華やかではあるが言い方を変えれば重々しく、この中に黄色があれば確かに良かったかもと階段を登りながらジーナはまたもや思うも、これを渡す相手を思い浮かべるとその懸念は消える。

 ハイネにはこれが似合うだろうしその一点の色は疑惑を生むだろう、これはなんですかと?

 そんな面倒なことは避けるべきだとジーナは我ながら柄にもないと考えていると、いつの間にかもうその脚は階段を昇り切ろうとしていた。

 物音が聞こえる。爽やかな水の音が耳に入って来てジーナは思う。

 こんなに心地よい音がしているのに、その胸は高鳴るのは不安からだろうかと。

 そして登りきると真っ先にハイネの姿が目に入った。

 こちらには気づいていないのか背中しか見えないが、どうしてだかジーナはそこへ向かって足早となった。

 足音は隠していないしたくさんの音が自分の身から鳴っているはずなのにハイネは作業に熱中しているのか振り返らない。

 近づいているのに頑ななまでに背を向けたままであるのでジーナは声を掛けるも聞こえないのか、無反応。

「ハイネさん」

 また声をあげたが、届かない。これはおかしいと思うと同時に気付きジーナの心は不快感が湧いた。わざと無視しているのではないか?

 聞こえないはずなんていないここまで近づいて声を出しているのだから、ここには二人しかいないのだから、それになによりも……私の声なのだから、とジーナは理屈もなくそう思いつつその無反応なハイネの肩に手を乗せ引くと、扉のようにくるりとハイネが正面を向きジーナは一目見て感じた。

「あらジーナさん。いたのですか。ごめんなさいちっとも気づきませんでした」

 青白く無表情であるのに反するように赤い瞳はいつもよりも濃く黒くジーナはその色が今までよりもずっと綺麗に見え、その瞬きを四度までするのを目を離さなくハイネからも無言で見られるがままにさせた。

 ジーナは無意識に呼吸をしたからかようやく意識が戻り慌てて目を逸らし手で顔を拭いながら言った。

「呼んだけど反応しなくて」

 なんで言い訳をする? とジーナは思った。

「集中していたものでして」

 素っ気なく言うその声は嘘には聞こえずジーナは二の句が継げないでいるとハイネは怪訝そうな顔をした。

「なんです? おかしいですよジーナさん。さっきも私の眼を見て。何かついていました?」

「いやついてはいないんだついては、ただ……」

「ただ?」

 赤い瞳が一歩近づくとその赤光が目に入り、また背けた。それは危険だと何かが知らせてきたように、胸が痛んだ。

「……まぁどうでもいいのですけどね。作業をするのなら勝手にどうぞ。私はこっちで一人でやっていますから」

 言うなりハイネは再び背を向けて元の作業に戻っていくのをジーナは呆気にとられて見ていた。馬鹿みたいに。

 その手には行き場を失った花束があり、どうすればいいのか分からないまま佇むまさに馬鹿がいた。

 花束について何も聞いてこない、とジーナの頭は動き出した。

 見えなかった? そんなはずはない目線の高さにこれがあったのだから、眼には入ったものの何も言わなかった、こうなる。

 だが不可解だ。常人よりもなにかと目敏いハイネであるのだから、いつもみたいにそれはどうしましたと聞くのに決まっている。

 自分に関係が無くても聞いてくる、聞かれたくない時に限ってよく聞いてくる、それが今回は聞かれたいのに聞いてこない……こんなことは有り得ない。

 そういえばそれはなんです? と言い忘れたのかもしれない。

 こんな二人しかいない空間に一方が花束を持ってきたらそれは自分に関係すると思うしかないだろうに。

 それも一昨日に花束と口にした当人が今日に限ってそのことを忘れ見逃しているとか……これも故意だ、とジーナの鈍い勘が動いた。

 でもその理由は?

