こちらヒロイン2人がラスボスの魔王と龍になります。

 呆れるほどの砂漠であった。もの珍しさによる最初の感動はすぐに消え、ハイネは今では飽き飽きとしている。

「その印ってやつの力があればこその退屈さなんだぜハイネちゃん」

 砂馬を操るアリバが楽しそうに言った。

「それがなかったらエライことになるぜ。熱と乾燥で苦しくて苦しくて退屈とは無縁の痛みがあるってわけだ」

 そう、砂漠に小雨が降り砂は不思議と水分と湿度で固められ道ができ馬は街道を走るがごとくに砂漠を疾走している。

 アリバの話では今日中に砂漠を抜け出せ西の地に辿り着けるということだ。信じられないことだとハイネは天を仰ぐ。

 封禁の地と言われ踏破不可能と言われたこの砂漠がいとも簡単にとは。ハイネは印を撫でる。

 もう馴染んでいるとハイネには感じられた。彼から授けられ預かったこの印が効果をあげだしたのは地下迷宮の途中からであった。



 私は第二隊の人と遭遇し尋問を受けてしまっていた。私が誤魔化し主張すればするほどに兵は私を疑い身柄を拘束すると言い出し始めるも、その途中に突然大人しくなりだし隊長に報告すると現在では第二隊隊長であるノイスさんのところに一緒に行くこととなった。

 会うやいなや話はすぐについた。私の頬の傷痕を見てノイスさんは頷き何も聞かずに了解し、今度は城内で指揮を執っていたバルツ将軍の元へと共へと向かう。将軍は私の姿を見て驚きと当惑の色を見せたが、そこは構わず正直に伝えた。

 他のものならいざ知らず、この人達には伝えなければならないと。

「バルツ将軍。この頬の印を、彼の故郷に返しに行きます」

 将軍の反応は薄い。もしかして将軍の記憶からは既に彼が消え出しているのだろうか?

 けれどそうだとしたらノイスのさっきの反応は……とハイネは心配しだすもバルツは首を振り目をこすり、辛そうにして言った。

「残念だが俺にはその傷痕がなにかは分からない。だが、そうしなければならないのなら、引き止めはしない。地下迷宮にいたことは見なかったことにしよう。ただあなたは龍の最側近だ。西の果てにこれから一人で行こうだなんて無謀を黙って見逃すことだけはできない。護衛はつけさせてもらう。それと馬車とをな。いま手配する。決して歩いて行こうなど感傷と共に無茶をするんじゃないぞ」

 感傷? そうかもしれない。私はさっきまで一人で地下迷宮を踏破し森を抜け砂漠を目指そうとしていた。

 そんなのできっこないうえに、それどころか兵士に捕まってどうしようもない状況になるとんだ間抜けだった。

 印の力というものがあればそれのおかげだし、それよりもノイスさんとバルツ将軍の善意のおかげというもの。

 他人の力と善意がなければ何もできない癖になにかできるものと無理をしようとして、あっこれは彼の悪癖で私がいつも怒っていたやつだと、思い出すとハイネは力なく笑った。

 同時に声と音を出さないように泣いた。どうしてこんなに大昔のことのように思えるのだろう? という疑問も込み上がってきては、笑いが止まらない。

 けれどもハイネは思う。私はいま笑いを堪えているのか涙を堪えているのかどちらであるのか、分からないと。

 それほど時間はかからずに馬車は用意されハイネはそれに乗った。付き添いはキルシュであり護衛にはブリアンがいる。

 二人とも気を遣っているのか黙ったまま馬車を走らせ続けた。

 荷物の確認をしながらハイネは二人のことを観察をし想像する。

 もう二人にも彼に関する記憶が失われているのではないだろうかと。

 あれほど長い間共にいたのにこうも簡単に欠落してしまうものなのか?

 ……いいや、そうではないかもしれない。もしもそうならこのように気を遣うことはないはずだと。

 それは印か、とハイネには分かった。

 心の中に微かに彼の記憶が残っておりそれが働きかけているのではないのか?

