おちるは奈落の底、とはならずにジーナは床を多少鳴らしよろめいた程度に無事着地をする。

 観客もないのだから反応はどこからも起こらなかった。それどころかあたりは静かであり、それが否応にもいまは二人きりだという意識を再起させるなかでジーナは思う。

 ヘイムからなにも反応がないのはどうしてか、と。見ないようにはしてはいたが、もしも腕の中に何も無かったり、違うものがあった場合は……どうする?

 不安になりながら腕の中を少しだけ覗き込むと、ヘイムの右目が見えた。その見開かれた目と視線が合うがすぐに互いに逸らし合い無反応と沈黙がその場を支配する。

 何をやっているんだ私もこの人も、とジーナは思ってから数秒経つと咳払いの音が聞こえ、再び目を下に向けるとヘイムは遠くを見ながら言い出した。

「なるほど、こういう降り方もあるのか……面白かったぞ」

 腕の中から出てきた意味不明な言葉を聞いたジーナは変な声を出して反応するとヘイムは早口となった。

「違うのか? ではいまのは俺はこんなこともできるのだぞアピールか? そうかそうか、うむ、分かったぞ」

「えっ? 何を言っているのです?」

 ジーナは混乱しながら聞くとヘイムの口はもっと駈足となる。

「冗談だ。あーいまのは試験だ、試験。つまりはだ、そなたが護衛として適正があるのかないのかどうなのかの最終試験。分からぬのか? わざとだわざと。予測不能な緊急事態でもきちんと護衛の義務を果たせるかどうかを、妾自身で試したということだ。それをそなたは見事に合格した。大義であったぞ、ご苦労。認めてやろう」

 額に汗を滲ませながら良しと満足げな顔のヘイムを見ると、ようやくジーナの頭でも話の内容が了解でき、そしてこんがらがる。

「いや、いまのはなんというか、私が立ち止まったあなたの手を引っ張って……」

 つまり私があなたを落としてこうして抱き抱えて、とジーナが言おうとするとヘイムが怒りだした。

「いまの話を聞いておったのか? 違う、全部こちら側によるわざとのおふざけだ。戯れごとであるので、気にするな」

「そんなバカな。おふざけにしては度が過ぎているのでは。だいたいさっきもうしないと言っていたうえにこんな危険なことを試さなくてもよいのでは」

「なんだお前は? 文句でもあるというのか? こちらが良いと言っているのに、しつこくねちねちやって何がしたいのだ? 言葉を改めよ」

 興奮していくヘイムを見てジーナは逆に心が冷静になっていくのが感じられた。

「言葉に関しては問題にしないと貴方は仰せられましたが。どうか落ち着いてください」

「なんだその得意顔は。言い負かしてやったとでもいうつもりか? ああいえばこういう式の下らない水掛け論的嫌がらせ言動。どうして素直に、なんと試験だったのですか! あわわ驚きましたが、このトンマな私を信頼してくださったのですね。ありがたき幸せぐらい……と言えんのだ。言っても罰は当たらぬし妾の気は良くなるし全てが丸く収まるというのに、無意味に否定しおって。護衛なら護衛らしく妾を立てることぐらいせよ。それがなんだ押し倒しおって、何をするつもりだ?」

 よく回る舌だなとジーナは呆れながら聞く。

 「百歩譲って、妾が急に立ち止まったためにそなたが手を引っ張ることとなり態勢が崩れた、と仮定したとしよう。それをどうにかするのがそなたの仕事であり使命であり、それを上手くやったのなら、もう、それで、いいではないか? もう終わった話であるのにいやらしくしつこく聞いてくるだなんて、失礼にも程があるだろうに。そんな会話が好きなら勝手にするがよい。ただし一人でだ。一人でやれ。妾は付き合わんぞ。宙に向かってブツブツニヤニヤしていろ」

 言い終わるとヘイムは視線を逸らすどころか目蓋を閉じようとしていた。

「あの、そんな意固地になっておられるとこれを人に見られますよ」

「ひとぉ? 来て見たらどうだというのだ? まさかそなた。婦人と一緒にいるところを他人に見られでもしたら恥ずかしいという感性の持ち主なのか? こんなに妾に対しては強気で無礼千万な癖に女の子と一緒にいるところを見られたら僕は恥ずかしいとでもいうのか、え?」

 よくこんな意味不明な論理で人を叩くな、どういう感性をしているのかとジーナは不思議な気分で胸がいっぱいになった。

 こんなやりとりをするより、自分が聞かなければならないこととは……

「ヘイム様。試験云々や原因やらはとりあえず脇に置きます。それで怪我はありませんでしたか? 足を踏み外した際とか着地の際とかに、もしくは私が掴んだ手やいまの腕の位置などでどこか痛くなったりとか。いまだって身体を動かそうとしていませんし」

 だが返事はなく無反応のままヘイムは口を閉ざし表情を固め身動きしなくなった。

 それはどこか死を思わせるもので……まさか、もしかして、とジーナに戦慄が走る。

 冗談ではなく本当にどこか痛めた、あるいはなんらかの発作が起こり意識を失いつつあるとしたら?
 
 そうであるから降ろせと命じずにこの状態のままにさせているのでは? この推測が合っているとしたら、とそう思った途端にジーナは血の気が引き身体を震わせた。

 その責任は自分にあり……それは……だが、それがどうした?

 お前はどうして心を苦しめる?

 そもそもお前が怪我がどうだか、聞けた義理か?怪我どころではなく、この人の、この龍となるものの身体に対して……

 ジーナは自らの底の方から湧き伝わってくる小さな声や音を聞いていると何かが左頬に触れて来たために、我に返りヘイムを見ると微笑んでいた。
「どうしたジーナ? どこか痛いのか?」