のどかのスマートフォンから音が鳴った。あまり、普段なることがないので、画面をチェックする。
結局『よろしくお願いします』のスタンプを送っただけ。既読はついたが、特に連絡もなかった。
正直驚いた。
『今から出かけるから、テレビ局近くの公園前まで来るべし。車で迎えに行くから、待ってろ』
というナル兄からのメッセージが。どういうこと?
そのメッセージは突然だった。命令口調というまさにナルおにいさんらしい誘い方で、休日出勤をを命じられた。
歌い方がダメだったのかな。もしかしたら、踊りを合わせる練習をするとか?
完璧なおにいさんとしては収録までに私に叩き込みたいのかもしれない。
きっとダメだしされるんだろうな。そう、ネガティブに落ち込んでいた。
夜はバーで仕事なのに、昼にまで鬼監督に会わなければいけないとは、ちょっと災難だ。
既に彼の特性は理解している。
同じステージに立つ同士としての足りない部分を説教されることを覚悟して、メイクをして向かうことにした。
でも、どこで振り付けの練習するのだろう。バーの中だと狭いし、もしかしたら、カクテルについて教えるとかなのかもしれない。
公園に行ってみると、入り口脇にナル兄らしき人が乗っている高級な車があった。
「おまえと仕事してからちょっと肩の荷が下りたんだよな。今まで張りつめていたものがちょっと抜けた感じがする。何年も息を殺して生活していると息が詰まってさ。俺って音楽しかやってこなかったし、親が厳しかったんだよな。たまには遊びに行きたいけど、一人ってのもつまらないしさ」
「今日は、どの曲の振り付けをするのでしょうか?」
一応、持ってきた振り付けの説明の紙と楽譜を取り出しながら指示待った。すると、ナルおにいさんが笑った。
「休日にまで、楽譜持ってきたのか? 仕事やる気満々だな。でも、あいにく今日は俺が仕事モードはオフなんだよな」
「え? じゃあなんで? こんなところに呼び出したのですか? カクテル作りとか仕事の打ち合わせでしょうか?」
思わず思ったことを口にしてみた。
だって、仕事しないならば、私たちが会う必要はないのだから。
「仕事抜きで会うのは嫌か?」
ちょっとむっとした顔をされてしまった。
失礼だったのだろうか。いや、普段失礼なのは神酒成樹のほうだ。
「そういう意味ではないですけど……」
「どうせ暇人だろ。彼氏もいないし」
「そのとおりですが」
「まぁ、お前みたいな女と付き合いたいなんていうのはかなり物好きだろうな」
「ひどーい。どうして私にばっかり毒舌なんですか。ファンが私なんかといるところを見たらマスコミに通報されますよ」
「マスコミには仕事の打ち合わせで、いいだろ。それか、真剣交際してるでもいいかもな」
少しいじわるな笑い方をする。
やっぱり好きだなと思う。
「何それ、真剣交際ってどういう意味ですか?」
「あぁ、結婚すれば交際じゃないから問題ないよな?」
「そーいうことじゃないでしょ」
いくらいつものからかいだとわかっていても、頬が少し熱くなるのがわかる。
ナルおにいさんの顔色は全然変わらない。
やっぱりイケメンが美人でもない女性をからかって面白がっているだけなのだろう。
ちょっとくやしいけど、この笑顔は自分に向けてなのだと思うと案外嫌でもない。
ふと見ると、ナルおにいさんはやっぱりかっこいい顔立ちで、のどかをじっと見つめていた。
神酒成樹は、シャープなフェイスライン、きれいな瞳、きめ細かい肌、うらやましいくらいの小顔を持ち合わせていて、運転をする横顔に、つい見とれてしまった。
「俺にみとれてんじゃないぞ」
のどかのことを掌で転がしているとしか思えない。
神酒成樹は暇なのだろうか?
なんで夜にもバーで会うにもかかわらず、休日昼間に誘ったのだろうか?