 私に刻まれた印を西の地に戻すようにと。他の一切は記憶から失われてもこの印だけはみんなの心に残り、その力を発揮しているのだとしたら……

「街に出る際はその傷痕は手拭で隠した方がいいかもしれないね」

 キルシュはそう言いながら手拭を探し出した。

「これが男の場合なら武勲の証みたいになるけれど、女の場合だと心配の種みたいに見なされるからね。それってすぐに治ったりするの?」

「分からない。戻したら、正直戻すってのもよく分からないけど、そのうちによくなるんじゃないの? まぁ私としたら別に治るとかは考えてもいないけど」

「またそういうことを言う。あんたって一度火が点くと過激な方に全身を投げ打つんだから怖いんだよね。今回は顔に火傷を負ったようなものだけどさ、自分から火に顔を突っ込んだんでしょ? 手とかで良いところをさ」

「うん、そうだね。印は手でも良かったようだけど、私は嫌だから手を引っ込めて顔を出したのよ。そうしたらあの人はすごく辛そうな顔をしてね。それがとても良かった。刻まれることで私もあの人の心に刻んだってことで」

「そうだろうと思った。そうでもしなければあの隊長がそんなことをするはずが……」

 言葉は切られ、キルシュの身体は停止し視線は虚空で止まると、その両の眼から涙が流れ出してきた。

「あれ? 涙が勝手に」

 困惑しながらキルシュは手に持っていた手拭で涙を払い、とりとめのない雑談をはじめた。

 ハイネには分かったいまキルシュのなかであの人は失われていると。

 記憶の残滓を全て払い今の一瞬に費やしたのだろう。

 きっとバルツ将軍の中からもノイスの中からも私との接触によって微かに残っていた彼の記憶によって繋がった。

 おそらく私もこの先に印の後に。これはまるで龍の力のようだとハイネに思えた。

 あの人が忘れさられていったのと同じように彼もまた同じように失われていく。

 哀しまれることなく悼まれることなく、はじめからこの世界にいなかった存在のようにして扱われる……もしかして、彼がこの世にいた証はこの印だけになるのか? そうだとしたら最後の最後まで彼のことを想えるのは……

「なんだいハイネ、ニヤニヤしだして。なにかいいことでもあったのかい?」

「良いこと? それはもうたくさんあるよ。今のこの状況とか私自身のこととか」

「なにを言っているのかさっぱり分からないよ。はいはいこの手拭を巻いて傷痕を隠すんだよ。痛々しくて見ていられないからさ」

 そして到着したのがこの世界の西の果てにある砂漠のその手前にある街。

 そこが彼がこの世界への初上陸地でありその後にバルツ将軍と出会った、と私は何度もそのことを聞いていた。

 印が有れば導き手が現れる、ここまでは良かったのだが、この先はいったいどうなる? と、ハイネは街に到着した際にブリアンとキルシュに問われ、ハイネは入り口から中を伺うと街は混乱でごったかえしていた。

「私が来たからですかね?」

「そんなはずないだろ。俺が聞いてくるから二人はちょっとここで待っていてくれ」

 ブリアンが中に入り通行人の一人に話を聞くと走って戻り息を切らせながら語った。

「どうやら砂漠の果てから人が到着したらしいぜ。しかも数日前から砂漠に小雨が降りだしてきたとのことだ。しかもこれはこの前の内乱の時期に同じ現象が起こったことでみんな大慌てらしいぞ」

 キルシュは何かを察したのかハイネを見つめた。

「絶対にこれだよね」

「とりあえずその人に会いに行きましょう」

 人混みをブリアンが掻き分け掻き分けその中心に向かって行くと、縛り上げられた一人の男が絞首台の上で項垂れていた。

 街の責任者が男の罪状のようなものを読み上げている。

 もう読み終わる間際であったが耳に入った言葉がある。

『この男は砂漠の果てから災厄を運び込んで来たものである』

 ハイネは男を見ると、男もまた見返し、すぐに分かった。それが誰であるのかを。

「アリバ……」

 知らない男の名を呟くとブリアンが前に出た。

「あれだな、だったら行くぞ!」

 叫ぶと同時に壇上へと飛びあがるとブリアンはマントを脱ぎ、その下にまとっていた真紅の龍の近衛兵である証の制服を晒し、制止しようとする兵を街の有力者たちを凍りつかせる。

「俺は中央から派遣された龍の近衛兵だ! 龍身様の命によりここに参ったが、なにをしている!」

 嘘ではあるが、この紅の近衛兵が発した言葉を疑うほどこの地にいるものたちは愚かでも不信仰でもないため、誰もが顔を見合わせ何も言えずに首を左右に振り続け狼狽えるばかりであるために、ハイネとキルシュが引き取った。

「はじめまして皆さま。私達は龍の側近のものです。先日龍身様が西より使者がやって来るので御迎えせよ、と我々に命ぜられここに参った次第でありますが、いまそこで縛り上げられているものが、それではありませんか?」

 言い訳すら言い出せずにまだ狼狽したままの彼ら四人。

 裏切ったかのように一人が飛び出しアリバの縄を解きだすと二人はその場から逃げ出し、残った一人がようやくハイネたちに向かって曖昧に微笑み、神経質に首を振った。着ている服から町長であろう。

