心臓が、うるさい。
足は震えてる。
それでも。
「だから……今行く」
腕を振りほどく。
晴の指が、一瞬だけ名残惜しそうに離れた。
「六花――」
もう、聞こえないふりをした。
視線を前に固定する。
相手の顔を、ちゃんと見る。
――女だって、バレないように。
呼吸を、低く。
喉を、締める。
一気に距離を詰める。
「……っ!」
誰かが気づいた、その瞬間。
私は、走った。
逃げるためじゃない。
止まらないために。
背後で、晴が小さく舌打ちする音がした。
「……ほんと、無茶しやがって」
でも、その声は。
止める声じゃなくて。
追いかける、音だった。
私は、相手の前に立った。
路地裏の真ん中。
逃げ道を塞ぐような位置で、ただ、立つ。
拳は握らない。
構えもしない。
声も、出さない。
――待つ。
視線だけを、相手に向ける。
「……なんだよ」
聞こえている。
でも、返事はしない。
一歩、距離を詰められる。
それでも、動かない。
怒鳴られても。
笑われても。
私は、そこにいるだけ。
「チッ……」
沈黙が、相手の神経を逆撫でした。