疑問点は多々あった。
しかし、のどかはあまり深く考えない性格なので、今日の天気の良さに心地よくなっていた。
風が優しく包んでくれる日差しのやわらかい午後。割と好きな人の隣にいる。
キッズソングの番組あてにも感想と提案も長文で送っていた。
のどかの青春は歌に捧げたと言っても過言ではない。
それは、今の仕事をしたいから、歌を学んだのだし、何よりも音楽と子供が大好きだった。
ナルおにいさんは思った人とは違うけれど、テレビでは見せない根性とかプロ意識は楽屋でこそ感じられる。
やぱり良かった。この仕事ができて。
そんなことを考えていると眠くなってしまった。大きなあくびをすると、
「海まで運転するから寝ててもいいぞ。いびきかいても知らんけどな」
本当に嫌味な人だ。
神酒成樹はどの程度好きっていう気持ちがあるのかな。
同僚として好き、友達として好き、どちらだろう。
でも、よくよく考えると、どちらも好きの程度はあまり大差ないことに気づいてしまう。
そんなことを考えているうちに海の見える場所までやってきた。
この時期は人が誰もいない。それはまるで、自分たちだけのために海が待っていてくれたかのように錯覚してしまう。
そんなはずはないことは承知だけれど、だれもいない海は、天気はいいけれど、少し肌寒かった。
潮の香りが漂う海の風はしょっぱくてきもちがいい。髪の毛が風で揺れる。
「なんで、海に来たの?」
「疲れたら、海だろ。俺の場合は、広い海が癒されるんだよ。おまえも仕事に疲れが出る時期だろ。海に癒してもらえ」
もしかして、この人なりのねぎらいの行動なのかな?
たしかに、新人は特に疲れが出やすい時期だ。五月病という言葉があるくらい、少し慣れてきたこの時期がどっと疲れが出るのだ。意外と、気配り上手みたいで、純粋にうれしい。
「叫びたい事があれば、海に向かって叫ぶと、わりとすっきりするけどな」
「ナルおにいさんは絶対ストレスたまらなそうな気がするけれど……」
「俺は、繊細な音楽家でありバーテンだ。ストレスだらけだけど、最高のパフォーマンスを見せるために、がんばっているんだっつーの」
そうか、そうなのか。この人の魅力は、いつも全力で仕事に立ち向かっているから視聴者に愛されているのかもしれない。
プロとしての取り組みがお茶の間まで伝わっているからこんなに人気者になったのだろう。
疲れるときもあるし、いらいらするときも、体調の悪い時もきっとあると思う。それでも、毎日笑顔を作っている影には努力と苦労がきっとあるのだと横顔を見て悟ってしまった。
「今日は、たっぷり海と私に癒されてちょうだいね」
茶目っ気たっぷりに言ってみる。
「いや、おまえに癒しは求めていないがな」
真面目な顔で、否定された。
「それと、近々海で撮影するらしいから、寒いの覚悟しろよ。夏服で撮影だから」
「うそー。今日も結構寒いよ」
「番組って先に撮影するから、夏の分は春には撮るんだよ」
「夏にセーター着て撮影もあるらしいからさ」
「そういえば、季節の歌って結構あるよね。スタジオ内ならエアコンがあるけど、外はきつくない?」
「夏休みスペシャルの頃は夏休みに入るから、取りだめしたりスペシャルを放送してつなぐらしい。大人の事情だよ」
私たちのつかの間の休日は滞りなくあっという間に過ぎ去った。
のどのケアを怠らないようにしないといけないので、バーの中は加湿器がいくつか設置されている。
そのままバーテンとして私たちは仕事をする。
一応のどかも髪を茶髪のウェーブのかかった長い髪のウイッグをつける。
顔をテレビやネットにさらしているため、あまり知られるとまずいからだ。
「そういう髪形もわりと似合うかもな」
「褒めるなんて珍しい。今日は春なのに雪でも降るんじゃないですかね。ナルおにいさんはこういう髪形が好きなんですか?」
「今は神酒さんな。それに、俺も鬼じゃないんで、褒めることくらいある」
不器用な人なのかもしれない。
その日の夜、バーにお客さんがやってきた。
神酒さんに相談に来た男性だ。