「この、ものは、西の果てから参った怪しいものでして」

「そもそもこの西の街は砂漠から誰かが来た時用に作られたものでしょ? その龍祖様からのご命令は代々受け継がれているのだからご町長なら覚えているよね? この場合は中央に知らせ使者を要請する……こうなるはずなのに、まさか大昔のことだから忘れたとかいったらかなりの問題になるけど、どうなの?」

 キルシュの言葉は嘘か本当か分からない。いや、彼女は書記であり様々なことを知っていることを信頼しハイネはそうだという顔をすると、町長は微笑みながら顔が青ざめている。このまま自棄になったり死んでしまったら面倒だなとハイネは思い、こうした。

「ところでさきほどの演説を聞きましたが、群衆のヒステリーによって来訪者を処刑するふりをして混乱を収めようとしたようにも見えましたが、どうですか?」

 ハイネが助け舟を出すと町長はすぐさま舟に飛び込んだ。舟が沈むぐらいに勢いよく。

「その通りでございます龍の側近方。いわゆるお芝居でして我ながらちょっと迫真に迫り過ぎたのが逆に失敗でしたね、ハハハッ」

 一人で笑いながら振り返ると観衆に向かって大声で叫び始めた。中止です演技ですお芝居です全部嘘です作りものです、と。

 周囲は困惑と混乱が起こりだしたがハイネたちは無視をして倒れているアリバに近づいた。

 疲労困憊し意識は朦朧としているが大事には至っていないことにハイネは安心し声を掛ける。

「アリバ……私が分かる、はずはありませんよね失礼」

 目が合うもその瞳は不審と謎の一色である。

「あんたがなんで……ワシの名前を?」

 問われハイネは口元の手拭を外すとアリバの眼は今度は驚愕の色へと変わる。

「ジュシ……!! どうしてお前はこの娘にその印を?」

「あなたは彼をそう呼ぶのですね。私が彼から教わった名は――です」

 アリバの瞳は困惑から何かを悟ったのか哀しみの色へと変わりハイネはそこに秘かな喜びを感じた。

 彼のことを忘れずに思いこうして哀しんでくれるものがいることに。

「その名だ。ワシはそう呼ばないがな。そうか、ジュシはお前さんに印を刻み名前を教えたのか。そういうことなんだな……そういうことか」

「アリバ。どうかこの私を彼の故郷へと案内してください。目的はもちろん、この印を帰還させるためです」

「ああ、いいとも。ワシはその為にここに来たんだからな。それであんたのお名前は?」




 こうしてハイネだけがアリバと共に砂漠を渡ることとなり、街にはブリアンとキルシュが残ることとなった。

「彼は西からやってきた龍のための来訪者であり、こちらの龍の使者をご案内するお役目で……」

 等という詭弁に街のものは今度は全て信じきり昨日とは打って変わっての対応にアリバは不快を通り越して苦笑いするしかなかった。

「じゃっあたしらはここで待っているから早く帰ってきてね」

 支度の手伝いを終えたキルシュはいつもの口調でそう告げる。

 私が何をしに行くのか深くは問わないのは印の力によるのかな? とハイネはまたそのことを思いキルシュを見る。

 本当に彼女の中から彼の記憶はもう完全に消えてしまったのか、そのことを問うことはできない。

 恐怖が先に来る。あれほどまでに彼と長年付き合って来た彼女でさえそうであることを。

「まったくなんでわざわざあんな魔の砂漠を行こうとするんだがね。龍身様の命令がなんであるのか分かんねぇけど、俺だったら絶対に断るぜ」

 このブリアンもそうである。彼と幾度も死線を乗り越えその片腕として活躍してきたブリアンの口からもその名が挙がることはない。

 そういうものであろうか……すると自分もこの印を返したら二人のようになって……

「では行こうかなハイネちゃん。危険はないだろうが、とりあえず挨拶だけしときな」

 アリバに急かされハイネは思考をやめ二人に手を振ると、返された。

「じゃあ行ってくるからね」

「ああ、元気でな隊長」

 ブリアンが言うとキルシュが大声を出した。

「ちょっとブリアン!隊長に対して別れの挨拶とかやめてよあたしはそれを我慢してたのに……」

 三人の時が止ったように固まる。

 ハイネはブリアンとキルシュを、その二人はハイネを、けれどもハイネではない誰かに声を掛け自分達で驚いてから互いに見合わせる。

「えっ!」
「ええ!?」

 疑問は生まれるも答えは見つからず一緒に首を傾げる二人を見ながらハイネは笑いながら言った。

「ブリアンにキルシュ、ありがとう。また帰ってくるからね」

