「まだ女の香りがしますよ隊長」

 兵舎に戻り部屋に入るなり挨拶代わりに琴を奏でながら窓辺のノイスが伝えてきた。

「またそんなことをいうのか。この前の話だしそんなわけないだろうに」

「残り香というものがございますよ。隊長の場合は心に強くその女のことを思っていますから、こちらまで漂ってくるのです」

 なんだそれは? よく分からないことを言われジーナは自分の服を嗅いでみたところ、外の匂いに自分の臭いしかしなかった。

「またノイスはからかって。隊長から漂って来るのは濃厚な男臭だけですよ。いつだってそうだしいまだってそうです。だいたい女の香りだなんて隊長の体臭と混ざったら勝つはずもなく消失するに決まってます」

 なんて酷いことを、と訂正を入れてきたアルの方を見るといつのまにか寄って来てジーナの匂いを嗅いでいた。

「……おや? でも少しましになっていますね。けど女の臭いはどこもしないな」

「アル君。だいたいお前は女の匂いが分かるタイプではないだろう。隊長にははっきりと二種類の異なる匂いがするのだよ。異なるタイプの二つの香りがさ」

 言いながらまた琴を鳴らし先ほどと同じ音が聞こえるが、やたらと淫靡に聞こえてジーナは耳障りだと感じた。

「あのな龍の館は女官も多いしヘイム様とシオン様も女だ。そんな中にいたら女の香水やら香木やらの匂いがついてもおかしくはない。だいたいこの私がノイスのように意図的に女の匂いを身体に残すようなことができるとでも思っているのか?」

 琴の音が止み一瞬で静寂が当りに満ちるも、突然琴の一本の弦が一際高い音を上げ耳を打ってきた。

「女の事に関して俺に嘘をついては駄目です。隊長は複数の女とかなりの接近をしました。そう顔にも書いていますよ」

 ジーナは狼狽え顔を拭いたくなるも、それは語るに落ちるということになるので堪えているとノイスはそれ以上は語らずに琴を優しく弾きだした。だがアルの声が不協和音として混入される。

「もーいいですよ隊長に女がいようが男がいようがどうでもいいことですってば。あったとしても女特有の気まぐれでちょっかいを出してきただけでしょ。もしそうだったら駄目ですよ本気にしちゃ、弄ばれるだけですからね。まぁどうせ隊長ではどんな女も付き合いきれませんがね。そんなことよりも上着はどうしたのですか?」

 ノイスの言葉にショックを受けていたせいでお馴染みのアルの暴言はロクに耳に入らずに上着のことだけ聞こえた。

「あっああ上着はそのな。ちょっと忘れてきたんだ」

 調子を変えた琴の音が胸に響いてジーナはぎくりとする。嘘だと見抜かれたのか?

「忘れるって龍の館にですか?取りに行かれては如何でしょうか」

「いや、明日が出勤日だからいいだろう。今日じゃまだ出来上がっていないかもしれないし」

「忘れて出来上がるってなにがですか?」

 また琴が違う調子に鳴る。あいつは人の心が読めるのかそれとも被害妄想か? どっちみち自分の失言で傷口が広がった感があるのでジーナは無理矢理閉じさせようとした。

「とにかく忘れただけだ。別にいいだろ。そもそも上着が無い状態で取りに行くのは今日でも明日でも一緒なんだ。どうせ上着は無い、これは変えようのない事実だ。それに無意味に龍の館に行くのは迷惑だろうし仕事を与えられても困る。そういうことだから上着の話はおしまいだ。そういえばアル、こんな話があるんだ」

「あっそうだキルシュに頼むのはどうでしょうか?」

 こいつ人の話を聞いているのか? ジーナは空気の読めないアルを窓から投げたくなった。軽いからかなり遠くまで投げ飛ばせそうだ。

「おっ噂をすればキルシュが廊下を歩いていますね。呼びましょう、おーい」

 しまった、とジーナは妄想から我に返る。反応が一歩遅れキルシュがこちらに来てしまった。

「上着のことはいいから」

 アルは人の話を聞かない質だった。

「今日は龍の館に行くんでしょ? もし行くのなら隊長が上着を置き忘れたようだから回収してきてもらいたいんだけど」

「あぁん上着? 駄目駄目私は今日非番だよ。それだったらね当番のハイネに頼んどくよ。いいっていいって頼み事ならいくらでも言っておいてあげるよ」

 嫌な予感しかしないためにジーナの声は大きくなった。

「いいからいいからいいから。明日私が取りに行くからそんな頼み事はしなくていいよ」

「そんなに繰り返しても駄目だよ。隊長のあれは一張羅で他にはありゃしないだろ? まさか上着なしで行くつもりなのかい? ちょっとそれはうちの隊の名誉に関わる問題だから見過ごすわけにはいかないよ。そもそもなんだって上着を忘れたのさ? こんな薄ら寒い季節にどんなタイミングで上着を脱いだんだい?」