「実は、失恋したんです。でも、忘れられないんですよね。好きだった気持ちが、憎しみに変わってしまいそうで怖いです。彼女の家に行って話し合おうと思ってもずっと拒否されていて、新しい彼氏に怒鳴られました。俺に対してストーカー扱いですよ。いっそのこと刺し殺してしまって本当の犯罪者として彼女と名前をこの世に残したいなぁ」
「人間は忘れるように脳が作られているそうです。忘れられなかったり、そこだけ覚えているということも人間の悪い部分とも言えますし、いい部分とも言えますね」
冷静沈着な神酒はスマートでクールで紳士的だ。
「はじめてちゃんと付き合った彼女で、恋人らしいことは一通り楽しんだと思います。なんでふられたのかわからないんです」
「人間なんて理由なく恋人をチェンジする生き物だと思いますよ。記憶というのは、美しく塗り替えられていくことが多いんですよ。ささいなケンカやむかっとしたことがあっても美しい思い出に塗り替えるのです」
神酒の言葉は悟りを開いているかのようだ。
「俺、何か悪いところがあったのかな」
一人悶々と悩む男。こういう人がストーカーになるのかもしれないし、犯罪者になることもあるのかもしれない。
「そんなあなたに深海の泡というカクテルを作りました」
「これが噂の創作カクテルですか? 俺、彼女と幸せになりたいんです」
にこりと微笑むと美しいカクテルが出てくる。
「名付けて深海の泡。人魚姫は失恋してしまい泡になって消えてしまうというお話を基に創作したカクテルです」
差し出されたカクテルはビールのような泡が浮いており、炭酸の気泡が上に向かって消えていく。
「青いビールでしょうか? 珍しいですよね。赤いビールなんかもありますけれど」
一口飲むと男はビールの苦みに気づく。見た感じは甘そうなのに実は、苦みを持ち合わせたカクテル。
「深海って不思議だと思いません? 長生きな魚、美しい色の魚、人魚がいてもおかしくないと思うんです。深海をイメージしています。中に入ったカラフルなゼリーは美しい魚のイメージです。心の深い部分の悲しみというのはなかなか取り除くことはできません。この深海の泡は自信作ですよ」
「きっと嫌なことを忘れますよ」
神酒の笑みは本心が読めない。
客が帰るとのどかが質問した。
「神酒さん。今回のカクテルはどんな作用があるんですか?」
「彼女のことを全て忘れてしまうよ」
「そんな……全部忘れたら、いい思い出も忘れてしまうじゃないじゃないですか」
「憎しみに変わる前に手を打ったんだよ。彼のような短絡的な考え方の方は犯罪に走るかどうかは紙一重なんだ。思い出があるから、人間は執着するからな。これは前の店主から頼まれている事業なんだ。一人でも犯罪者を出さずに幸せになれるようにしてほしいってさ」
「忘れてしまったほうが幸せなことがあるのかもしれませんね」
「これで、明日の新聞に事件の記事が載ることはないな」
結局『よろしくお願いします』のスタンプを送っただけ。既読はついたが、特に連絡もなかった。
正直驚いた。
『今から出かけるから、テレビ局近くの公園前まで来るべし。車で迎えに行くから、待ってろ』
というナル兄からのメッセージが。どういうこと?
そのメッセージは突然だった。命令口調というまさにナルおにいさんらしい誘い方で、休日出勤をを命じられた。
歌い方がダメだったのかな。もしかしたら、踊りを合わせる練習をするとか?
完璧なおにいさんとしては収録までに私に叩き込みたいのかもしれない。
きっとダメだしされるんだろうな。そう、ネガティブに落ち込んでいた。
夜はバーで仕事なのに、昼にまで鬼監督に会わなければいけないとは、ちょっと災難だ。
既に彼の特性は理解している。
同じステージに立つ同士としての足りない部分を説教されることを覚悟して、メイクをして向かうことにした。
でも、どこで振り付けの練習するのだろう。バーの中だと狭いし、もしかしたら、カクテルについて教えるとかなのかもしれない。
公園に行ってみると、入り口脇にナル兄らしき人が乗っている高級な車があった。