「えーとそうだ。無事に帰ってこいよハイネ」

「うっうんそうそう。はやく中央に帰ろうね」

 腑に落ちないという表情をしながらも二人は再び手を振り、見送った。

「ええお二人さん。行ってきますね」



 砂漠は無限に広がっている。しかし太陽は雲隠れし砂漠に陰を落とし、それどころか小雨までも降らせている。

「ジュシがな印をつけて砂漠を越える時も同じ天候だったんだぜ。そんなことはかつて今まで一度だってなかったのに、その時だけこうなってな。それであいつを砂漠を越えた東の……そっちから見たら西の町に送って帰ったその当日に商売だってんで荷物を馬車に積んで、砂漠に戻ったら太陽はやる気満々に陽を照らして身体が焼けつくし、いつものようになっちまったんだ。確実に印の力だとワシは見るし、ここ数日砂漠が雲で覆われ雨が降り出していると報告を受けたことからワシはこうして全力疾走でジュシを迎えに行ったが、なんとあの町で厄災をもたらした悪魔として囚われて危うく死ぬところだったから助かったぞワハハハハッ」

 砂漠に雨が降った日。それは龍が死んだ日なのだろう。正確な日にちは分からないけれど、これは正しいとハイネには思えた。

 東の地からやってきて中央に座った偽龍であったものを彼が倒し印を持った私を帰還させるべくこうして雨を降らせた。

 龍の始祖は天候を操ることができこの地に砂漠を作ったといわれるのだから、雨を降らせることもできるだろう。

 龍となるものと龍を討つものは相反するものではなく繋がっているもの、とハイネはそのように想像する。

 あのような未曽有の内乱が起こった際に、龍の正統が混乱し脅かされたときに、誰も分からずその危機に立ち向かえない時に、ただ一人この砂漠を超えて新しい世界にを訪れ世界の秩序を回復させるもの……

「フフッそんな馬鹿な」

 ハイネが独り言で笑うとアリバが不思議そうに見返した。

「ごめんなさい変な笑いかたをしちゃって。いえですね。彼が世界を救ったみたいなことを妄想して見ましたが、馬鹿馬鹿しくて笑っちゃったんです。私にとって彼はそういう存在にはとても見えなかったもので」

 そうそれは出会った時からと変わらぬ印象だった。扉を開いた時に扉に頭をぶつけて蹲る彼。幾多の戦功のある紛れもない英雄。

 ある意味で私は自分自身の中にあった彼の偶像を自ら破壊してから彼との交流が始まり、今に至っている。

「アリバさん。少々お伺いいたしますが、彼はその地における英雄だったのですか? 印を刻んだ無敵の英雄が龍を討ちに砂漠を超えて使命を果たしに行った……」

 それは自分にとって知らない彼の姿。彼の可能性……私の知らない誰かさん。

「お前さんには話していいか」

 陽気でふざけた口調が沈み改まりハイネは逆に気分が高揚する。

「はい! このハイネにお話しください。そうですよお前さんことこの私には聞く権利と義務があります。この印が目に入りませぬか?」

 おどけながらハイネは自分の左頬を指で二度叩くとアリバは微笑んだ。そうだそれがいい。

 辛気臭いことはやめてほしい。私にとってまだ彼のことで哀しむのは、早いのだから。

「そうだいいよな。お前さんはジュシのようなものなんだし」

 ハイネはその言葉を否定せずに胸に染み込ませ、入れる。内側から喜びが湧いてくる。

「いいやそれが違うんだ。元からそんな偉大な存在でなんかはなかった。その反対でな、そうはなれずにいることに苦しんでいた。あれはそういうものになりたかったが、なれなかった男でな。そのことが原因で村を離れ山を下りて、町でわしと出会い相棒同士として共に働き出したんだ。あいつは随分とそのことで悩み続けてな。でもあいつがなにで苦しんでいるのかはワシはついには知らずにいる。ワシとは具体的な話はしなかったが、なんとなくわかるもんだ。なるべきものになれなかった時、自分がそれではないと気づいた時、もうそれにはなれないと分かった時……つまりはあいつは誰にでもあるそういう時を迎えてしまったんだ。まぁそうはいっても誰もがそれを受け入れて生きていくことにするというのだが、あいつは受け入れられずにずっといた。ワシはあいつにジュシという名を与え新しい生を、商人として次の人生を進むように力を貸した。あいつはなかなかに見込みのある男だった。そのうちワシのところから独立して一人前となって……と色々と夢想をしたものだが、残念ながらそうとはならんかった。あいつの心にはまだ、未練というものがあった」

