ジーナの鼻にハイネの握られていた掌が二つ当てられ花開く。激しい重厚な香りが一気に広がった。

「どうです? 臭いですか? 香りますか?」

「なんだこの豪華な香りは」

「これはあなたが待ち望んでいたあのバラの香りですよ」

 これが、とジーナは再度息を吸った。鼻孔に広がる暴力的なまでの香り。あの小さな蕾はこんなものをひた隠し秘めているというのか。

 けれどもどうしてここにこれが?

「これは香水です。手を洗うについでにこの先にお店があって行きましてね。店員はもういませんでしたけど手紙を残して持ってきました。品種は一緒なはずです。あの子たちが花開いたらこの匂いであの辺りは満たされるのです」

 香りに囚われてしまったのかジーナは返事や言葉を出すことができずにいるなかでハイネが勝手に話を進めていく。心を読むかのように。

「あなたは花の開花を楽しみにしていましたが、仕方がありませんよね。私の名誉の為ですもの。まぁ私も手を洗った程度では少し不安だったので念のために買いましたが、良かったです。ほらもっと吸ってください」

 鼻から肺に薔薇が押し込められ気分は窒息寸前であったのにジーナは苦しみを覚えなかった。

「龍の休憩所のは見た目を楽しみましょう。眼で見る、それぐらいでいいのですよ、その程度で。ここまで近づいて香りをかぐ必要もありません。いまここでやってしまえば十分です……薔薇の本質は香りにあるのですから」

 花開く掌から違う臭いがし棘のように刺さるとジーナは苦しみを覚えた。

「いや、違う」

 言葉にハイネの掌が反応するとその臭いは強くなった。

「獣臭がする」

「なるほど鼻が良いですね。でも、バラの花弁の奥には獣がいるかもしれませんよ」

「いるとは思えないが」

「あのような可憐なもののなかには思わぬ野蛮さがあります。見た目と中身が往々にして違う、とはあなただってご存じですよね?」

「痛いほど存じているよ。外見は理智的で綺麗だけど中身は不可解で凶暴なのとか」

「あららそれはいったいどこの誰のことですか?」

「それは言えない」

「ふーん。それが誰であるのか私が見せてあげますよ」

 声が近い、とジーナが思うと同時に掌の花が除けられ、ハイネの眼が現れた。

「悪口を言った口はこれですね? 懲らしめてあげましょう」

 顔を引き寄せハイネは口をジーナの口に合わせ、それから呼吸を、いや息だけをゆっくりと吸い上げだした。

 思考が停止したジーナは動けず反応できずにいると、やがてハイネが離れ唇についた唾液の糸が切れたところで止まった。

「罰として薔薇は没収です。私を貶したのですから当然の向かいですよね」

「ああ、たしかに花の芯には獣がいたな」

「また憎まれ口を叩いて……不可解で凶暴な獣ってあなたですよジーナ」

「私はそうじゃない」

「みんな自分はそうじゃないと言うのですよ」

「自分の酒臭さに気付いていないのと一緒だな」

 ハイネは睨みつけてきたがどうしてか微笑みだした。とても獣じみているとジーナには見えた。

「なんですさっきから挑発して? それはどういう意図からですか?」

 顔がまた近づき微かに開く口から息がかかる、薔薇の匂いが零れてきた。

「欲しいのですか? 返してほしいのですか?」

「何も欲しくも返してほしくもない」

「そんなはずはない。それならあんなことは言いません。求めているからこそあんなことを言って私を近づけさせるのです。あなたの目論み通り近づきましたよジーナ。良かったですね」

 ハイネの息がかかる。薔薇の匂いは香るもののそれではまだ。

「誤魔化し切れていない」

「服の襟に着いた酒の臭いですよこれ。そこまでいうのならもっと近くで私の中ががまだ酒臭いかどうか確かめてください。いいえ確かめなさい。そして否定しなさい」

 ハイネは口を閉ざし呼吸を止めたところでジーナはその後頭部を引き唇を合わせ吸い寄せた。

 薔薇の香りが自分の中に入って来るのをジーナは感じながら奥へ奥へと入っていくと、酒の臭いではなく獣の脂の臭いでもなくそこにはハイネ自身の匂いが……

 それに触れた瞬間にジーナはハイネから離れようとするも、逆に後頭部を抑えられ少しの距離しか稼ぐことができなかった。

 何も言わずとも何かに気付いたような顔をハイネはしていた。

「なにが、いました」

 尋ねる声は逃げ場を設けないほどに真っ直ぐだった。

「酒はなかったが……奥に獣がいた」

 鼻で笑うハイネの息がかかった。

「そういうのなら、あなたにだっていますよ。私にいるのならね」

 また唇が重ねられるとジーナは龍を迎える歌声が消えていることに気付く。

 耳を澄ますも微かにも聞こえず、パレードは無音で以って終わりを告げていた。