自分はルーゲン師のことが嫌いではなかった。もちろんあまり好きでもなかったが。

 けれどもこの感情すらもう過去のものでありもとには取り戻せはしないであろう。

 私はルーゲンのことが嫌いだ、とシオンは初めて心の中でその感情を言葉にした。

 それはなにも私を侮ったり悪意を抱いていることへの反感から発してなどはいない。

 彼は今まで通りに変わらず、それどころか以前よりもずっと自分に対して敬意と好意を示していることは分かるし、そこには媚びや打算的な不愉快さは、ない。もともと彼はそういう男であり素がこうなのだろう。

 だが、それが、嫌なのだ。

 その行動の一つ一つにひとつのメッセージが込められいちいちアピールしてくる。

 この僕こそが龍の婿でございますよ……

「シオン、その無言で豆を貪る癖を止めよ。また喉を詰まらせるぞ」

 馬車の中で無我夢中になっていたシオンをヘイムは注意する。

「またとはなんですかまたとは。それはやってから言ってください」

 こう返すと何故かヘイムは必ず呆れて絶句するなとシオンはその顔を尻目に水を飲んだ。

 嫌いな理由はなにか……はあまり考えたくはないとシオンは思うもすぐに考えてしまい、その感情の正体不明さによってさらに嫌悪感が増していくというその思考の下降渦巻さに頭を痛めた。

 せめてこれはヘイムには知られたくないと思うと、いつも三人での会談の際の言葉が再生される。

 ルーゲンの不快な声、これはなんとか耐えられても、その相槌を打つ隣の声に……というかあれは、ヘイムではなく

「おい、とにかく水を飲め。はやく」
「あっはい」

 また怒られちゃったなと息を吐きつつシオンは考えるのをやめにした。こんなのは結論が出ない。

「ヘイムは意外と歓迎の式典がお好きでようですね。以前はさほどでもなかったのですが」

「ああそうであったな。まぁ妾もいよいよ民の前に出る立場となるのだからな。こうなったら好きとか嫌いとか言ってられぬ。それにな、それに」

 ヘイムは馬車窓から外に目をやると、シオンも振り向き同じ方向を見た。

「この先は外に出ることもあまりないからな」

 いや出られます、と言いかけるも口の中それを仕舞い込むと、苦虫の味がした。

 それはあれか? ルーゲンと一緒に外には出られないという意味か?

 龍身と龍の婿は外出の際は単独で中央から出なければならない。

 何故なら龍は無論の事、龍の婿は龍の代理であり、中心にいなくてはならないため……このように二人で外で何かをするというのは、いまだけ。

 私が傍にいるというのに……だから駄目だ、この感情が漏れるのが嫌だ。

 どうして私にこんな思いをさせる……ルーゲンめ!

「今日もまたルーゲン師ですよね」

「いや、今日の式典はシオンと一緒だが」

「そうでしたっけ」

「何をとぼけておる。ルーゲンはマイラと打ち合わせだろうに」

 ああそうかとシオンは思い出した。後続として到着したマイラ様を一昨日歓迎した後にルーゲンは二人で話し合い、そして今日も二人で……あの男は私の婚約者まで奪い取ろうというのか!

「だからシオン……豆を一心不乱に齧る癖をやめい!」

 気付けば膝元にこぼれている豆殻の欠片たち。なんともあさましく、シオンは自分の取り乱し様に嫌気が差し、ルーゲンから離れるようにした。どうして私はこう男の存在によって心が乱される。

「そういえばハイネからの手紙に龍の休息所の手入れの件に触れていましたね。昔に見た時はかなり優雅な庭園でしたけれども、いまだともう全てが枯れ果ててしまったようですが」

「そうなるだろうな。あの人は休息所を使うタイプでもなかったし。戦乱となり誰も手入れをしなくなったのだろう。一からやり直しもまたよかろう。こちらの新しい門出には相応しいのかもしれぬ。それについて妾は考えておるのだが中央に到着後はしばらく休憩所で政務を執ろうと思うが、どうだ?」