 アリバの話の中に、彼がいた。自分の中の彼と寸分とも違わない彼が。

 その駄目なところを存分に発揮しながらこちらに近づいている。

「ある日ジュシは村へと帰るきっかけができ山に登りあいつの故郷に戻るがな、その帰り道にむらには騒動が勃発したんだ。龍が……いや、お前さんの前でこう言ってはならなかったな。大蛇みたいなデカい怪物が村を襲い東を目指したんだ」

 龍か、とハイネは言葉には出さずに頭の中でその言葉を転がした。

 この地方では龍が怪物として扱われており、彼はその討伐と深い関係があるというのなら……

「ワシらはあいつを追いかけてまた村に戻るとな、深手を負ったジーナを背負ったジュシがそこにいてな、それでワシの街まで行ったのだ」

 いま、誰がいた? とハイネは知っているはずなのに知らないものの名が聞こえた気がした。

「……ジーナ?」

 ハイネが呟くとアリバが言った。

「さすがにハイネちゃんにはその話をしなかったか。ジーナというのは言わば英雄の称号なんだ。ジュシはそれになるつもりだったがなれなかったが、村の危機ではジーナと共に戦ったわけだ。けれどもジーナはもう逃げた龍の追跡をできなくなり、ジュシが英雄の代役として東へと旅立ったんだ。頬にその印を刻んでな」

 代役、か……代役、とハイネは納得がいった。その数々の諸々に。英雄らしからぬその行動の全てに。

 そうではないものが、それになった。彼は二役を演じていた、いや演じるというよりから二つの魂がそこにあった。

 ――として私に見せる素顔とジーナという英雄の姿を。だからちぐはぐで矛盾に満ちていて混乱していて……

「それでワシは東に行ったジュシのことは知らん。それはハイネちゃんの方が詳しいだろう。どうだあいつは?」

 そういうことなのですね……そういう……ハイネは遠くを見る。

「まず思うのは彼は優柔不断でとても煮え切らない人でしたね」

「なるほどジュシらしいな。それがまずということはそういうことか」

「はい、そういうことです」

 二人は同時に軽く苦笑いをした。

「あいつは本心を晒すのが下手で苦労していたからな。もう少し、こう、心を開いたらいいのに変に閉じていて困るんだよな」

「分かります」

 すごく、どころかとてつもなくよく分かるという言葉の響きの意味が分かったからかアリバは息を吐いた。

「それだったらハイネちゃんも苦労しただろ」

「とても」

 とてもとてもとても口に出せないほど長く言葉に出来ないほど重いためハイネは三文字にすることにした。洗練を極めると簡素化するように。

 それでいい、それを知るのは私だけでありあれは私のものであるのだから。

「おかげでこんな傷物にされましたよ」
「まさにそれだなハハハッ」

 ハイネは自分の頬を撫で思う。でもこれは私にとっての彼との証でと。

「けれどもあいつがそこまでするとはな。ワシには信じられない。想像がつかんぞ。今だって実はこれ違うんです、と白状されたら安心感が勝ってありがとうと言っちまうかもしれん。これがワシの偽りなき真情だ。悪く思わんでくれ。それぐらい不思議なことなんだ。それほどまでにあいつに近づけたことにな……」

 岩みたいに固く混沌のように相矛盾し続けたあの存在に対し私はついにここに来た。

 そう私達は近づけた。そのひとつとなった証をこれから、そしてその先、私はどうなってしまうのか?

 この先のその自らが引き受けた使命を終えた後は……

「あっ!」

 ハイネが叫ぶと心得たりといわんばかりにアリバは馬車を止める。ハイネは扉を開き外に跳びだした。

 そんなはずはない! 絶対にそれは有り得ない!と思いながらもそこに駆けていき、声を掛ける。

「――!」

 悲鳴に近い叫び声は放たれるもそれは微動だにせずに立っていた。岩が、立っている。

「これほどまでに反応してくれるとはな。ワシの眼に狂いはなかったようだが、これは人呼んでではなくワシ呼んでジュシ岩だ」

「岩……」

 とハイネは力が抜けその場に座り込んだ。私は岩に向かって叫んだのかと恥ずかしさに震えた。

「あえて黙っていたがその反応をしてくれてこっちも嬉しいぞ。この岩はな以前ジュシと共に見つけてな、ワシは全然似ておらんと言っておったがあいつは頑として似ているといい続けてな。まぁ似てるといえば似てるかなとワシは疑問ながら承諾したものの薄らと不安であったが、他ならぬお前さんがそのように反応してくれたのでこっちも安心したわい。この岩はジュシにそっくり、そういうことだな」

 遠目から見たからそう見えた、という勘違いの次元ではなく、近くで見ても見ようと思えばそう見える、直立したかのような異様な岩であった。岩の右側に回り左上を見る。彼が、いるとさえハイネには感じられ首を振る。