「おまえと仕事してからちょっと肩の荷が下りたんだよな。今まで張りつめていたものがちょっと抜けた感じがする。何年も息を殺して生活していると息が詰まってさ。俺って音楽しかやってこなかったし、親が厳しかったんだよな。たまには遊びに行きたいけど、一人ってのもつまらないしさ」
「今日は、どの曲の振り付けをするのでしょうか?」
一応、持ってきた振り付けの説明の紙と楽譜を取り出しながら指示待った。すると、ナルおにいさんが笑った。
「休日にまで、楽譜持ってきたのか? 仕事やる気満々だな。でも、あいにく今日は俺が仕事モードはオフなんだよな」
「え? じゃあなんで? こんなところに呼び出したのですか? カクテル作りとか仕事の打ち合わせでしょうか?」
思わず思ったことを口にしてみた。
だって、仕事しないならば、私たちが会う必要はないのだから。
「仕事抜きで会うのは嫌か?」
ちょっとむっとした顔をされてしまった。
失礼だったのだろうか。いや、普段失礼なのは神酒成樹のほうだ。
「そういう意味ではないですけど……」
「どうせ暇人だろ。彼氏もいないし」
「そのとおりですが」
「まぁ、お前みたいな女と付き合いたいなんていうのはかなり物好きだろうな」
「ひどーい。どうして私にばっかり毒舌なんですか。ファンが私なんかといるところを見たらマスコミに通報されますよ」
「マスコミには仕事の打ち合わせで、いいだろ。それか、真剣交際してるでもいいかもな」
少しいじわるな笑い方をする。
やっぱり好きだなと思う。
「何それ、真剣交際ってどういう意味ですか?」
「あぁ、結婚すれば交際じゃないから問題ないよな?」
「そーいうことじゃないでしょ」
いくらいつものからかいだとわかっていても、頬が少し熱くなるのがわかる。
ナルおにいさんの顔色は全然変わらない。
やっぱりイケメンが美人でもない女性をからかって面白がっているだけなのだろう。
ちょっとくやしいけど、この笑顔は自分に向けてなのだと思うと案外嫌でもない。
ふと見ると、ナルおにいさんはやっぱりかっこいい顔立ちで、のどかをじっと見つめていた。
神酒成樹は、シャープなフェイスライン、きれいな瞳、きめ細かい肌、うらやましいくらいの小顔を持ち合わせていて、運転をする横顔に、つい見とれてしまった。
「俺にみとれてんじゃないぞ」
のどかのことを掌で転がしているとしか思えない。
神酒成樹は暇なのだろうか?
なんで夜にもバーで会うにもかかわらず、休日昼間に誘ったのだろうか?
疑問点は多々あった。
しかし、のどかはあまり深く考えない性格なので、今日の天気の良さに心地よくなっていた。
風が優しく包んでくれる日差しのやわらかい午後。割と好きな人の隣にいる。
キッズソングの番組あてにも感想と提案も長文で送っていた。
のどかの青春は歌に捧げたと言っても過言ではない。
それは、今の仕事をしたいから、歌を学んだのだし、何よりも音楽と子供が大好きだった。
ナルおにいさんは思った人とは違うけれど、テレビでは見せない根性とかプロ意識は楽屋でこそ感じられる。
やぱり良かった。この仕事ができて。
そんなことを考えていると眠くなってしまった。大きなあくびをすると、
「海まで運転するから寝ててもいいぞ。いびきかいても知らんけどな」
本当に嫌味な人だ。
神酒成樹はどの程度好きっていう気持ちがあるのかな。
同僚として好き、友達として好き、どちらだろう。
でも、よくよく考えると、どちらも好きの程度はあまり大差ないことに気づいてしまう。
そんなことを考えているうちに海の見える場所までやってきた。
この時期は人が誰もいない。それはまるで、自分たちだけのために海が待っていてくれたかのように錯覚してしまう。
そんなはずはないことは承知だけれど、だれもいない海は、天気はいいけれど、少し肌寒かった。
潮の香りが漂う海の風はしょっぱくてきもちがいい。髪の毛が風で揺れる。
「なんで、海に来たの?」
「疲れたら、海だろ。俺の場合は、広い海が癒されるんだよ。おまえも仕事に疲れが出る時期だろ。海に癒してもらえ」
もしかして、この人なりのねぎらいの行動なのかな?
