金曜日の終業後は楓にとって幸せな時間である。
 
週末だし、深夜に大好きなアニメがあるからだ。
 
いつもは会社を出たらコンビニに寄り、食料とお菓子を調達して、るんるんで家に帰る。
 
でも金曜日の午後七時、まだ会社の最寄駅にも行けず、例の喫茶店に伊東といるのは、言うまでもなく彼に連れてこられたからだ。
 
さかのぼること十分前、会社のエントランスを出て駅に向かっていた楓は、背の高い男性に触れるか触れないかの距離で追い越された。

『例の喫茶店』という声が聞こえたような気がしてハッとすると、視線の先には伊東の背中。
 
ちらりと振り返る彼の目に見つめられたら逆らえない……トゥンク……!。
 
——じゃなくて、弱みを握られているから逆らえない。
 
喫茶店の奥の席、前回と同じところで向かい合いぶつぶつ言う。

「変な呼び出し方しないでくださいよ。びっくりするじゃないですか。スパイじゃないんだから……」
 
相手の本性と手の内をすでに知っているからか、今日は前ほど怖くなかった。

「そう何回も経理部に行けないだろう。変な噂が立ったらどうしてくれる」

「なっ……! それはこっちのセリフです」
 
今日ははじめから本性を現している。
 
そこへ前回と同じ女性の店員が注文をとりにくる。

「コーヒーをお願いします」
 
伊東が先に答えるのを待ち、楓も後に続く。

「あ、メロンクリームソーダをお願いします」
 
伊東がぴくりと眉を動かして忌々しいという表情になった。

「なにか?」

「いや、それより、話がある」
 
伊東がスマホを取り出し、楓に見せた。
 
それを見て、楓はやっぱりなと思った。
 
スパイのやり方で呼び出されたのは驚いたが、呼び出し自体は半分くらい予想していたからだ。