 あの人は、岩だったのでは? いいやそんなわけがない、けれども……

「もしかして彼って岩とかの類だったという可能性ってどうです?」

「有り得るな。木石という表現があるが、しかしあいつは変な熱を持っている男だからな。ハイネちゃんだってあいつの妙なところで感情的なところとか分かっているだろ?」

「ええ、全く以てその通りです。彼にはおかしな感情の起伏がありましたからね。岩は冷たい。彼ではありません」

 当たり前のことだがハイネは口に出さないといけない気がし、そう言うと眼の前の岩が少し似ていないと感じることができた。

 そこにハイネは深い安堵感を覚えその傍らに目を落すと、骸骨がしゃれこうべが岩の下に転がっていた。

「おっとそれを見ちまったか。こいつこの砂漠では珍しいものだな。しかも距離からして東のものが西に向かう途中でのものだ。分かりやすく言うと中央のものが西に向かって旅をしたもののここで力尽きた。惜しかったな。このジュシ岩を越えたらもう少しで砂漠を越えられたというのにな」

「かつて、そのようなものがいたのですね……」

 ハイネは転がっているしゃれこうべを持ち上げて眺め気付いた。小さめな頭蓋骨? もしかしてこれは女性のでは?

 そうだとしたら何故一人であの砂漠を越えようとしたのか? しかもゴール寸前まで歩き続けられたのは……もしこれが私であったら? とハイネは冷える砂漠の中で全身が寒くなる。もしかしてこれは一人で砂漠を越えようとした私なのでは?

「ジュシがな、こう言っていたな。この骸骨のものはここまで一人で来たのだ。自分はその行為に敬意を表するってな。ワシは感傷だと思ったが実にあいつらしい言葉だなと」

「アリバさんに同意します」

 ハイネは身体に熱が戻るのを感じながらしゃれこうべを元の位置に戻した。

「そんなのは感傷ですよ。自分に照らし合わせたのでしょうね。彼は一人で何もかもをしようと思っていたからそんなこと言ったのでしょね。実際は私がいないと使命を完全に果たせない癖に」

「ワシがいなければ砂漠越えはまず不可能であったからな」

「そうですよ。ねぇ――。この骸骨はあなたの仲間とでも? 本当にあなたらしい感想ですけれど、私はそのような考えには一切共感はもてませんからね、あっ」

 岩を再び見上げると左上の、いわば岩の左頬のあたりに名が刻んであった。彼の名。本名がそこに……

「そういえばジュシは名前を預けるといってその岩に名を刻んでいたな」

「フフッ下らないことを」

 岩に刻んでどうするとでも? この岩が動き出してあなたと共に生きてくれるとでも? 実に実に馬鹿馬鹿しい。

「これもまた孤独な男に相応しい感傷ですよ。私がいるのですから、そんなものはもう必要ありませんし、これはただの岩に過ぎません」

 ハイネはナイフを取り出しその名を削り取った。するともうその岩は男には少しも似ていない岩と化したことにハイネは満足感を覚えた。

「もうそろそろ砂漠越えなら行きましょうアリバさん。早く彼の故郷に辿り着きたいです」


 砂漠を抜け、馬車はアリバのいる街で到着し馬の交代と休憩を取った後に山へと向かう。

「予め言っておくがなハイネちゃん。驚くかもしれないしショックだろうと思うが、伝えておく、いいな?」

 緊張した口調でくどいほどの前口上をアリバは馬車の中で述べた。

「今更どのような脅しがあっても構いませんよ。私はここまで来たのですからね」

「じゃあ言うが、ジュシは村から追放されたものだ」

 その言葉にハイネの胸の奥に痛みが走った。そうか……だから……

「経緯は不明だが、あいつは村から呪われた身……呪身と呼ばれているんだ」

 呪身? 龍身? とハイネはすぐにその名と連想する。彼は呪いにまとわれたもの……

「その呪身というのはどうもジーナというものに逆らうものがつけられる名らしくてな、ワシにはそれがどんな意味か分からぬが、その名の響きの忌まわしさからジュシと呼ぶことにしたんだ」

 龍に逆らう不信仰者としての彼。ジーナに逆らうものとしての彼……ふたつは同じものなのでは?

 ハイネは呼吸を忘れその思考の中へと入っていく。

 この二つは反対の概念というよりもむしろ、同じもの、一緒のもの……ひとつになるものなのでは?

「それでだな。ジュシは呪身という身でありながらその印は村から勝手に持ち出したものとなっている」

 呪われたものが聖痕を身体に刻みつけた……そんな矛盾があるのだろうか?

