紙をめくる音だけが執務室に響いている。
バルツは報告書を読んでいる、正確に言うのなら読み流している。
ジーナは椅子に座ったまま口を利かずにその様子を見続けているだけであった。
この人は疲れている、とジーナはバルツの雰囲気を見てそう判断した。顔に刻まれた皺は深く暗さを宿し、疲労感が机から立ち昇っている。
今日は儀式だというのによりによってこの篤信家もとい狂信家が何をこう思い苦しみ悩んでいるのか……それはまぁ自分のせいだろうなとジーナは初めからそう理解していると、バルツは報告書を机の脇に除け、顔を上げた。憂いに満ちた表情。
それはとてもバルツに見合うなとジーナはある意味で好意的に受け取った。
「龍の護衛の職を停止し西方への将軍職に就くことを要請する」
ジーナが無反応でいるのを無視するようにバルツは止まらず進む。
「合わせて西方の地への道を確保し龍の信仰を布教すべくそのための準備を進めるよう依頼する」
ジーナは無言のままバルツを見る。バルツも目を合わせもう一度語る。
「その役はジーナ以外ではあってはならず、また同時に行わなくてはならない。護衛を辞さず西方の将軍となってはならず、当然護衛を辞さず西方の将軍に就かないということもあってはならない。そして龍の儀式後までジーナをこの中央以外の地もとい街の外に出すことも防止すること。以上」
「お断りいたします」ジーナが言った。
「おぅ、断れ」バルツが答えた。
「珍しく俺とお前の意見が合ったな」
「いいえ将軍。私はいつもバルツ様のご意見と合わせていたつもりですが」
「つもりなだけだろ。お前は二言目には逆らう男だ。こと龍に関しては意見の一致なんてずっとなかったがここに来てついに一致か」
感慨深そうにバルツは息を吐くもジーナは同じ息を吐かなかった。
私は龍に関してはあなたとは正反対の位置にいる。私達は逆なのだ。一緒にはなれない。
「その要請やらはソグ上層部とマイラ卿からでしょうか?」
「そうだ。ついでに言うがお前に関して龍の休憩所出禁指示も初めから聞いていた。だが俺はお前には教えなかった」
ジーナはバルツがあの一連の事件をはじめから知っていたとは想像もつかなかった。
龍に関してなら誰よりも情報を入れ自分に対してすぐさま説教をする男なのに? と疑問を抱くとバルツは虚空を睨みながら言う。
「あれがもしも俺は龍身様からの御命令であったら謹んでお受けした。だが、違った。あれもいまのこれも。全部が全部ソグ僧と親戚の連中からだ。こういった龍に関わる如何なるものも俺の元へと届けられるものは全て龍身様の判が押されているものだ。しかしこれらには、ない。よって俺は従わない。質問状を送るも奴らは龍身様がお忙しいということを理由にして回答を避けている。ソグ僧や親戚どもの指示に従うことなど御免だ。俺は奴らが何かやましいことをしている可能性もあるとして少し探りを入れている」
バルツは虚空から正面に視線を移しジーナを睨む。だがその眼は遠いところに向けた怒りしか感じられなかった。
「もしもだ。もしもやつらが何か邪悪な企みがあるとしたら俺が龍の護軍に号令を掛け、中央城を攻め龍の守護者として龍身様を救出し秩序を回復させよう。その時はジーナ、お前に最前線を任せたい。俺達シアフィル解放戦線とはもともとその使命を背負った組織なのだからな」
ジーナはいつもの眼差しによる熱さを感じ思う、この人は昔からこうである、と。
あの出会った頃からどうしてか自分に対しては全面的な信頼を寄せ、こんな存在を信じて疑わない。あなたと、対極であるのに。私はあなたの信仰を討つものであるというのに……
「謹んでお受けいたします」
重々しくジーナが頭を下げるとバルツは満足気に頷きながら龍の休憩所の方向へ目を向けた。
「とはいえ龍身様はとくに何事もなく無事でありお元気そうであるとも聞いている。龍身様のあずかり知らぬところで話が進んでいると考えたいが、その反対に龍身様も同意がなされている場合も考えねばならないな」