たしかに、新人は特に疲れが出やすい時期だ。五月病という言葉があるくらい、少し慣れてきたこの時期がどっと疲れが出るのだ。意外と、気配り上手みたいで、純粋にうれしい。
「叫びたい事があれば、海に向かって叫ぶと、わりとすっきりするけどな」
「ナルおにいさんは絶対ストレスたまらなそうな気がするけれど……」
「俺は、繊細な音楽家でありバーテンだ。ストレスだらけだけど、最高のパフォーマンスを見せるために、がんばっているんだっつーの」
そうか、そうなのか。この人の魅力は、いつも全力で仕事に立ち向かっているから視聴者に愛されているのかもしれない。
プロとしての取り組みがお茶の間まで伝わっているからこんなに人気者になったのだろう。
疲れるときもあるし、いらいらするときも、体調の悪い時もきっとあると思う。それでも、毎日笑顔を作っている影には努力と苦労がきっとあるのだと横顔を見て悟ってしまった。
「今日は、たっぷり海と私に癒されてちょうだいね」
茶目っ気たっぷりに言ってみる。
「いや、おまえに癒しは求めていないがな」
真面目な顔で、否定された。
「それと、近々海で撮影するらしいから、寒いの覚悟しろよ。夏服で撮影だから」
「うそー。今日も結構寒いよ」
「番組って先に撮影するから、夏の分は春には撮るんだよ」
「夏にセーター着て撮影もあるらしいからさ」
「そういえば、季節の歌って結構あるよね。スタジオ内ならエアコンがあるけど、外はきつくない?」
「夏休みスペシャルの頃は夏休みに入るから、取りだめしたりスペシャルを放送してつなぐらしい。大人の事情だよ」
私たちのつかの間の休日は滞りなくあっという間に過ぎ去った。
のどのケアを怠らないようにしないといけないので、バーの中は加湿器がいくつか設置されている。
そのままバーテンとして私たちは仕事をする。
一応のどかも髪を茶髪のウェーブのかかった長い髪のウイッグをつける。
顔をテレビやネットにさらしているため、あまり知られるとまずいからだ。
「そういう髪形もわりと似合うかもな」
「褒めるなんて珍しい。今日は春なのに雪でも降るんじゃないですかね。ナルおにいさんはこういう髪形が好きなんですか?」
「今は神酒さんな。それに、俺も鬼じゃないんで、褒めることくらいある」
不器用な人なのかもしれない。
その日の夜、バーにお客さんがやってきた。
神酒さんに相談に来た男性だ。
「実は、失恋したんです。でも、忘れられないんですよね。好きだった気持ちが、憎しみに変わってしまいそうで怖いです。彼女の家に行って話し合おうと思ってもずっと拒否されていて、新しい彼氏に怒鳴られました。俺に対してストーカー扱いですよ。いっそのこと刺し殺してしまって本当の犯罪者として彼女と名前をこの世に残したいなぁ」
「人間は忘れるように脳が作られているそうです。忘れられなかったり、そこだけ覚えているということも人間の悪い部分とも言えますし、いい部分とも言えますね」
冷静沈着な神酒はスマートでクールで紳士的だ。
「はじめてちゃんと付き合った彼女で、恋人らしいことは一通り楽しんだと思います。なんでふられたのかわからないんです」
「人間なんて理由なく恋人をチェンジする生き物だと思いますよ。記憶というのは、美しく塗り替えられていくことが多いんですよ。ささいなケンカやむかっとしたことがあっても美しい思い出に塗り替えるのです」
神酒の言葉は悟りを開いているかのようだ。
「俺、何か悪いところがあったのかな」
一人悶々と悩む男。こういう人がストーカーになるのかもしれないし、犯罪者になることもあるのかもしれない。
「そんなあなたに深海の泡というカクテルを作りました」
「これが噂の創作カクテルですか? 俺、彼女と幸せになりたいんです」
にこりと微笑むと美しいカクテルが出てくる。
「名付けて深海の泡。人魚姫は失恋してしまい泡になって消えてしまうというお話を基に創作したカクテルです」
差し出されたカクテルはビールのような泡が浮いており、炭酸の気泡が上に向かって消えていく。
「青いビールでしょうか? 珍しいですよね。赤いビールなんかもありますけれど」
一口飲むと男はビールの苦みに気づく。見た感じは甘そうなのに実は、苦みを持ち合わせたカクテル。
「深海って不思議だと思いません? 長生きな魚、美しい色の魚、人魚がいてもおかしくないと思うんです。深海をイメージしています。中に入ったカラフルなゼリーは美しい魚のイメージです。心の深い部分の悲しみというのはなかなか取り除くことはできません。この深海の泡は自信作ですよ」
「きっと嫌なことを忘れますよ」
神酒の笑みは本心が読めない。
客が帰るとのどかが質問した。
「神酒さん。今回のカクテルはどんな作用があるんですか?」
「彼女のことを全て忘れてしまうよ」
「そんな……全部忘れたら、いい思い出も忘れてしまうじゃないじゃないですか」
「憎しみに変わる前に手を打ったんだよ。彼のような短絡的な考え方の方は犯罪に走るかどうかは紙一重なんだ。思い出があるから、人間は執着するからな。これは前の店主から頼まれている事業なんだ。一人でも犯罪者を出さずに幸せになれるようにしてほしいってさ」
「忘れてしまったほうが幸せなことがあるのかもしれませんね」
「これで、明日の新聞に事件の記事が載ることはないな」