 ハイネがすぐに抱いた疑問はその場で消失する。彼という矛盾はそういうことなのだな、と分かった。

 彼は出来るのだ。相矛盾するものを同時に抱えることが。私を愛しそして愛することを拒むことを。

「ジュシは印を持って遥か遠くへと旅立ったんだ。このことから村のものたちからはどれほどの恨みを買っていることやら。ワシもあの事件以来何度か商売のやり取りをしたがな、当然あいつのことはタブーであり誰も触れてはいない。もうあいつのことは存在しないことになっているが……こうして帰ってきた」

「はい」

 ハイネが返事をするとアリバが振り返り驚くも、微笑んだ。

「気落ちしていないようで良かった。でな、ワシは村には砂漠を出る前に手紙を出したが、どう受け止めているのか。さっき店の者にこれからいくと前以て連絡したから、おそらくは山の中腹あたりの広場で彼らはワシらを待っているだろうな。何人いるのか分からないが誰がいようとな、ただ一人には気をつけるんだぞ。それは村長のツィロだ」

 その名前を私は知っているとハイネは思った。かつて彼の口から出たその名前。

 そうであるのに昔からずっと昔からその名前は知っているような気がした。

 彼の記憶? それとも印の力? その名には温かみと哀しさが混じり合っていた。

「村長のツィロはジュシの幼馴染であり親友だったようだ。村の責任者としてジュシの友としてこの件に関しては相当複雑な心境であることは間違いはない。印がこうして無事に返ってきたとしても向うがこれをどう受け止めているのかは、外の世界のものであるワシらには分からん。危機となってもジュシなら兎も角ワシとハイネちゃんじゃどうすることもできんかもしれんから、様子次第ではすぐに逃げられる準備をした方が良いし、そうしよう」

 ツィロ……ハイネはその名の持ち主の顔を想像する。彼の親友であるのなら、きっと、絶対に。

「その村長さんはかなり厳格な御方でしょうね」

「まぁな。真面目そのものだ。不義や不正を許さない真っ直ぐなやつでな。そこが不安なんだ」

「いいえ大丈夫ですよアリバさん。私に任せてください」

 ハイネは頬に触れ、その熱を思い出した。あの人の熱を。

「私と彼には不義や不正など、ないのですから」



 大きな山であった。ソグの雪山よりも小さいものの人を苦労させる山。

 山道があり緩やかな角度ではあるものの、長く天まで導いているような距離。

「さっきも言ったように中腹に休憩所がある。そこまでの辛抱だぞ」

 休憩所と聞いてハイネは思い出し、感じる。この山はあの龍の休憩所に似ているのではないかと。

 この緩やかな山道はあの階段に似ており、もしかしてかつて中央から西に去ったものがそれに似せたものをこの山に?

 それともそれは逆でかつて西の地にいた龍の祖がここから東の地である中央に向かい、あの中心にこの山道に似せた塔を作った可能性は?

 そうなるとこの山には龍の儀式があって……そう、龍を討つものの儀式があるはず。

 その名をジーナというのならばこの地で龍を討ち続けるのは何のために?

 東へと駆けた龍を追ったのは誰のために? そこまでの使命を背負う宿命とはまるで龍に全てを捧げるようなもので。

「あっアリバさん。もうそろそろで休憩所ですよね」

 軽快に上っていくハイネの後ろで息も絶え絶えのアリバに尋ねると首をひねった。

「あっああそうだが、なんで分かるんだ? ジュシに教えてもらったとか……いや違うよな」

「いえ、勘ですよ勘。歩き疲れてきたからそろそろ休みたいなと思っているんでもうちょうどいいかなって」

 その設計は龍の休憩所と同じだとハイネは感心した。やはりこの二つは繋がっているのだ。

 繋がらないものが繋がっている……これはそういうものなのだ。

 面倒なのでハイネはアリバの手を取り引っ張りながらようやく中腹の休憩所に着くと、先客がいた。

 待ち構えている、と言っても良いほどの形相の数名の男達がこちらを見ている。

 村の者たちなのだろう、睨み付けこちらを伺っているが、すぐさま不審と怯えを感じさせてきた。

 そう、いないからだろう。彼が、ジュシが、呪身が、――が。

 いるのはアリバとハイネだけ。その光景の異様さを理解できずに混乱しているものたちを初めからハイネの眼中には入ってはいなかった。

 一目見て、分かった。誰が村長でありツィロであるのかが。前列の真ん中にいるもの。

 痩せ気味の身体からは闘志が湧いているのか大きく見え、視線はこちらを見据え微動だにもしない。

 視線も姿勢もそして心でさえ動揺は来たしていないだろう。彼が来ないことを、この人は知っていたのではないか?