「何らかの理由で龍の判が押せないという状況でしたらどうでしょうか?」
「それを想定するとしたらシオン嬢が反対しているということになるな。ふむ、それもあるかもしれないな。お前を龍の護衛になることを勧めたのもあの人の力によるところも大きい。あのお二人の関係は一般的な主従関係とは違い、元々は御姉妹同然の関係であり、シオン嬢は姉という立場であるとも言われている。不興を買ってまで龍身様がお前の解任を強行するリスクを犯すとは考えにくい。よってここは自らの命令によって解任にはさせず周囲のものからの要請の形として、応じるかどうかはこちらに委ねるということにしたということかもしれないな。あるいはこの大事な龍の儀式が始まろうとしているのに護衛をやめさせるのも験が悪いとも言える」
ジーナは儀式後の話など、興味は無かった。全ては儀式の途中のその終わり間際。儀式が終わりそこから始まろうとしているものを、終わらせる。
その先のことはひとつしか無い。ただ帰り、戻す。自分とはそういう存在でありそれ以上にもそれ以下にもなりはしない。
そうであることだけが自分にとっての命であり生であり存在の印である、とジーナは左頬の痕を指先で触れ、安堵の息を気付かれぬように吐いた。
「儀式が終了後、龍身様から正式な通達が来たとしたら、俺は受ける。悪く思うな」
険しい表情のバルツがそう言うのをジーナは首肯するも思う。あなたは間違えている、と。悪いはずはなく私は悪くなんて思うはずもない。
あなたはそういう存在であるのだからそれは当然だと。そう、あなたは私と対立する敵であるのだから……
「だが俺はこうはならないと思う。龍身様はそのような通達を出すわけがないからそこは安心しろ」
表情を緩ませバルトがそう言うとジーナは自分の表情が強張るのがはっきりと分かった。
この人は、いったい何を言っているのか? 出さないなんて有り得ない、そうなったとしたら何があっても確実に、あの龍はこの私を……
「それは間違いです」
あなたは間違えていると叫びたいのを押し留めながら言ったのにバルツは首を振った。だからジーナは大声を出した。
「龍は私を排除しようとしているのですよ? あなたは間違えている」
なおもバルツは首を振る。
「いいや間違えているのはお前だ。龍身様はお前を排除しない。龍の護衛であることを望んでおられる」
相変わらず何も見えていないこの狂信者め、とジーナはそう思うと椅子が倒れていた。
ジーナは自分が立っていることに気付くも、頭が揺れた。
立ち眩み? 朦朧とする意識の中でジーナの頭の中はバルツの声が奇妙な響きで聞こえた。
「お前がいくら否定しようが事実は動くはずがない。お前があそこにいるのが最も相応しい一つの形だ」
刻み込んでくるかのような声に言葉に対しジーナは反論する。
「私は他の誰よりもあらゆる全てにおいて、龍とは遠く隔たった存在ですよ。あなたと違って、この私は」
違うと言ってくれ、とジーナは祈るようにバルツを見下ろす。俺とお前は違うと言うんだ、と。
あなたはどうしてそうと言ってくれない? 誰よりも龍を信仰しているというあなたが、この私を否定しないでどうするというのか? 狂信であり妄信だとでもいうのか?
ジーナはバルツの首が縦に落ちるのを期待するも、その首を横に振られた。
「遠いものではない、龍に近いものだ。そしてお前はそれにまだ気づいていないだけだ」
その言葉を拒絶するようにジーナは瞼を強く閉じた。だが声は止まらない。
「信仰の目覚めの際には迷い悩み苦しむ時が必ずある。俺はお前はいまその時期なのだと判断をしている。いつの日か必ずそれに気づくその時が来ると」
「来るはずがない!」
闇の中で叫ぶと両頬に生温いなにかが流れるのを感じたジーナは瞼を開いた。
眼前に広がるぼやけた景色の中で頬と目に指を当てるとそこには涙がありジーナの胸には悔しさがこみ上げてきた。
なんだこれは? これではその言葉を証明してしまったようなものではないのか?