 ヘイム様の尻に敷くために脱いでそのまま回収されました、と言ったらどうなるのだろうか? とジーナは瞼を閉じ想像するとそこから怒涛のなんでなんで? が鳴り響きめんどくさいことになると確信できた。

 それにしても、どうして、自分は、あの時、あんな馬鹿なことを、したんだ、と今ではジーナの心には後悔の念が渦巻いていた。

「上着は脱いだから脱いだだけのことだ。それだけだからねキルシュ。上着のことはほんとにいいからハイネさんに何も頼まないでくれ。あの人はちょっと……うーーん?」

 距離感がおかしい……と言おうとするとハイネがそこにいた。
 
 瞼を開きキルシュに話しかけているとジーナは思っていたがその眼の前にいたのは金髪のキルシュではなく黒髪のハイネであり不思議な表情をしていた。

 いや、私の方こそ不思議な顔をしたいのだが、とジーナは落ち着いていた。あまりに危機的な状況であると恐怖心が麻痺してしまう現象なのかもしれない。戦場ではよくあることだ。
 
 そうであるためかジーナは空想に逃げ出した。

「あれ? ハイネさんってキルシュだったの? これはまた意外な展開だな。二重人格とかそういうやつかな? またはこちらの認識によって人格が変わるというやつかな? それにしても心だけでなく姿形まで変わるとはすごい」

「フフッお惚けですね。キルシュは忙しいので目を閉じて棒立ちになったジーナさんをほっといて行きましたよ。っで廊下をたまたま歩いていた私が交代してここにいるわけです、はい」

 にこやかな表情をしているが、私がちょっとってなんですか? と尋ねてこないことが逆に怖さを感じジーナは言葉を繋げられない。

 ハイネも無言で見つめだけであった。やはりちょっとの箇所が引っ掛かり、そこを話すのを待っているのか?
 
 それとも聞こえないふりをして無かったことにしてくれるのか……分からない。そうじゃないと言おうか? ではやっぱりちょっと……だなぁと思いジーナは訂正する気すら起こらなかった。

「あっ上着の件なんだけど」

 ジーナは自分でも情けなくなるほどの小声が出てきたことに驚く。

「私には頼みたくないのですね」

 ハイネの答えはジーナの腹を打つ。聞こえなかったふりはしてくれなそうか。

「というよりかは誰にも頼みたくなくてね」

「いえいえいいのですよ。私にはちょっと……ということですよね。分かります。でも回収いたしますね」

 微笑むがなにも分かっていない。あなたは理解していない。そういうことじゃなくてそういうことじゃない。

 いや、もしかして分かっているからこそそういうことを言うわけで、とジーナの思考はグルグル回りだす。

 おまけにノイスとアルが何も言わずにこちらを注目している視線で背中が痛い気がした。まるで悪いことをしている気分であって心苦しい。私は、なにも悪くもやましくもない。

「ハイネさん。少しややこしくなってきたがあなたはきっと勘違いをしている」

「何が勘違いなのか、私には全然わかりません。それに少しもややこしくないと思うのですけど」

 微笑んでいるがこの人は怒っているのかもしれない。何と言えばいいのか……ああもうなんてもどかしい。

 どうして正直に言うことがこんなに難しいのだ? いったい私は誰の何のためにこんなことをしているのか? 呼吸が苦しい。ここはきっと悪い空気が充満しているのだろう。新鮮な空気が吸いたい、外に出たい、とジーナは切実に思い出した。

「ああ……あの、ここで立ち話もなんですから外に出ませんか? ほらここは空気が薄いですし」

「薄くないと思いますけど。それに歩くって二人で、外を歩くというのですか?」

「はい。歩きながらの方が話しやすいし行きましょう。散歩です散歩」

 ハイネは目を逸らし俯いた。明らかに乗り気でないその完璧なポーズにジーナはどこか違和感を覚える。

「私はこれから仕事の準備がありますし、それに……ジーナさんはちょっと、うーん」

 意趣返しか? だが私はそんな断り文句には負けない、とジーナは前に出た。

「ちょっとと言わずに行きましょう。そんなに時間は取りませんし」

「でもちょっと……うーん」

 ちょっともいっぱいも無いんだよ、とジーナはもうその返事を無視することにした。この子をどうにか外に連れ出さないといけないし上着を回収させてはならない。

「そういうことで行きましょう。どうか来てください」

「外に出たいのなら一人で行かれたらどうです? 私はここにいます。あっ梃子でも動きませんから」

 ジーナはそれを聞くと体の中で激しい何かが通り過ぎていくそのなかでハイネの左手を掴んでいた。

「梃子がなんです。私の手は梃子よりも強いですので諦めていただく」

 告げるとハイネの表情が驚きから何故か感心しているような安心しているような奇妙なものに変化していくも、その意味をジーナは分からないまま手を引いた。するとそこには抵抗感が無くジーナはその感覚は共に歩くことにしたあの日のことを思い出すも、だがそれは違うとすぐに感覚を否定する。

 あの時は左手で右手を、いまは右手で左手を、と逆であるのだから違うと思い納得しつつ外に出た。