「中央の城内ではなくそちらからですか?」

「修復工事やら何やらでまだ時間がかかるそうであるし急がせたところで何かあったら困る。正直あのような重苦しいところに四六時中いるよりかは外気に触れるところでやった方が頭と身体にとっていいだろうしな。何か反対することでもあるか?」

 反対する箇所は、とシオンは深考状態に入った。

 このまま順調に予定を消化していけば中央に到着まであと一週間丁度であり、届いている報告によれば修繕も同日に完了するとのことであるが、別にこちらとしては急いでいるわけでも切羽詰っているわけでもない。

 いまヘイムがこうしてそこを問題としているのはこのまま中央の城に入りたくはないという、その意志。

 それはなにかといえば……前龍が亡くなった後にすぐ入って政務を行うことは良いことなのか、これではないか?

 単純に血族であり、上の存在であり、前王といえる存在の逝去に対して喪に服すべきでは?

 このようなことを考えているのは恐らくはヘイムのみだろう。

 ソグ上層部はあれは偽龍でありそのような気遣いは無用と決定済みである。

 中央の民もまたそれどころではないうえに記憶も薄れているだろうし、少し経てば忘却するだろう。

 敵であり存在と記憶が消去されていくものに対してそのようなことは必要なのか?

 シオンは必要ないと思いつつも自らの兄のことを思った。必要はないがその心を否定することはできない。

 龍身としては表立ってせめてもの間だけは喪に服したい、などとは立場上言えるはずはない。当然のことだ。

 よってそこを私は汲み取らないといけない。そうでなければ私がここにいる意味などないのと同じこと。

 他の理由なら戦乱によって中央の城内はまだ血臭が強いために清めがもうしばらく必要であると言えばそれで反対はされないだろう。

 身の周りの荷物は龍の休憩所に運べばしばらくは問題は無く、むしろそうやって分散させたほうが政務もやりやすいかもしれない。

 ヘイムはまだ龍ではなく途中なのだ。儀式を経て龍となる。そうしたら中央の龍座に移ればいい。

 これは通常では皇太子のやり方であるが、いまは龍がいない異常事態であり、それが続いており問題は特に生じてはいない。

 なんと言ってもここにいるのは正真正銘の龍となるものであり、いま中央へと向かっているのだ。迷いなく真っ直ぐに。

 そうであるから問題は無いだろう。誰もその龍座を奪おうとするものなどいない、もうどこにもそんな存在はいないのだ。

 あの座はヘイムが座るのみ。

 それ以外になく、私達はその道を進んでいる。そのことについて私は、この龍の騎士は……だがシオンは喉の奥に塊が詰まったような感覚に陥り呼吸が止まる。

 何かが出て来る、だがこれは出してはならない、と咄嗟の判断のもと呑み込んだ。

 謎の現象であるが、いまなにか自身に危険なことが起きた、としか言い様がないことであった。

 それ以上深く考えてはならないと口を塞がれたような、それは自身の血によるものなのか? 龍の騎士として……

「まぁ要はこの面白い状態を少しでも長引かせたいということですね」

 試しに少し高めの声を出すと簡単に出たことでシオンは安心した。

「こら、そのように言ったら妾がズル休みをしたいようではないか。違うからな違うぞ。妾は全体のことを考えてそう言ったのだ。決して私的な理由などではない」

「将来大変な仕事に追われるのならちょっとでも楽になる時間が欲しいとか、分かりますよその気持ちは」

「だから違うとこの痴れ者め。だいたいな、龍の休憩所におったとしても面白いことなどそうはないわ」

 そうでしょうか、とシオンは手紙を開きヘイムに見せた。

「これはとある女官からの報告なのですが最近ジーナは龍の休憩所で毎日仕事に勤しんでいるようですね。彼も復帰することにしたのですからついにやっと龍の護衛としての自覚が出てきたと言えるでしょう」