違うと叫びたい……違う……私はそういう存在ではないと……この人に対して……この世界に対して……
「座れジーナ」
バルツは報告書を読んでいる、正確に言うのなら読み流している。
ジーナは椅子に座ったまま口を利かずにその様子を見続けているだけであった。
この人は疲れている、とジーナはバルツの雰囲気を見てそう判断した。顔に刻まれた皺は深く暗さを宿し、疲労感が机から立ち昇っている。
今日は儀式だというのによりによってこの篤信家もとい狂信家が何をこう思い苦しみ悩んでいるのか……それはまぁ自分のせいだろうなとジーナは初めからそう理解していると、バルツは報告書を机の脇に除け、顔を上げた。憂いに満ちた表情。
それはとてもバルツに見合うなとジーナはある意味で好意的に受け取った。
「龍の護衛の職を停止し西方への将軍職に就くことを要請する」
ジーナが無反応でいるのを無視するようにバルツは止まらず進む。
「合わせて西方の地への道を確保し龍の信仰を布教すべくそのための準備を進めるよう依頼する」
ジーナは無言のままバルツを見る。バルツも目を合わせもう一度語る。
「その役はジーナ以外ではあってはならず、また同時に行わなくてはならない。護衛を辞さず西方の将軍となってはならず、当然護衛を辞さず西方の将軍に就かないということもあってはならない。そして龍の儀式後までジーナをこの中央以外の地もとい街の外に出すことも防止すること。以上」
「お断りいたします」ジーナが言った。
「おぅ、断れ」バルツが答えた。
「珍しく俺とお前の意見が合ったな」
「いいえ将軍。私はいつもバルツ様のご意見と合わせていたつもりですが」
「つもりなだけだろ。お前は二言目には逆らう男だ。こと龍に関しては意見の一致なんてずっとなかったがここに来てついに一致か」
感慨深そうにバルツは息を吐くもジーナは同じ息を吐かなかった。
私は龍に関してはあなたとは正反対の位置にいる。私達は逆なのだ。一緒にはなれない。
「その要請やらはソグ上層部とマイラ卿からでしょうか?」
「そうだ。ついでに言うがお前に関して龍の休憩所出禁指示も初めから聞いていた。だが俺はお前には教えなかった」
ジーナはバルツがあの一連の事件をはじめから知っていたとは想像もつかなかった。
龍に関してなら誰よりも情報を入れ自分に対してすぐさま説教をする男なのに? と疑問を抱くとバルツは虚空を睨みながら言う。
「あれがもしも俺は龍身様からの御命令であったら謹んでお受けした。だが、違った。あれもいまのこれも。全部が全部ソグ僧と親戚の連中からだ。こういった龍に関わる如何なるものも俺の元へと届けられるものは全て龍身様の判が押されているものだ。しかしこれらには、ない。よって俺は従わない。質問状を送るも奴らは龍身様がお忙しいということを理由にして回答を避けている。ソグ僧や親戚どもの指示に従うことなど御免だ。俺は奴らが何かやましいことをしている可能性もあるとして少し探りを入れている」
バルツは虚空から正面に視線を移しジーナを睨む。だがその眼は遠いところに向けた怒りしか感じられなかった。
「もしもだ。もしもやつらが何か邪悪な企みがあるとしたら俺が龍の護軍に号令を掛け、中央城を攻め龍の守護者として龍身様を救出し秩序を回復させよう。その時はジーナ、お前に最前線を任せたい。俺達シアフィル解放戦線とはもともとその使命を背負った組織なのだからな」
ジーナはいつもの眼差しによる熱さを感じ思う、この人は昔からこうである、と。
あの出会った頃からどうしてか自分に対しては全面的な信頼を寄せ、こんな存在を信じて疑わない。あなたと、対極であるのに。私はあなたの信仰を討つものであるというのに……
「謹んでお受けいたします」
重々しくジーナが頭を下げるとバルツは満足気に頷きながら龍の休憩所の方向へ目を向けた。
「とはいえ龍身様はとくに何事もなく無事でありお元気そうであるとも聞いている。龍身様のあずかり知らぬところで話が進んでいると考えたいが、その反対に龍身様も同意がなされている場合も考えねばならないな」