 そんなことは分かるはずがないとジーナはそのことは分かっていた。こんないつも不可解千万なことばかりする女の心など分かるはずがない。

 たぶんにこれは嫌がらせだとジーナは考えることにした、だって相手は敵だから。

 こうやって心をかき乱している様子を背中越しで感じてほくそ笑んでいるのかもしれない。正面から顔が見れないのが残念だが、きっとそうである。

 そうでなければこんなことなんてしない。人を困らせて楽しむ……実に性格の悪い試み、実にハイネらしい行動、とジーナは自らの論理及び結論に納得し一歩前に出た。

「あの、いいか?」

 弱々しい自分の声を聞こえジーナは動揺をした。なんでそんな声が出るのだ。
情けなさが湧いてきた。

「なにか?」

 振り返りもせずにハイネは返事をしたせいかジーナの足は勝手に震えた。

 ハイネの声に怒りといった感情は籠ってはおらずひたすらに無であった。その感情の無さにジーナは不安を覚える。でもどうして?

「渡したいものがあるのだが」

「ああ机の上にでも置いといてください」

 こともなげにそう言われジーナは立ち尽くし机を見ると広く何も置かれてはいない。

 言われたままここに置けばいい、とジーナは自分に言った。なんならこれを置いて帰っても良い。

 置いてはいけない理由は無くむしろ置いて済むのならそれはお前が望んだことだ、と。

 そうすれば何もかもが終わる、面倒なやり取りをせずに、その面倒なやり取りをしたくなかったお前はこれに従うべきだ。

 おいて、おしまいにすればいい。

「そういうものじゃない」

  自らの意思に反しながらジーナが答えるとおかしな間が生まれ、ハイネはやや早口で言った、気がした。

「……机におけないなら床の上でもいいですよ」

 そういうことでもない。

「直接渡したい」

 なんだ今の声と言葉は、と自らの意思から離れたものが自分の口から出ているとジーナが困惑していると、ハイネは少し手を動かした後に屈んでいた身を起こしだした。

 似合わないぐらいに緩やかに、またジーナもこんなにハイネの背中を見続けるのも初めてだと妙な発見の中にいると、やがてハイネは煩わしげに振り返り、その赤い瞳が目に入る。

「はい? いったいなにをですか?」

 視線は不自然なほど上を向き花束から目を逸らしたまま。

 だからジーナは花束を持ち上げその視線の高さまで上げた。

 これで見えているはずなのにハイネは言葉を発しない。押し黙り続けている。自分からは決して近づかない意思。

「これを」
「これとは?」

 強情な、とジーナの頭に血が昇る。

「この、花束を」
「私に、どうしてです?」

 ここでもまた表情は変わらないのに赤い瞳の濃さが増していくのが見えた。

「この間に花束云々と言っていたから」
「そうでしたっけ?」

 お前が忘れているはずがないだろうに、とジーナの頭は怒りに満ちていく。

「そうだったはずでは?」

「まぁ言ったとしましても、あなたはどういうつもりでこれを?」

「回りくどいな。受け取って貰いたいのだけど」

「ですから、どうしてあなたは私にこれをさしあげたいのです? 私はジーナさんからそういうものを受け取る理由とかありましたっけ?」

 わざとでは、ある。故意的でもある。だがそこには真剣な問い掛けしかないとジーナには感じるしかなかった。

「私は」

 掠れ声がでるとハイネはジーナに身を寄せてきた。ほんの些細な拍子で零れる音を拾うためのように。

「私は……」

 ハイネのことを、ことを……? 溢れだした疑問が言葉を消し言葉を失わせたのかジーナは手に持っていた花束を机の上に置いた。

「いまは、こうする」

 そう言うとハイネの赤い瞳に黒い陰がかかった。

「はい、そうしましょう。理由が思い出せないようですが、思い出しましたら言ってください。そうしたら花束をいただきますから。なんだかお疲れのようですから休んだらどうです? どうぞお座りになって」

