、拭う。血が出る。感傷で濡らした指を見るがそれは夕陽に照らされ、ひとつの色となっていた。

 異なるものであるのにこんなに限りなくひとつになる……私達の間には皮膚がありその下に血が流れていた。

 壁があり膜があり隔てられ私とあなたがいた。いつまでも乗り超えられなかったものがあの時、一瞬だけ乗り超える。

 ひとつの感情で以ってひとつになるために宿命を封印を破り、いま私はここにいる。

 だが……これはいまだけだろう。私はきっとこのことを忘れる。いや、もう忘れだしている。

 栄誉ある傷痕となり肉の再生とともにその力は薄れ消えていく。

 それはあなたへの記憶と感情と同じく、無の彼方へと、どこよりも遠く遥かな場所へと向かって行く。

 私はそれを止めることはできない。私はいまここに留まるほかないのだから。

 いま、ここにある確かな感情を抱いたまま生きていく。

 これから先のことは分からない。明日の朝、あなたの全てが私から抜け落ちているのかもしれない。

 いや、一分後に一秒後に……一瞬き後にこの心は、消滅するかもしれない。

 夕陽が私を包んでいるとハイネは感じるその中で思うものの窓辺に手を掛け身を乗り出し、より赤光のなかへとその身を近づける。抵抗するかのように。

 それでもいまここに変わらぬ心を抱いていると言うことだけは疑いようが無い。

 だからいまだけ、あなたを愛そうとハイネは思う。いまだけ、いまのみ……それなら私はあなたに真実を捧げることができる。

「私はあなたのことを愛している……いまはね」

 それでいい、とハイネは思った。それ以上のものはなにもない。

 その心であったからこそここまで来れた。これは私達でなければならなかった。それ以外に私達には何も無く、このまま失っていく

 だがそれでいいのだと、ハイネは夕陽に背を向け扉へと向かう。

 その途中にハイネは頬にハンカチで拭い反射的に、見る。

 しかしハンカチは新しい血で汚れてはおらず固まった古い血のみがあり、さっきまで疼いていた鈍い痛みも引いていくことを鼻で笑い、首を振ったあとに小さく縦に振りそれからハイネは扉を開いた。


         完