「何らかの理由で龍の判が押せないという状況でしたらどうでしょうか?」
「それを想定するとしたらシオン嬢が反対しているということになるな。ふむ、それもあるかもしれないな。お前を龍の護衛になることを勧めたのもあの人の力によるところも大きい。あのお二人の関係は一般的な主従関係とは違い、元々は御姉妹同然の関係であり、シオン嬢は姉という立場であるとも言われている。不興を買ってまで龍身様がお前の解任を強行するリスクを犯すとは考えにくい。よってここは自らの命令によって解任にはさせず周囲のものからの要請の形として、応じるかどうかはこちらに委ねるということにしたということかもしれないな。あるいはこの大事な龍の儀式が始まろうとしているのに護衛をやめさせるのも験が悪いとも言える」
ジーナは儀式後の話など、興味は無かった。全ては儀式の途中のその終わり間際。儀式が終わりそこから始まろうとしているものを、終わらせる。
その先のことはひとつしか無い。ただ帰り、戻す。自分とはそういう存在でありそれ以上にもそれ以下にもなりはしない。
そうであることだけが自分にとっての命であり生であり存在の印である、とジーナは左頬の痕を指先で触れ、安堵の息を気付かれぬように吐いた。
「儀式が終了後、龍身様から正式な通達が来たとしたら、俺は受ける。悪く思うな」
険しい表情のバルツがそう言うのをジーナは首肯するも思う。あなたは間違えている、と。悪いはずはなく私は悪くなんて思うはずもない。
あなたはそういう存在であるのだからそれは当然だと。そう、あなたは私と対立する敵であるのだから……
「だが俺はこうはならないと思う。龍身様はそのような通達を出すわけがないからそこは安心しろ」
表情を緩ませバルトがそう言うとジーナは自分の表情が強張るのがはっきりと分かった。
この人は、いったい何を言っているのか? 出さないなんて有り得ない、そうなったとしたら何があっても確実に、あの龍はこの私を……
「それは間違いです」
あなたは間違えていると叫びたいのを押し留めながら言ったのにバルツは首を振った。だからジーナは大声を出した。
「龍は私を排除しようとしているのですよ? あなたは間違えている」
なおもバルツは首を振る。
「いいや間違えているのはお前だ。龍身様はお前を排除しない。龍の護衛であることを望んでおられる」
相変わらず何も見えていないこの狂信者め、とジーナはそう思うと椅子が倒れていた。
ジーナは自分が立っていることに気付くも、頭が揺れた。
立ち眩み? 朦朧とする意識の中でジーナの頭の中はバルツの声が奇妙な響きで聞こえた。
「お前がいくら否定しようが事実は動くはずがない。お前があそこにいるのが最も相応しい一つの形だ」
刻み込んでくるかのような声に言葉に対しジーナは反論する。
「私は他の誰よりもあらゆる全てにおいて、龍とは遠く隔たった存在ですよ。あなたと違って、この私は」
違うと言ってくれ、とジーナは祈るようにバルツを見下ろす。俺とお前は違うと言うんだ、と。
あなたはどうしてそうと言ってくれない? 誰よりも龍を信仰しているというあなたが、この私を否定しないでどうするというのか? 狂信であり妄信だとでもいうのか?
ジーナはバルツの首が縦に落ちるのを期待するも、その首を横に振られた。
「遠いものではない、龍に近いものだ。そしてお前はそれにまだ気づいていないだけだ」
その言葉を拒絶するようにジーナは瞼を強く閉じた。だが声は止まらない。
「信仰の目覚めの際には迷い悩み苦しむ時が必ずある。俺はお前はいまその時期なのだと判断をしている。いつの日か必ずそれに気づくその時が来ると」
「来るはずがない!」
闇の中で叫ぶと両頬に生温いなにかが流れるのを感じたジーナは瞼を開いた。
眼前に広がるぼやけた景色の中で頬と目に指を当てるとそこには涙がありジーナの胸には悔しさがこみ上げてきた。
なんだこれは? これではその言葉を証明してしまったようなものではないのか?
違うと叫びたい……違う……私はそういう存在ではないと……この人に対して……この世界に対して……
「座れジーナ」