 そう言われるとジーナは反射的に椅子を引いてその背に立った。

「そちらが先にどうぞ」

 ハイネは椅子をジーナを交互に目配せした後に何も言わずに座った。

「どういたしまして」

 ジーナが茶をふたつ用意し自分とハイネの前に置く。

「ありがとうございます」

 何でもないやり取りであるのにジーナは未だかつて経験したことのない緊張感が全身を支配していた。

 しかもそれがハイネという馴染み深い存在を相手にして。

「……昨日はすごく楽しかった」

 不意にハイネが独り言を言い出した。完全に独り言である。声が自分へ向けられていないとジーナにははっきりとわかった。

 今までそんな声は、聞いたことが無い。

「また次回も行きたいな」
「……良かったな」

 ジーナは半ば不同意ながらこう答えたものの、どんな声で答えれば良かったのか? を考え出した。

 明るい声か? 暗い声か? いま自然に出た声は重く低い音だが、これはおかしくはないか?

 そもそもこんなことを考えるのが間違いであり、こちらの声など関係ない、とジーナは自意識を加速させているとハイネがこちらの振り向いた。

「はい、とても良かったです」

 今日初めての笑顔をハイネは見せた。昨日のことを思い出したことによって。

 ここまで楽しそうな顔をしているということは……いや、いい。このまま黙っていれば話は続かない。嫌な話は流れてこない。

「あの市場の入口を待ち合わせにしたのです」

 なんで話を続ける、とジーナの口に苦いものがこみ上がり背中に痛みが走った。

「そうしたら彼ったら忘れ物をして」
「いえ、話さなくていい」

 上の空を見つめながら話していたハイネの微笑みが真顔へと変わるも、そのまま空に向かって問うた。

「私は、話したいのですけど。思い出は他人に話すとより良くなるのですから」

 それは、何も私相手でなくていいだろうに。どうして私を傷つけに来る。

「私は聞きたくはない」

 心からそう思うと、ハイネが横目で見てきた。

「駄目です、あなたは私の話を聞くべきです、聞かなければならないのですよジーナさん」

 どうして私をここまで苦しめる? と、どこかで聞いた言葉で自分の心が満たされ、その痛みが広がっていき、冷たく痛む胸から広がっていくのはなにか? ぬるぬると流れ出るこれは血か? 何に対しての、傷?

「待ち合せましたらあの人は先ず私の手を」

 手を、と聞こえると、手を、ジーナは掴んでいた。ハイネの手首をとっていた。

 まず体が動き、意識は遅れてあとからやってきた。それからその手首の熱を自分の胸の熱を感じ、ハイネの鼓動と自分の鼓動が聞こえ、血が流れ出し、それからやっと言葉が追い付いてた。

「やめろ」

 何もかもが身体の反応の後追いであり説明であり解釈であり、言い訳であった。

 ハイネは驚いた顔をし固まり、時が死に、それから表情が溶け出し壊れてしまいそうなほどの崩れて歪んだ笑みがこの世に現れた。

 この後に言葉が、来る。その後追いの言葉を聞いてしまう前にジーナは手を離そうとするもハイネの指が絡まり繋がり離さず、近づいてきた。

 これは絶対に離さないな、と察したからこそジーナはせめて顔だけでも見えないようにするために、その顔を見て苦しみたくないために、ハイネの手を引き胸に抱きしめ、命じた。

「私にその顔を見せるな」

 ジーナは瞼を閉じ、自らをも何も見えなくさせた。こうなった以上、見るものも見てはいけないものもなく、あるのはその抱きすくめるハイネの形とその熱。

 熱。ジーナは自分の胸の熱が流れ広がりいくのを感じていた。どこへ? ハイネへ、その額に、その頬へ、その心へ。

 この熱の名をジーナは知らない。熱は熱でありそれ以外の名を持たないが、解釈は流れゆくものによるもの。

 そうであるから、ジーナは自分の胸元がさらに熱くなっているのを感じる。自分のものではなく、よってそれは。

「ハイネさ……ハイネ?」

 言い直して呼ぶと、まず熱い吐息が胸に吹かれ、そのあとに名が囁かれた。

「ジーナさ……ううんジーナ」

 そういえばなんでお互いに急に呼び方を変えたのか……それよりも何故いま呼び合ったのか分からないまま、また引き寄せるとまた熱い息が胸を突いた。

「ジーナ、落ち着いてください」