 何らかの予感と覚悟を持ってここで待っていた。だから私が現れても驚きもせずに私を見ている。

 あなたもまた待ち続けたものなのですか? とハイネはツィロの視線が自分の顔の、頬に注視していると感じ、一歩前に出た。

 慌てている男たちはこれに反応しその中の誰かが声をあげ前に出ようとするも、ツィロが腕と手に持った杖で制止し誰も前には出させない。

 そうだ、この人は知り待っていた。龍を待つものよ……いや、龍を討ったものを待ち続けたものよ。

 ハイネは、印を持つものは口元に巻いていた手拭を外し、歩き出した。

 声は、上がらなかった。だが声を失う声は聞こえた気がする。そこにあるのは畏敬の念というよりも恐怖か?

 印という村にとって最も尊いそれが見知らぬ女の頬に刻まれている。

 印の力は、そう……龍の力なのだ。人々の意識を支配する。

 その意味をこの者たちは咄嗟には理解できず頭の中が空白になってしまったのだろう……ただ一人を除いて。

 ハイネは相変わらずに自分を見続けるツィロを見返していた。

 距離が縮まりツィロの瞳がよく見えるようになってきた。そこには怒りと悲しみの色があった……彼が私によく見せてくれた同じ瞳の色。

 憎みつつ愛し、怒りつつ哀しむ。その二つの矛盾する感情に耐えることによっていまその場で立っている。

 それはつまりあなたも彼のことを愛して……ハイネの足は、ツィロの眼の前で止まる。その口は固く閉ざされている。見てから一度も開いていない。

 何かを、堪えているのだろう。彼に言いたかったことを……胸の中に秘め続けてきた何かを。

 だからハイネは見上げ、告げる。

「はじめましてツィロ村長。私は東の地ソグから参りましたハイネと申します。お驚きかもしれませんが、私は――の、ジーナの代理としてここにやってまいりました」

 ツィロからは何の反応もないが、その後ろから声ではないもののそれに近い息遣いが聞こえる。

 代理……つまりそれは……あいつは……

「いいえ違います」

 ハイネは空気に答え、それを拒絶する。

「ジーナは死にません、そうではありませんか?」

 ツィロの瞬きが見えハイネはこれが返事として見た。もちろん肯定としてのもので。

「印こそがジーナであり、彼であり、だから死なずにここにいるのです。使命を完了するまで。そう彼は――はこの印を頬に刻みジーナとして東へ砂漠を越え、討つべきそれを追いました。彼はジーナとして無限の戦いに身を投じ幾多の苦難をも乗り越え、龍との最後の戦いに挑み、その使命を果たしました」

 ハイネはそこに疑念はなかった。あるはずもなかった。彼が宿命に勝ったことについて。

「その証拠こそが私がここにいることであり、印の帰還なのです。呪身とされた――はジーナとしてその代役として使命を果たし、ここに戻る。――はここにいるのです。印に、彼がいる」

 何も変化をせずに聞くツィロにハイネは告げ、続ける。

「御認め下さい。使命の完了をここにお受け取り下さい」

 ハイネは思った。彼がこの人に何を語ったのかと。怒りに満ちたこの人に何を告げてから旅立ったと。

 そんなのはひとつだけだとハイネは思う。彼はそのひとつのことのみをこの人に告げる。

 分かって、当然だ。それぐらい私になら分かるのだから。

「龍を討ち印を戻すとあなたに告げてから彼は――は旅立った」

 はじめてツィロの瞳に変化が生じ、その身体は震えた。この人は封印していたその記憶をそれを思い出したのだ。

「ツィロ村長。彼は、あなたとの約束への果たしました」

 何かが崩れ出したのかツィロの両の眼から涙が落ち出し表情を一変させながら、

 その身をハイネの足元に跪き答える。

「――、よく帰って来てくれた……すまなかった」

 後ろにいた男達もその場で跪き、あたりには沈黙とすすり泣きが響く。

 そのなかでハイネは頬にはじめて鈍い痛みを覚えた。印には痛みが走らない、と教えられたがそこに痛みがあると言うことはつまり……

 ハイネの考えがその先に進む前にツィロが立ち上がり目元を拭った。違う人がいる、とハイネは自分の目を疑う。

 痛々しいほどの悲痛さを覚える表情のものはどこにもおらず、穏やかな痩せた男がそこにいて、彼の隣にいるのがちょうどいいタイプの男と思えた。

「よくぞお届けなさってくれましたハイネさん。申し遅れましたが俺の名前はツィロです。この山の責任者の一人であり、村長を務めております。どうぞ我々の村にこのままお越しください。丁度いま収穫祭の当日なのです」